平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――007「病を得るミューズ(1861年版)」

病を得るミューズ(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
わが不憫なミューズよ、ああ! 今朝はどうしたんだ?
落ちくぼんだ君の両目に、夜の幻が住みついているよ。
それに君の面持ちにも、冷たく無口になった
狂気と怖気が、代わるがわる映って見えるよ。
 
薄緑色のサキュバスと、薔薇色のリュタンが、
そいつらの水甕から恐れと恋心でも君に注いだのかい?
そうやって横暴で悪戯な拳をふるった悪夢が、
伝説のミントゥルナエの沼の底まで君を沈めたのかい?
 
私は願っているよ。君の胸がまた健康の匂いを発散し、
いつでも力強い考えの訪れる場となってくれるように。
君のキリスト者の血も滔々とリズムよく流れるように。
 
詩歌の父、フォイボスと、刈り入れの主、
偉大なるパンが代わるがわる統べていた、
古代の音節のもつ数ある響きのようにさ。
 
 
(2022.7.24一部改訳)

LA MUSE MALADE

 
 
Ma pauvre muse, hélas ! qu’as-tu donc ce matin ?
Tes yeux creux sont peuplés de visions nocturnes,
Et je vois tour à tour réfléchis sur ton teint
La folie et l’horreur, froides et taciturnes.
 
Le succube verdâtre et le rose lutin
T’ont-ils versé la peur et l’amour de leurs urnes ?
Le cauchemar, d’un poing despotique et mutin,
T’a-t-il noyée au fond d’un fabuleux Minturnes ?
 
Je voudrais qu’exhalant l’odeur de la santé
Ton sein de pensers forts fût toujours fréquenté,
Et que ton sang chrétien coulât à flots rhythmiques,
 
Comme les sons nombreux des syllabes antiques,
Où règnent tour à tour le père des chansons,
Phœbus, et le grand Pan, le seigneur des moissons.
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/La Muse malade - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』第7の詩「病を得るミューズ」の韻文訳が完成した。いろいろと試行錯誤した結果、MALADEには予告したタイトルとは別の訳語をあてることになった。これは姉妹編である次の「魂を売るミューズ(LA MUSE VÉNALE)」とそろえるためだ。そちらの韻文訳もほぼできているのだが、それは次回のお楽しみとしておきたい。
 

 
「病を得る」とは、「病気になる」という意味の文語表現である。これでは「病気を手に入れる」という意味だと誤解されてしまいそうだが、この「LA MUSE MALADE」には、「病というモチーフを手に入れた詩の女神」というテーマが暗示されていると読むことも可能なので、この誤読の可能性はむしろ好都合なのだ。そして言うまでもなく、病とは、『Les Fleurs du mal』、すなわち「病める花々」のメインテーマにほかならない。だからこそ、彼女が姉として先に登場するというわけだ。
 
 今回、前回の「灯台」で「のごとく」と訳していたcommeを「のように」に直す方法を思いついたので、大幅に改訳した。そちらもぜひ読んでみてほしい。
 

リュタンのいたずらでサキュバスに恋をするミューズ

 
 今回の「病を得るミューズ」はそれほど難解なところのない詩だと思っていたのだが、阿部良雄訳の『ボードレール全集Ⅰ』に次のような註釈を見つけて、私は「こんな誤読をする人がいるのか!」と頭を抱えてしまった。
 

 succube 夜中に眠っている男と交接するという女の夢魔(中世キリスト教伝承)。ここは女を襲うのだから男の夢魔incubeでなければならず、こうした語の取り違えも、若年の作であることを示す(プレヴォー)。*1

 
 そんなバカな! エリファス・レヴィの魔導書や錬金術の本まで読み漁っていたほどの重度のオカルトマニアだったボードレールが、そんな常識中の常識の「取り違え」をしたと、本気で思ったのだろうか?
 
 問題の箇所を再確認しておこう。
 

薄緑色のサキュバスと、薔薇色のリュタンが、
そいつらの水甕から恐れと恋心でも君に注いだのかい?
そうやって横暴で悪戯な拳をふるった悪夢が、
伝説のミントゥルナエの沼の底まで君を沈めたのかい?

