平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――009「けしからぬ修道者(1861年版)」

けしからぬ修道者(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
昔日の修道院にある回廊の大きな壁には、
聖なる真理が壁画に描かれて並んでいた。
その効果は、敬虔なる胎を温め直しては、
その謹厳さの孕む冷たさを和らげていた。
 
キリストのまいた種が花開いていたそのご時世に、
今日では、その名を引かれることも少なくなった、
一人ならぬ著名な修道者が、埋葬場をアトリエに、
純朴なる心で死神の栄光を称えていたものだった。
 
――わが魂は、けしからぬ共住修道士のこの私が、
永遠の過去から歩きまわり、住み続けている墓場。
この忌々しき回廊の壁を飾るものなどなにもない。
 
おお、無為なる修道者よ! いつになったら私は、
私のおかれた情けない惨状の生きた光景をもとに、
わが手の作と、わが眼の愛するものを作れるのか?
 
 

LE MAUVAIS MOINE

 
 
Les cloîtres anciens sur leurs grandes murailles
Étalaient en tableaux la sainte Vérité,
Dont l’effet, réchauffant les pieuses entrailles,
Tempérait la froideur de leur austérité.
 
En ces temps où du Christ florissaient les semailles,
Plus d’un illustre moine, aujourd’hui peu cité,
Prenant pour atelier le champ des funérailles,
Glorifiait la Mort avec simplicité.
 
— Mon âme est un tombeau que, mauvais cénobite,
Depuis l’éternité je parcours et j’habite ;
Rien n’embellit les murs de ce cloître odieux.
 
Ô moine fainéant ! quand saurai-je donc faire
Du spectacle vivant de ma triste misère
Le travail de mes mains et l’amour de mes yeux ?
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/Le Mauvais Moine - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』第9の詩「けしからぬ修道者」の韻文訳が完成した。完成したと言いながら、なんだかんだで以前に公開した韻文訳には一つ残らずあとから修正を加えているので、きっと今回も完成したと思っているのは今だけだろう。
 

 
 今回も邦題の解説からはじめよう。「LE MAUVAIS MOINE」の既存の邦訳のタイトルは翻訳者によって完全にバラバラである。さっそくいつもの4冊を確認しよう。*1堀口大學訳は「悪僧」(堀口訳,p.47)、鈴木信太郎訳は「ぐうたら修道僧」(鈴木訳,p.50)、安藤元雄訳は「不出来な僧侶」(安藤訳,p.39)、阿部良雄訳は「無能な修道僧」(阿部訳,p.52)としている。
 
 以前から表明しているとおり、私は翻訳する際に外国の文化を日本にある類似の文化に置き換えてはいけないと考えている。このルールに照らして私が不適切だと考えるのは、moine(モワーヌ)の訳語に採用されている「僧」と「僧侶」である。
 
 周知のとおり、「僧」という漢字はそれだけで仏教の僧侶を意味するため、修道「僧」という表現は本来おかしい。だが、moineは仏教の僧侶の呼称にも使われるので、折衷案としてならわからなくはない。しかし、キリスト教の修道士を「僧」や「僧侶」と呼ぶのは完全にアウトだ。不可思議なことに、阿部は本文中に2回登場するmoineの一方をなぜか「僧」と訳している(阿部訳,p.52)。
 
 では、どうして私の新訳は「修道士」ではなく「修道者」となっているのかと言うと、フランスの「修道士」の呼称には、一般にはreligieux(ルリジユー)が使われているからである(「修道女」はreligieuse(ルリジユーズ))。よって、moineには「修道士」以外の訳語を選ぶしかない。原文9行めのcénobite(セノビット)を「共住修道士」としたのも同じだ。別々の単語である以上、可能な限り訳語も区別しなければならない。cénobiteとは、「共住生活を送る修道会に属する修道士」である。
 
 翻訳者によって見事にバラバラのmauvais(モヴェ)は、英語のbadに相当する形容詞であり、badと同様に非常に多様な使われ方をする単語だ。堀口以外の三方は「どんなふうに悪いか」についての解釈を加味して意訳しており、いずれの解釈もまちがいではない。
 
 私がこの詩のmauvaisを「けしからぬ」と翻訳した理由は、以前の「灯台」に登場した「けしからぬ天使たち(mauvais anges*2)」と、『パリの鬱屈』でも9番めに収録されている散文詩「けしからぬガラス屋(LE MAUVAIS VITRIER*3)」とそろえるためである。この三つをそろえるとすると、「悪い」では「ガラス屋」の詩の中身とミスマッチだし(「悪い」のはボードレール本人と思しき語り手である)、「ぐうたら」と「不出来な」と「無能な」は「天使たち」とマッチしない(「不出来な」はドラクロワに怒られる)。
 
