平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――010「敵(1861年版)」

敵(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
わが青春は、輝かしき陽光もあちこちに
通り抜けた暗澹たる雷雨でしかなかった。
落雷と雨のもたらした荒廃にさらされた私の庭に、
残ったものはごくわずかな紅緋色の実だけだった。
 
いまやこの私も理念の秋にさしかかった。
これからは私もシャベルやレーキを使い、
洪水が墓場のようにいくつも大きな穴をえぐった、
水浸しの土地を集めて新生させなければならない。
 
果たして、私の夢見る新たなる花たちは、
砂浜のように洗い流されたこの地からも、
力強くしてくれる神秘なる糧を見出せるだろうか?
 
――おお痛い! おお痛い! 時が生命を食えば、
われらの心を蝕んでいく不分明なる敵も、
われらの失う血を吸って生長し、力をつけるのだ!
 
 

L’ENNEMI

 
 
Ma jeunesse ne fut qu’un ténébreux orage,
Traversé çà et là par de brillants soleils ;
Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,
Qu’il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.
 
Voilà que j’ai touché l’automne des idées,
Et qu’il faut employer la pelle et les râteaux
Pour rassembler à neuf les terres inondées,
Où l’eau creuse des trous grands comme des tombeaux.
 
Et qui sait si les fleurs nouvelles que je rêve
Trouveront dans ce sol lavé comme une grève
Le mystique aliment qui ferait leur vigueur ?
 
— Ô douleur ! ô douleur ! Le Temps mange la vie,
Et l’obscur Ennemi qui nous ronge le cœur
Du sang que nous perdons croît et se fortifie !
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/L’Ennemi - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』第10の詩「敵」の韻文訳が完成した。ようやく10番めである。2年かかって11篇ということは、このペースでは全部訳し終わるのに20年かかってしまう計算になる。できれば年内に12番まで訳し終えたかったのだが、次回は溜まりに溜まった解説の書き残しを一度全部吐き出したいと思っているので、今年中の新訳の公開はこれが最後になりそうだ。
 

 
 翻訳のペースを上げたければ、回を重ねるごとにエスカレートする一方の長文の解説をやめればいいのかもしれない。だが、解説を書くことによって思いつくフレーズや解釈が絶対にあるので、どうしてもやめるわけにはいかない。なにより、解説を書くのは楽しいのでやめたくない。今回は過去最高の長さを更新してしまったが、いろいろとおもしろい発見があったので、どうか最後までおつきあいいただきたい。
 
 タイトルの謎解きは、今回の解説の最大の見どころなので最後まで取っておくとして、まずは手はじめに、第1連の「紅緋色の実(fruits vermeils)」の解説からはじめよう。
 

太陽のコレスポンダンス

 
 私の新訳では「紅緋色」と訳したvermeilsは、既存の邦訳では「赤」か「朱色」と翻訳されることが多かった。いつもの4冊のfruits vermeilsの翻訳を確認すると、*1堀口大學訳は「紅い木の実」(堀口訳,p.49)、鈴木信太郎訳は「赤い木の實」(鈴木訳,p.52)、安藤元雄訳は「赤い木の実」(安藤訳,p.41)、阿部良雄訳は「朱の木の実」(阿部訳,p.53)としている。
 
 幸いなことに、いまはVermeil(ヴェルメイユ)がどんな色なのかインターネットでかんたんに調べることができる。ほかの赤の系統色とも比較できるように表にしてみた。
 

赤系の色(仏英日対照)
フランス語 英 語 日本語 カラーコード
Vermeil
ヴェルメイユ
Vermeil
バーメイル
紅 緋
べにひ
#FF0921
Rouge
ルージュ
Red
レッド