 
 ここで見落としてはならないのは、サキュバス(succube)といっしょに登場しているリュタン(lutin)の存在である。リュタンとは、フランスの民話に出てくるいたずら好きの妖精だ。「小悪魔」や「小妖精」と訳されたりもするが、リュタンはフランスの民話のなかにしか登場しないのだから、日本語にもとからある名詞に置き換えるべきではない。エルフやコボルトドワーフに似ているという説もあるけれども、似ているからといって置き換えられるわけではない。なので、私は原語の音に近いカタカナ表記とした。
 
 ここにリュタンが登場するからには、ミューズはなにかいたずらをされているはずだ。でなければ、ここにリュタンが出てくる意味がない。では、彼はどんないたずらを仕掛けたのか? ミューズの悪夢にインキュバス(incube)ではなくサキュバスを呼び出したのである。にもかかわらず、ミューズはサキュバスに恋をして(l’amour)しまった。それもリュタンの仕業なのか、それともサキュバスが本気を出したからなのかはわからないが、目が覚めたミューズは、そのことに取り乱し(La folie)、怖気を震う(l’horreur)というわけだ。それが悪夢の「横暴で悪戯な拳(d’un poing despotique et mutin)」である。
 
 さらに言えば、古代ローマの将軍ガイウス・マリウスが、追っ手から逃れるために身を潜めたとされるミントゥルナエの沼は、ミューズがなにかから逃げようとしていることを暗示している。では、沼の底にでも沈んだかのように汗びっしょりになったミューズは、なにから逃げようとしたのだろうか? 言うまでもなく、自分はレズビアンかもしれないという恐れ(la peur)と、サキュバスに抱いた恋心である。このように、第2連の悪夢はひと続きのストーリーとして読むことができる。
 
 読解のポイントは、原文第2連3行めの脚韻を担うmutin(ミュタン)である。既存の邦訳では、この形容詞は「反抗的な」もしくは「反乱を起こす」という古い意味で解釈されてきたようだが、いつも参考にしている4冊でも解釈はまちまちだ。確認しておくと、鈴木訳では「執念深い」(鈴木訳,p.47)、安藤訳では「容赦なく」(安藤訳,p.35)、阿部訳では「手ごわい」(阿部訳,p.49)と訳されている。堀口訳のその行には「夢魘の鬼めが手玉にとって」(堀口訳,p.45)などと書いてある。ひどい訳だとは思うが、意訳としてありえないとまでは言えない。*2
 
 だが、このmutinは、いたずら好きの妖精であるリュタンと脚韻で結びついている以上、もう一つの「いたずら好きな」という意味で解釈するしかないと私は考える。このmutinの位置づけに気づけば、引用部3行めの「悪夢」が、上の2行とは別の悪夢ではなく、それを言い換えたものであることもわかる。そしてなにより、このmutinのおかげで、そのまえの2行がリュタンの仕掛けたいたずらであることが明らかになるのだ。
 
 最初の浅薄な発言は撤回しよう。この連は恐ろしく難解だった。私も最初からすんなりこの読み方にたどり着けたわけではない。この解説を書いている途中で、ようやくなにが書いてあるのかわかったというのが正直なところだ。実際、先週までは第2連の翻訳は次のようになっていた。一見問題なさそうに見えるだろうが、残念ながらこれは誤訳である。
 

薄緑色のサキュバスと、薔薇色のリュタンが、
それぞれの水甕から恐れと恋心でも君に注いだのかい?
それとも、専制と叛乱の拳をふるった悪夢が、
伝説のミントゥルナエの沼底にでも君を沈めたのかい?