 というわけで、適度に「悪さ」の中身が不確定で、かつ三つの詩の中身ともマッチする「けしからぬ」を訳語にすることに決めた。この種のパズルを解くことも翻訳の楽しみの一つである。こんなことをしているからぜんぜん進まないのかもしれないが。
 

「けしからぬ修道者」と「死の勝利」

 
「けしからぬ修道者」は、解説なしで理解することが極めて難しい詩作品である。それは表現の難解さのせいばかりではなく、この詩の舞台と時代背景についての知識がないと、なにが描かれているのかわからないからだ。
 
 過去の研究者の草稿研究により、この詩の舞台となっている修道院は、イタリアのピサにあるカンポサント(納骨堂)がモデルであるとする見方が通説となっている。
 

 
 そして、原文8行めの「Glorifiait la Mort」は、カンポサントの回廊の壁に描かれた壁画「死の勝利(死の凱旋)」を暗示していると考えられている。「死の勝利」とは、有名な「死の舞踏(danse macabre)」と並ぶ中世キリスト教美術を代表するテーマである。
 

 
 この説を念頭においてこの詩を読めば、「昔日の修道院にある回廊の大きな壁には(Les cloîtres anciens sur leurs grandes murailles)」や、「埋葬場をアトリエに(Prenant pour atelier le champ des funérailles)」といった詩句のイメージを難なくつかむことができるだろうが、知らなければまったくお手上げになってしまうというわけだ。ちなみに、毎回参考にしている4冊の邦訳書のなかでは、阿部良雄訳だけが訳註でこの説に言及している(阿部訳,pp.52-53)。
 
 しかしながら、ここまではただの入口にすぎない。問題は「Glorifiait la Mort」をどう解釈するかなのだが、そこには、ボードレールの詩作の方法とも密接につながった一筋縄ではいかない壁が立ち塞がっている。
 

カンポサントの死神のいない「死の勝利」

 
「Glorifiait la Mort」は、ほんとうにピサのカンポサントの「死の勝利」を連想させることを意図した詩句なのだろうか。もちろん、単純にそう考えていいのかもしれないのだが、そこで引っかかるのが、それに続く「avec simplicité」という詩句である。
 
 私の新訳では「avec simplicité」を「純朴な心で」と意訳しているが、この語句の解釈には諸説あり、文字どおりそのまま「シンプルに」と解釈している翻訳者も多い。参考までにほかの訳者の「Glorifiait la Mort avec simplicité」の訳文を確認しておこう。
 

堀口訳 「素朴なる絵に描きて、「死」をば賛えき」(p.48)
 
鈴木訳 「純眞な畫筆を振つて、死に榮光を齎らした」(p.51)
 
安藤訳 「単純素朴に「死」をほめたたえていたものさ」(p.39)
 
阿部訳 「単純明快なかたちで、〈死〉を輝かしめていた」(p.52)

 
 こうして並べてみると、訳者によってsimplicitéの解釈までバラバラなのもおもしろい。まとめると、鈴木が「壁画の作者の心のあり方」と解釈しているのに対し、堀口と阿部は「描かれた壁画の特徴」と解釈する立場を取っている。安藤はうまくそのあいだを取った折衷案といったところだろうか。
 
 私の新訳は鈴木派だが、少なくともテクストを読む限りでは、壁画の特徴ととる読み方を斥けるような記述は見当たらない。したがって、ここでは両方の意味がかけられているという見方をしてもいいだろう。ただし、この詩行が「死の勝利」を暗示するのならば、堀口や安藤の「素朴な」という形容は「死の勝利」の禍々しい画面とマッチするとは言いがたい。
 
 問題は、阿部訳の「単純明快な」という形容が、果たしてカンポサントの「死の勝利」に当てはまるかどうかだ。先ほどのウィキペディアの「死の勝利」のページで紹介されている作品を見比べてみてほしい。たとえば、最も有名なブリューゲルの絵画と比較しても、両者のあいだにはほとんど共通点を見つけることができない。
 

 
「外国の諷刺画家たち数人」(1857年)においてブリューゲルを絶賛したボードレールは、もちろん彼の「死の勝利」を知っている。「死の勝利」をモチーフとしている以上、このブリューゲルの油彩画はつねにボードレールの念頭にあったはずだ。しかしながら、カンポサントの壁画には、ブリューゲルのみならず、「死の勝利」を描いた作品の多くに共通する、無慈悲に、無差別に人々に死をもたらす骸骨の姿をした死神が登場しない。
 