あ か
#F00020
Cramoisi
クラモワジ
Crimson
クリムゾン
真 紅
しんく
#DC143C
Carmin
カルマン
Carmine
カーマイン
深 紅
しんく
#960018
Lie de Vin
リドゥヴァン
French Wine
フレンチワイン
ワイン #AC1E44
Bordeaux
ボルドー
Bordeaux
ボルドー
ボルドー #6D071A
Bourgogne
ブルゴーニュ
Burgundy
バーガンディー
ブルゴーニュ #800020
Rouge Sang
ルージュサン
Blood Red
ブラッドレッド
血の赤
ちのあか
#850606
Vermillon
ヴェルミヨン
Vermilion
バーミリオン
朱 色
しゅいろ
#EA553A
Écarlate
エカルラット
Scarlet
スカーレット
緋 色
ひいろ
#FF2400
Garance
ガランス
Madder
マダー
茜 色
あかねいろ
#EE1010
Cinabre
シナブル
Cinnabar
シナバー
辰 砂
しんしゃ
#DB1702
Rubis
ルビー
Ruby
ルビー
紅 玉
こうぎょく
#E0115F
Grenat
グルナ
Garnet
ガーネット
柘榴石
ざくろいし
#6E0B14
Pêche
ペシュ
Pink
ピンク
桃 色
ももいろ
#FFC0CB
Rose
ローズ
Rose
ローズ
薔薇色
ばらいろ
#FD6C9E
Rouge Pourpre
ルージュプルプル
Red Purple
レッドパープル
赤 紫
あかむらさき
#F067A6
Magenta
マジャンタ
Magenta
マゼンタ
紅 紫
べにむらさき
#E4007F
Garance Rose
ガランスローズ
Rose Madder
ローズマダー
茜 紫
あかねむらさき
#950042
Pourpre
プルプル
Purple
パープル

むらさき
#9E0E40
 
 調べるのはかんたんだったが、表にまとめるのはたいへんだった(笑)。
 
 厳密には、Vermeilはフランスの伝統色なので、これとまったく同じ赤色は日本には存在しない。日本にある色と見比べてみて、私がいちばん近いと思ったのが「紅緋色」だったというわけだ。朱色や緋色をVermeilの訳語にできない理由は表を見ていただければわかるだろう。参考までに、色がVermeil(Vermeille)のものも紹介しておこう。
 


 
 ここでもう一つ注意が必要なのは、原文では、vermeilsとsoleils(陽光)が脚韻を踏んでいることだ。この脚韻は、Vermeilは太陽を象徴する格別の色であることを強調するだけでなく、jeunesse(青春)と同じく、第5の無題詩の冒頭を想起させるためのものである。
 

私が愛するのは、フォイボスが彫像を黄金に
染めるのを好んだ、あの裸の時代の思い出だ。

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み6――韻文訳「無題(私が愛するのは、……)(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

J’aime le souvenir de ces époques nues,
Dont Phœbus se plaisait à dorer les statues.

Les Fleurs du mal (1861)/« J’aime le souvenir de ces époques nues » - Wikisource

 
 彫像を黄金に染める太陽神フォイボスが、1857年版では「太陽」だったことは無題詩の解説でもふれたとおりだ。この、太陽を媒介にしてvermeilsとコレスポンダンスしているdorer(ドレ)という動詞には、「黄金に染める」のほかに「金メッキを施す」という意味がある。この照応は、「敵」のvermeilsには男性名詞のvermeil、すなわち「金メッキした銀」の意味がかけられていることを暗示している。それはまた、錬金術のイマージュへと私たちを導くだろう。
 

 
 このもう一つのヴェルメイユ(バーメイル)が、vermeilsの担う意味を混迷したものにする。というのも、それが錬金術のイマージュを喚起するためのものだとすれば、紅緋色を18番めの詩篇「理想(L’IDÉAL)」における「私の理想の赤(mon rouge idéal*2)」と単純に同一視していいものかどうか迷いが生じるからだ。
 
 vermeilsとmon rouge idéalを同一視するなら、ヴェルメイユの暗示は「私の理想の赤」そのものがまがいものであることを示唆するだろう。「紅緋色の実」は太陽のシンボルではあるが、それは金メッキされた見せかけ太陽である。それが象徴する理想もまた、贋物の、作り物の理想でしかないだろう。とはいえ、ヴェルメイユは王侯貴族御用達の高級品であり、vermeil自体に「まがいものの金」というニュアンスがあるわけでもなさそうなので、ここまでネガティブな解釈は不適当かもしれない。それでも私は、この読解の可能性を棄て切れずにいる。作者がほかならぬボードレールだからだ。
 