 
 それでも、「病を得るミューズ」が同性愛の詩だということは、原文第2連2行めにあるl’amour(愛情または恋愛感情)を見ればだれでもわかるはずだ。
 
 冒頭のタイトルの解説でもふれたとおり、この詩には『悪の華』という詩集のタイトルのタネ明かしという面がある。そして、この詩集のタイトルは、雑誌に掲載された初期の予告では『レスボスの女たち(Les Lesbiennes)』とされていたという有名なエピソードがある。*3タイトルにこそ採用されなかったものの、これは「悪の華」の章で披露されるレズビアン詩群の構想が最初期からあった証拠だ。
 
 詩集のタイトルにしようとしたくらいだから、レズビアンを代表とする性のタブーも、この詩集のメインテーマであると見てまちがいない。だからこそ、『悪の華』のシンボルと言うべき「病を得るミューズ」で描かれねばならなかったのだ。こう読んではじめて、この詩のミューズを百合好きのボードレール自身の分身とみなすこともまた可能となる。そしてなにより、当時は病気扱いされていた同性愛がこの詩の「病」ではないとすれば、ミューズはいったいなんの病気に罹ったのかわからない。
 
 リュタンのいたずらには気づけなかったとしても、裁判で有罪となり、削除を余儀なくされた「悪の華」のレズビアン詩群を知る読者なら、ここにサキュバスが登場する必然性には気づいてもらわなければ困る。サキュバスとは、イポリットを誘惑するデルフィーヌのことなのだ。ほかにも、「祝福」のハルピュイアや「理想」のマクベス夫人と同じく、「男を翻弄する悪女」というボードレールが偏愛したモチーフを、『悪の華』を象徴するこの詩にも登場させたかったのだろうという見方もできる。
 
 このように、「取り違え」を勘繰るまえに考慮しておくべき可能性はいくらでもあったはずだ。
 

ドラクロワのカンヴァスに描かれたゴヤの悪夢

 
 同性愛や性倒錯のモチーフは、「病を得るミューズ」で唐突に出てきたわけではない。それらのテーマは、実は「灯台」のメダイヨンから受け継がれたものである。
 
「病を得るミューズ」と「灯台」のメダイヨンは、三つのキーワードによってつながっている。一つは、先ほどの第2連に登場する「悪夢(cauchemar)」である。この不吉な単語は、『悪の華』では「灯台」のゴヤメダイヨンにおいてはじめて登場する。すなわち、「病を得るミューズ」のcauchemarは、「ゴヤの悪夢を想起せよ」というボードレールのサインなのだ。
 
 このイマージュのオーバーラップを際立たせるサインとして、ボードレールが用意したあと二つのキーワードが、「薄緑色のサキュバス」の「薄緑色(verdâtre)」と「薔薇色のリュタン」の「薔薇色(rose)」だ。わざとらしいほどあからさまに異様な配色だとだれもが思うだろう。ボードレールがこういう書き方をしているときは、「なにか仕掛けているな」と勘繰ったほうがいい。そのほうがおもしろい。
 
 ちなみに、verdâtreは具合の悪いときの顔色を表すこともあり、roseも鮮やかな赤ではなく、ロゼワインのような淡いピンク色なので、個別に見ればそれほどおかしな表現というわけでもない。だが、この箇所の組み合わせは、明らかに読者に違和感を抱かせることを狙っているとしか思えない。
 
 サキュバスとリュタンの異様な配色の組み合わせが、樅の木の緑と血の湖の赤という、ドラクロワメダイヨンの配色とオーバーラップさせるための手法だと気づけば、それが意図するものもまた見えてくるだろう。
 

ドラクロワ、けしからぬ天使たちの出没する、
常緑の樅の森が陰を落とした血の湖。
憂愁の空の下、異様なファンファーレが通る。
ウェーバーの息づまる嘆息のように。

ボードレール『悪の華』韻文訳――006「灯台(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Delacroix, lac de sang hanté des mauvais anges,
Ombragé par un bois de sapins toujours vert,
Où, sous un ciel chagrin, des fanfares étranges
Passent, comme un soupir étouffé de Weber ;

Les Fleurs du mal (1861)/Les Phares - Wikisource

 
灯台」においてドラクロワが代表しているのは、言うまでもなく現代のフランスの芸術である。それを際立たせるために、ピュジェ、ヴァトーとフランスの芸術家が続いたあとに、わざわざスペインの画家であるゴヤを挟んだのではないかという疑いさえある。そこで描かれているドラクロワメダイヨンのイメージカラーが象徴するのもまた、現代にほかならない。
 