 この大きなちがいにより、カンポサントの壁画は「死の勝利」の先駆けではあったものの、それを代表する作品と言えるかどうかについては疑問がある。さらに悪いことには、ブリューゲルに代表される「死の勝利」のイメージをあらかじめもっている者にとって、カンポサントの壁画は決してわかりやすい作品とは言えない。
 
 まさにこの難点が、「けしからぬ修道者」においてボードレールがカンポサントの壁画をストレートに連想されることを回避した理由かもしれないのだ。『「悪の花」註釈』によれば、草稿には存在したカンポサントの「死の勝利」の作者の名が、雑誌掲載の段階で別の詩句に差し替えられている(現在は別人の作と考えられている)。
 

 ○v. 12. moine fainéant !(ぐうたらな僧よ):自筆草稿では,Impuissant Orcagna !(無力のオルカーニャ)。
 Orcagna は14世紀のイタリアの画家,彫刻家,建築家。フローレンスのサンタ・クローチェの聖者の壁画などを描く。シェリックスによればここで暗示されているのは,ピサの墓地。*4

 
 この詩の舞台のモデルがピサのカンポサントである証拠として挙げられるこの書き換えの事実は、同時に、ボードレールがなんらかの理由でそこがカンポサントだと特定されることを避けようとしたことをも示している。同じことは、原文6行めの「一人ならぬ著名な修道者が(Plus d’un illustre moine)」についても言える。ボードレールは特定の芸術家の作品を想起させようとはしていないのだ。両者をあわせて考えると、「死の勝利」の作者の名の抹消は、特定のだれかの作品ではなく、「死の勝利」をテーマとする作品すべてへの連想に読者を導くためのものであるという見方が可能となる。
 
灯台」のメダイヨンを思い出してほしい。そこでボードレールは、特定の芸術家の名を挙げていながら、当の芸術家の特定の作品を讃美するのではなく、自身の好むいくつかの作品を組み合わせたイメージを作り上げていた。しかもそれは、ゴヤメダイヨンが顕著だったように、ピックアップした作品の精緻な再現ではなく、ボードレール自身の嗜好や願望を強く反映したものだった。*5
 
灯台」と同様に、「けしからぬ修道者」において提示されているのもボードレール自身の「死の勝利」のイメージであると解釈しうるだろう。これがボードレールの詩作の方法に関連する解釈の難しさだ。では、ボードレールのイメージしていた「死の勝利」とは、どのようなものだったと考えられるだろうか?
 

悪の華』に出没する死神たち

 
「けしからぬ修道者」に描かれた「死の勝利」は、単純明快なかたちで(avec simplicité)la Mortの栄光を称えた(Glorifiait)ものでなければならない。
 
 このla Mort(ラ・モール)を、私の新訳では「死神」と訳しているが、私以外の既存の邦訳では例外なく括弧つきの「死」と訳されている。だが、定冠詞つきでかつ大文字表記の場合、mortは「死神」を意味することは、仏和辞典にも載っているよく知られた用法のはずだ。
 

➌ ⸨la Mort⸩ 死に神

mort(フランス語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 仏和辞典

 
 もちろん、文脈によっては必ずしも「死神」を意味するとは限らない。たとえば、先ほど紹介したカンポサントの「死の勝利」も、ブリューゲルの「死の勝利」も、フランス語では「Le Triomphe de la Mort(ル・トリヨーンフ・ドゥ・ラ・モール)」と表記するが、前者のほうの「la Mort」を「死神」と解釈するのは不適切だろう。
 

 
 しかしながら、ブリューゲルの絵画のように死神そのものが登場する場合や、文脈上明白な擬人化が認められる場合であれば、la Mortを「死神」と解釈することにはなんの問題もないはずである。
 
「栄光」を意味するgloire(グロワール)の動詞形であるglorifier(グロリフィエ)には、「glorifier Dieu(神の栄光を称える)」という用法がある。よって、「Glorifiait la Mort」は、語釈上はそれだけでもla Mortの神格化が成立しているとみなしうる。問題は、やはり文脈上そこに死神が登場しているとみなせるかどうかだが、ボードレールはカンポサント以外の「死の勝利」がそこに含まれることも示唆しているのだから、問題の詩行のla Mortを「死神」と解釈しうる条件はそろっていると言っていいだろう。
 