 反対に、同一視しないなら、それは「紅緋色の実」がボードレールのはじめる新たなる錬金術の材料となることを暗示するだろう。「太陽(LE SOLEIL)」においては太陽が「王(roi*3)」に譬えられていることをふまえるなら、「紅緋色の実」は王にも匹敵する詩人の特権、すなわち、「事物を黄金(詩)に変える能力」や「黄金へと変化する資質」を象徴しているという見方も可能となる。ヴェルメイユは王冠(la couronne)の素材でもあるのだ。*4だがそうなると、vermeilsはもはや赤ではなくなってしまう(笑)。
 
 その実はきっと「新たなる花たち(les fleurs nouvelles)」を咲かせてくれるはずだ。「理想の赤」はその花たちのものである。
 
 少しだけ次回予告をしておくと、既存の邦訳はそろって「木の実」と解釈しているが、私の解釈では、fruits vermeilsは木の実ではない。それはフルーツ(fruit)だけでは木の実かどうかわからないというような単純な話ではなく、ここにもボードレールは手の込んだ趣向を凝らしているという意味である。鋭い方なら、「紅緋色の実」とはオレンジであるともうお気づきだろうが、オレンジはオレンジでも、木になるオレンジではないのだ。
 
 では、fruits vermeilsはいったいなにになる実なのだろうか? それは次回のお楽しみとしてほしい。
 

アイディアの収穫の季節

 
 今回の「L’ENNEMI」の新訳も、既存の邦訳と大きく異なる箇所がまだまだあるので、ここでしっかり説明しておかなければならない。今度はいつもの4冊から第2連を引用しておこう。
 

早くも思索の秋が来た、
墓ほど大きい穴ぼこを
洪水が残したこの土地に
鋤鍬把って掘りかえし耕しなおす時だ今。
(堀口訳,p.49)

かうして今、早くも 思想の秋に觸れた。
まさに 眞鍬や鋤を執つて、墓穴のやうに大きな
澤山の穴を穿つた洪水に 浸された
土地を 再び新しく 今や耕さねばならない。
(鈴木訳,pp.52-53)

そしていま 私も思念の秋にさしかかり、
シャベルや熊手を使わなければならなくなった
洪水にさらされた地面をもう一度ならしたいのだが、
墓のように大きな穴がいくつも水にえぐられている。
(安藤訳,p.41)

かくて今や、観念の秋にさしかかった私、
それだのにまだ、シャベルだの熊手だのを手にとって、
洪水が墓のように大きな穴を穿って行った、
水びたしの土地をまとめ直さねばならぬ。
(阿部訳,p.53)

  • 原文

Voilà que j’ai touché l’automne des idées,
Et qu’il faut employer la pelle et les râteaux
Pour rassembler à neuf les terres inondées,
Où l’eau creuse des trous grands comme des tombeaux.

 
 ざっと読み比べると、原文引用部1行めの「l’automne des idées」のidées(イデー)の訳語が訳者によってバラバラなことにすぐに気づくだろう。idéeは英語のideaに相当する語であり、automneは「秋」なので、「l’automne des idées」とは「アイディアの秋」、すなわち「アイディアを収穫する季節」であると解釈できる。10番めの詩にして、詩人はようやく自分自身のアイディアを作品にしていく時期を迎えたというわけだ。
 
 しかしながら、私はidéesを「アイディア」とは訳したくない(笑)。では、どんな日本語に訳すのがふさわしいだろうか。それを決めるために注目すべきは、ほかならぬidéesの中身である。前後の連に目を配れば、このidéesは、第1連の「紅緋色の実」と、第3連の「私の夢見る新たなる花たち(les fleurs nouvelles que je rêve)」と同じものであることに気づくだろう。
 
「紅緋色の実」とはidéesのシンボルであり、それがいずれは「新しき花たち」を咲かせてくれることを詩人は夢見ているのだ。この文脈を考慮すれば、idéesの訳語には「理念」がふさわしいだろう。idéeは、プラトンイデアやカントの理念のフランス語訳にも使われている名詞である。
 