 このドラクロワのカンヴァスとのオーバーラップは、古代ギリシャの神であるムーサをモチーフとする「病を得るミューズ」の舞台が、ドラクロワの登場以後であることを印象づけるための演出であると考えられる。実は、この詩だけをよく読んでみても、この作品の舞台が現代であることがはっきりわかる描写は存在しない。先行する無題詩と「灯台」からの流れと、こうしたイマージュのリレーによってはじめて、この作品が現代を描いていることがわかるしくみになっているのである。
 
 verdâtreとroseについては、フランス文学者の佐々木稔が非常に見事な読解を提示している。
 

 ミューズを責め苛む「緑がかった夢魔と薔薇色の小鬼」については、これらの色彩をボードレールが好む「赤と緑」の組み合わせが薄弱したものと捉えるならば、頽廃したロマン主義の匂いをここに嗅ぎ取ることもできる。色彩について少し付言するならば、『悪の華』にも収められた詩篇「理想」の中で、ボードレールは自らの「理想の赤」に「血の気の失せた薔薇 ces pâles roses」を対置する。*4

 
 薔薇色とは衰弱した赤であり、薄緑色とは萎黄病の症状である。*5赤と緑がドラクロワが代表するフランスロマン主義のシンボルならば、それが薄まった薔薇色と薄緑色が象徴するのはその没落、すなわちポストロマン主義の時代だというわけだ。おかげで、完全にパズルのピースがそろった。
 
 このように、ボードレール色彩のサンボリスムもまた、『悪の華』を読み解く重要な鍵となっているのである。
 

悪魔の生贄に供される子供たちとジル・ド・レ

 
 では、「灯台」のゴヤの悪夢は、「病を得るミューズ」の見る悪夢にどのような効果をもたらしているのだろうか。
 

ゴヤ、未知なるものに満ちた悪い夢。
サバトの渦中に火にかけられる胎児、
鏡を見る老婆たち、悪霊どもを誘惑するため、
ストッキングをよくのばす真っ裸の子供たち。

ボードレール『悪の華』韻文訳――006「灯台(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Goya, cauchemar plein de choses inconnues,
De fœtus qu’on fait cuire au milieu des sabbats,
De vieilles au miroir et d’enfants toutes nues,
Pour tenter les démons ajustant bien leurs bas ;

Les Fleurs du mal (1861)/Les Phares - Wikisource

 
 ここに描かれているのは、ボードレールが、ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』から得た着想をひとまとめにした魔女の集会である。引用部3行めの鏡を見ている魔女と思しき老婆たちは、ただ化粧をしているのではなく、悪魔と性交をするための準備をしているのであり、それは3行めの「真っ裸の子供たち(d’enfants toutes nues)」も同じである。
 
 ところで、ここで私が原文のとおり「子供たち」と訳した「enfants」を、既存の邦訳は例外なく「女の子」と解釈している。確認しておくと、堀口大學は「少女」(堀口訳,p.43)、鈴木信太郎は「少女」(鈴木訳,p.44)、安藤元雄は「娘たち」(安藤訳,p.33)、阿部良雄は「少女ら」(阿部訳,p.48)と訳している。
 
 解釈として不自然なわけではないので、誤訳だと言うつもりはない。だが、私の新訳を読んだ方がこの箇所を「子供たち」と訳しているのを見て首をかしげるように、この箇所を読んだフランス人も、ここにfilles(娘たち)でもfemmes(女たち)でもなくenfantsと書いてあるのを見て、「なんでenfants?」と疑問に思うはずなのだ。その意味で、ここで使われているのは「病を得るミューズ」のsuccubeとまったく同じ手法であると言える。すなわち、読者に違和感を抱かせることこそが狙いなのだ。
 