 さらに言えば、ボードレールが「Glorifiait triomphe de la Mort」というようなストレートな表現ではなく、「Glorifiait la Mort」というやや遠まわしな表現を選んだ理由は、作品を象徴する顕著な特徴からその作品への連想を導くためであるという見方もできるだろう。だとすれば、この詩行のla Mortはどうあっても「死神」でなければならないはずだ。
 
 ところで、邦訳だけを読むと、この箇所の「死」は「イエスの十字架上の刑死」を象徴しているという読み方ができてしまう。しかしながら、la Mortにそのような用法はない。そのような重要かつ誤解を招きやすい用法があるなら絶対に辞書に載っているはずだが、私が探した限りでは、そのような用例はどこにも見当たらなかった。したがって、問題の詩行は、そのようには読めないように翻訳する必要がある。
 
 お気づきの方がいらっしゃるとうれしいが、『悪の華』にla Mortが登場するのは今回の「けしからぬ修道者」がはじめてではなく、序詩の「読者に」に登場したのが最初である(赤字は引用者)。
 

百万匹の蛔虫のごとく、詰め寄せて、群れをなし、
われらの脳内では悪霊どもの大群が酒宴に興じる。
われらの呼吸のたび、死神は目に見えぬ河と化し、
耳に聞こえぬ苦悶の声を上げて肺中へと流れ下る。

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み1――韻文訳「読者に(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Serré, fourmillant, comme un million d’helminthes,
Dans nos cerveaux ribote un peuple de Démons,
Et, quand nous respirons, la Mort dans nos poumons
Descend, fleuve invisible, avec de sourdes plaintes.

Les Fleurs du mal (1861)/Au lecteur - Wikisource

 
 ここでla Mortは「耳に聞こえぬ苦悶の声(sourdes plaintes)」を上げているのだから、擬人化されていることは明白である(擬「人」というのはおかしい気もするが)。「悪霊どもの大群」に続いて登場する流れからしても、ボードレールがこのシーンに死神を加えようとしていることは明らかだろう。詩のそれぞれの連を「絵」として見たときにどんな画面ができ上がるかボードレールが絶えず意識していたことは、これまでの翻訳ノートで読み解いてきたとおりである。
 
 これ以外にも、la Mortの明らかな擬人化の例としては、「寓意画(ALLÉGORIE)」がすぐに思い浮かぶ(赤字は引用者)。
 

暗黒な〈夜〉に入るべき刻がくれば、
彼女は〈死〉の面を見つめるだろう、
まるで嬰児のように、――憎しみもなく悔いもなく。
(阿部訳,p.261)

Et quand l’heure viendra d’entrer dans la Nuit noire,
Elle regardera la face de la Mort,
Ainsi qu’un nouveau-né, — sans haine et sans remord.

Les Fleurs du mal (1861)/Allégorie - Wikisource

 
 ここで彼女は(Elle)、死の世界へ迎えにきたla Mortの「貌(la face)」を見つめる(regardera)のだから、登場しているのは当然死神だろう。
 
 少々意地が悪い気もするが、「読者に」のla Mortを①、「けしからぬ修道者」のla Mortを②、「寓意画」のla face de la Mortを③として、既存の邦訳がどう翻訳しているか紹介しておこう。
 

堀口訳 ①「「死」」(p.25) ②「「死」」(p.48) ③「「死」の顔」(p.271)
 
鈴木訳 ①「死(傍点あり。以下同)」(p.21) ②「死」(p.51) ③「死の顏」(p.363)
 
安藤訳 ①「「死」」(p.12) ②「「死」」(p.39) ③「「死」を真正面から」(p.307)
 
阿部訳 ①「〈死〉」(p.30) ②「〈死〉」(p.52) ③「〈死〉の面(おもて)」(p.261)

 
 ご覧のとおり、「死神」と訳している例は皆無である。ちなみに、私の旧訳では③だけ辛うじて「死神の貌」(平岡旧訳,p.170)と訳せていた。ほかのはともかく、ここだけはどう考えても「死神」のはずだと当時も思っていたと記憶している。
 
 とは言うものの、さすがにここまで一様に横並びだと、『悪の華』のla Mortを「死神」と訳してはいけないなにか特別な理由でもあるのかと疑心暗鬼に駆られてしまう。今回も心配になったので、念には念を入れてla Mortの古い用例を遡ってみた。
 