 そして、「紅緋色の実」が理念の象徴であるならば、それが咲かせる「新しき花たち」は、ボードレール理想(Idéal)のシンボルであると言えよう。この読解は、今回の解説のラストで重要な意味をもつことになる。
 

忘却の河の果てに広がる墓場

 
 今回の「敵」は、その一つまえの「けしからぬ修道者」から「墓場(tombeaux)」のイマージュを継承している。
 
 私の旧訳を含め、従来の邦訳では「大きな穴(trous grands)」が開いている様子が「墓」あるいは「墓穴」に似ているという解釈を取っているが、今回の私の新訳では、「大きな穴がいくつも開いている様子が墓が並んでいるように見える」と解釈している。
 
 理由は単純で、「大きな穴(trous grands)」も「墓(tombeaux)」も原文では複数形だからだ。直訳すると、「des trous grands comme des tombeaux」は「複数の墓のような複数の大きな穴」となる。この対比においても「穴の大きさが墓に似ている」という含意は前提としてあるだろうが、重点は、墓くらいの大きさの穴が一つだけではなくいくつもあることにあると私は考えている。いくつもあるからこそ、墓場を連想させるのだ。
 
 この詩において「墓場」が象徴しているのは、ストロマン主義の時代である。ロマン主義だけでなく、前時代の無数の芸術家たちによって、ありとあらゆるテーマが掘り尽くされてしまったあとの世界に、後代の芸術家たちは否応なく立たされているのだ。「洪水(inondées)」とは、無数の芸術作品のメタファーである。前回の「けしからぬ修道者」が「書けない地獄」を表現しているとすれば、今回の「敵」が描いているのは「書くことがない地獄」であると言えるだろう。
 
「大きな穴」が「墓」であるとされているのは、それがだれかの掘った穴だからであり、そこにはそれを掘った芸術家の名が署名されているからだ。それはだれの墓場だろうか? この問いには、『「悪の花」註釈』の「燈台」の註釈におけるフランス文学者の西川長夫の見事な解釈が答えてくれている。
 

 4行詩の枠組を与えて一人の芸術家を呼びだすことは,それらの芸術家に新しい生命を付与することであると同時に,彼らを聖別してそれぞれにふさわしい墓を与えることでもある。クレペ=ブランがボードレールの独創として称讃するこれらの「メダイヨン」は,こうして一列に並べられるとき,死者の写真が並べられたフランスの共同墓地の壁を思い出させはしないだろうか。その意味では,この詩は「芸術家たちの墓」と題されてもよく,最後の3連は,死者への献辞である。*5

 
「敵」に描かれているのは、「灯台」の忘却の河の終着地にある「永遠の岸辺」である。その砂浜には、そこにたどり着いて死んでいった無数の芸術家たちの墓場が広がっているのだ。
 

それというのも、主よ、まさしくこれこそが、
われらが尊厳を示しうる最良の証言たるもの。
時代から時代へ流転し、あなたの永遠の岸辺へと
打ち寄せて消えてゆく、この熾烈なる嗚咽こそが!

ボードレール『悪の華』韻文訳――006「灯台(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Car c’est vraiment, Seigneur, le meilleur témoignage
Que nous puissions donner de notre dignité
Que cet ardent sanglot qui roule d’âge en âge
Et vient mourir au bord de votre éternité !

Les Fleurs du mal (1861)/Les Phares - Wikisource

 
 新時代の芸術家の仕事は、無数の芸術家たちの墓で埋め尽くされたその浜辺で、もはやいかなる花も育つ見込みのない砂のようになってしまった土を集めて、その土地を生まれ変わらせることだ。それが「rassembler à neuf」の意味することである。
 