 このenfantsについて、フランス文学者の西川長夫は、『「悪の花」註釈』において注目すべき指摘をしている。
 

『ロス・カプリチョス』の第17画『上手に引張れた』Bien tirade estàが指摘されている。若い女が膝をまくってストッキングをなおしている傍で老婆がなにか忠告を与えているような絵であるが,女は着物を着ていて裸ではないし,またenfants(子供)という若さでもない。なおet d’enfants toutes nuesは1857年の草稿ではavec des vierges nues(裸の処女たちとともに)となっていたという。*6

 
 ボードレールは、草稿ではvierges(処女たち)と書いていたのを、決定稿ではenfantsに書き直していたのである。ならばなおさら、なぜボードレールはそのように書き直そうと思ったのかを考える必要があるだろう。だが、viergesをわざわざ性別のあいまいなenfantsに書き換える理由など、一つしか考えられない。
 
 ゴヤの悪夢に描かれたサバトで行われる悪魔と人間の乱交パーティーでは、老人性愛とともに、小児性愛も繰り広げられることがほのめかされている。その生贄がenfantsであるということは、この小児性愛には少年愛が含まれることもまた示唆しているのだ。「ゴヤの悪夢」と呼んではいるものの、もととなったゴヤの版画からは著しくかけ離れているのは西川の指摘するとおりだし、当時の服飾文化では男もストッキングを履いていたので、これは充分に可能な解釈である。
 


 
 悪魔崇拝少年愛を結びつける発想は、決して突飛なものではない。なにしろフランスは、実際にその両方の罪を犯して処刑された世界一有名な殺人鬼、ジル・ド・レが生まれた国なのだ! ジル・ド・レは、悪魔召喚の儀式のため、子供を何人も誘拐してきては、酸鼻を極める拷問を加えて殺害したと言われている。同性愛者であった彼にとって、それはみずからの劣情を満たすための行為でもあったという。フランスにおけるジル・ド・レの名声は、バタイユが『ジル・ド・レ論―悪の論理―』の冒頭において「ジル・ド・レはその数々の犯罪行為の故、永続的な栄光に浴している」*7と皮肉っているとおりであり、それはボードレールが生きた19世紀においてもなんら変わらない。
 
 悪魔の慰み者にされた子供たちは、火にかけられた胎児と同様に、最後には悪魔の餌食となってしまうのだろうか。このように想像力をはたらかせるほどに、viergesがenfantsへと書き換えられた背景には、ジル・ド・レの残虐な儀式への連想があったのではないかと思えてならない。なにか証拠が残っているわけではないが、ボードレールなら充分に考えられることだ。
 
 ゴヤの悪夢においてenfantsから小児性愛少年愛を妄想するような変態なら、ミューズの悪夢においてもsuccubeから女性同性愛をたやすく連想することだろう。ゴヤの悪夢とは、アブノーマルな想像力をはたらかせるためのレッスンとして、「病を得るミューズ」の悪夢を見る目を養うためにボードレールが用意した練習場なのだ。
 
 以上のように、viergesからenfantsへの改変は、ゴヤの悪夢を、より異常な、より非常識な、より不道徳なものに仕立て上げようという意図によるものであることに疑問の余地はない。そして、これと同様の意図が、「病を得るミューズ」にincubeではなくsuccubeを出現させたと考えることを妨げる理由もなにもない。『悪の華』をよりスキャンダラスな作品に仕上げることこそを、ボードレールは最も重視したのである。
 

*1:阿部良雄「註」,『ボードレール全集』Ⅰ,筑摩書房,1983年,p.481

*2:悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。文芸社刊の私の旧訳は平岡旧訳と略記する。

*3:阿部良雄「解題・詩集『悪の華』の成立」,『ボードレール全集』Ⅰ,筑摩書房,1983年,p.414

*4:佐々木稔「頽廃と神話 ボードレールにおける古代性と現代性」,『日本フランス語フランス文学会中部支部研究報告集』Nº40,2016年,p.59

*5:同前,p.60

*6:シャルル・ボードレール京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』上,平凡社,1988年,pp.92-93

*7:ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論―悪の論理―』伊東守男訳,『ジョルジュ・バタイユ著作集』第8巻,二見書房,1969年,p.9