 参考になりそうなものとしてすぐに思い浮かんだのは、占いに使われるタロットカードである。その起源を追ってみると、フランス発祥のマルセイユ版タロットボードレールの生まれるまえから広く使われており、そのなかにはすでに大鎌を持った骸骨の姿をした「la Mort」のカードが存在していた。
 


 
悪の華』にはla Mortを「死神」と解釈すべき用例があり、「死神」をla Mortと表記していた実例は『悪の華』以前から存在している。ならば、悪の華』のla Mortを「死神」と訳してはいけない理由はどこにもないとしか私には思えない。この程度のことを新発見と言いたくはないのだが、結果としてそうなってしまっていることを残念に思う。
 
 なにより、悪魔も、幽霊も、吸血鬼も登場する『悪の華』に死神がまったく出てこないのは、奇妙なことではないだろうか? ほんとう登場しないのなら、逆にそのことが一つの謎として、研究の対象とされてしかるべきだろう。
 

戴冠せるメメント・モリ

 
 最後に、ボードレールがイメージした単純明快に死神の栄光を称える「死の勝利」とはどのような絵なのだろうか。ブリューゲルの作品をボードレールは意識していただろうと思われるが、残念ながら、ブリューゲルのものは油彩画であり、それ以外の状況設定からしても、「けしからぬ修道者」の「死の勝利」には当てはまらない。
 
 私が最も「けしからぬ修道者」の「死の勝利」のイメージに近いと考えている作品は、イタリアのクルゾーネにあるディシプリーニ礼拝堂に描かれた壁画である。
 

 
 このフレスコ画では、王冠を戴いて画面の中央に屹立する堂々たる死神の姿が描かれている。これぞ「死の勝利」と呼ぶべき作品だろう。ボードレールがこの壁画を知っていたかどうかの確証はないが、ボードレールのことだから「死の勝利」をテーマとする作品にどんなものがあるか調べた可能性は極めて高いし、ブリューゲルが自身の「死の勝利」を描くまえに行ったイタリア旅行のことを知っていたとすれば、彼をつうじて知った可能性もある。ボードレールは当時のパリを代表する美術批評家でもあったことを決して忘れてはならない。
 
 もう一つ重要な解釈のポイントを挙げておくと、ボードレールがディシプリーニ礼拝堂の「死の勝利」をまったく知らなかったとしても、作者の意図や、作者にまつわる伝記上の事実にはとらわれず、「けしからぬ修道者」の「Glorifiait la Mort」はその壁画を意味すると解釈しうるという見方も成立する。少なくとも、この詩のテクストにはその解釈を許容する条件がそろっていると私は考えている。そう言えば、『悪の華』の謎解きに夢中になるあまり、ここまでテクスト論のことをすっかり忘れていた。
 
「死の勝利」の戴冠せる死神たちが掲げるmemento mori(死を想え)こそ、『悪の華』に流れるキリスト者の血(sang chrétien)」*6にほかならない。ニーチェが憎悪した、この偽りの救済と表裏一体となったニヒリズムこそを、ボードレールは愛したのだ。
 
 そして、「けしからぬ修道者」の「死の勝利」は、『悪の華』の最終章である「死」を予告するものであることは言うまでもないだろう。初版の1857年版のラストを締めくくる「芸術家たちの死」は、まさに「死の勝利」の祈願によってフィナーレを迎える。
 

その持てる唯一の望みは奇妙にして陰鬱なる栄光!
それこそは死があらたな太陽のごとく天上に燦き
彼の者らの脳裡の花々を咲かせてくれる日の来訪!
(平岡旧訳,p.209)

N’ont qu’un espoir, étrange et sombre Capitole !
C’est que la Mort, planant comme un Soleil nouveau,
Fera s’épanouir les fleurs de leur cerveau !

Les Fleurs du mal/1857/La Mort des artistes - Wikisource

 
悪の華』の最後に広がるのは、「死」に照らされたメメント・モリの花園である。
 

 

参考リンク



 

ボードレール/平岡公彦訳『韻文訳 悪の華 1861年版』目次

読者に(2022.10.23一部改訳)(朗読動画追加)

鬱屈と理想

1 祝福(2021.9.12一部改訳)
2 アホウドリ(2021.8.22一部改訳)
3 上昇(2021.11.7一部改訳)
4 照応(2022.5.8一部改訳)
5 無題(私が愛するのは、……)(2022.10.2一部改訳)
6 灯台(2022.6.19大幅改訳)
7 病を得るミューズ(2022.7.24一部改訳)
8 魂を売るミューズ(2022.10.2誤訳訂正)
9 けしからぬ修道者