 この詩句の翻訳はほんとうに難しかったので、あまりほかの訳者の翻訳を悪く言いたくはない。それでも、読み比べると私がいちばん大胆な意訳をしているように見えてしまうので、問題点は問題点として指摘しないわけにはいかない。順番に確認していこう。
 
 rassemblerは「集める」という意味の動詞である。先ほど紹介した既存の邦訳の第2連で、「耕す」、「ならす」、「まとめる」と訳されているのはおそらくこの単語だろう。それぞれの訳者の苦心が窺われるけれども、このrassemblerは、そうした作業を行うまえの準備を表していると私は考えている。それは、以前の芸術家たちが、開拓し、採掘し、収穫し尽くした題材(=水浸しの土地)でも、それを集めて創作のベースにするほかないという、ボードレールの時代認識の表現でもある。
 
 続くà neufは、「リニューアルする」という意味の熟語である。リニューアルされるのは「土地(les terres)」なので、訳語は「新調」でも「新装」でもなく「新生」とした。これでも、いちばん直訳に近いのは私の新訳である。ここは特に重要なので、念には念を入れてコトバンクを引用しておこう。
 

à neuf
真新しく,新装した状態に.
repeindre une pièce à neuf|部屋のペンキを新しく塗り替える
Il a remis sa boutique à neuf.|彼は自分の店を改装した.

neuf(フランス語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 仏和辞典

 
 ご覧のとおり、à neufは、「なにかをもう一度やり直す」という意味ではなく、「なにかを新しい状態にする」という意味である。新しい状態になるまえとあとで「なにか」が同一であるため、「なにかがふたたび新しくなる」という認識が可能になってはいるが、重点は「新しい状態になること」にある。したがって、「再び」、「もう一度」、「やり直す」といった表現は、それだけではこの熟語の訳語として適切であるとは言いがたい。強調すべきは、「新しくすること」のほうなのだ。
 
「敵」の第2連において表明されているのは、『悪の華』の創作に取りかかる決意である。詩人の夢見る「私の庭(mon jardin)」の再建は、「新たなる花たち」によってのみ実現されるだろう。
 

「敵」が意味するもの

 
 この詩のタイトルである「敵」がなにを意味するかについては、ボードレール研究者のあいだで論争が起こっていたそうである。
 
 この論争については鈴木訳と阿部訳の註で言及されているが、阿部の註のほうが詳しいので、そちらを紹介しよう。
 

〈敵〉については説が分れ、〈時間〉説、〈死〉(〈死神〉)説、〈悪魔〉説、〈倦怠〉説、〈悔恨〉説などがあり、「旅」(一二六)に「油断なく見張る不吉な敵、〈時間〉」とあることなどからして、〈時間〉説が多数派である。しかし詩人はあくまでも〈敵〉と書いたのである以上、心身に巣食って「心臓」をむしばむ「隠密な〈敵〉」とは、正体の分らぬだけに無気味な存在と思うべきであり、強いて言うなら、精神・肉体をともにおびやかす「病毒」であろう。
(阿部訳,p.54)

 
 今回の新訳を仕上げるまえは、私も素朴にこの「敵」は時間だと思っていた。しかし、いまはここに挙がっている説はすべて不正解であると考えている(笑)。私も強いてどれかを選ぶとすれば倦怠(ennui)がいちばん近いだろうが(というかほぼ同じ)、この「敵」はこれから『悪の華』に登場するものだと私は考えているので、いちばん最初の「読者に」から登場しているennuiが答えでは、謎かけの意味がない。
 
 同様に、阿部が挙げている候補は、いずれもこれまでの詩作品中にすでに登場しているものばかりなので、「敵」の正体ではありえない。もう出てきているなら、そもそも正体が不分明(obscur)であるという条件に当てはまらないだろう。哲学者ならば「時間」や「死」は不分明であると言うかもしれないが、私たちが読んでいるのは詩である。無論、これまでの詩作品中に「敵」がまだ登場していないのは偶然などではなく、ボードレールによる演出と考えるべきだろう。
 
「敵」を「時間」と解釈すること自体は可能である。だがそうすると、最終行の「われらの失う血を吸って生長し、力をつける(Du sang que nous perdons croît et se fortifie)」がなんのことを言っているのかよくわからないが、辛うじて「残された時間が少なくなることによって、1分、1秒の貴重さが増していく」と解釈することはできるだろう。それなら「敵」の正体は「老い」でもいいような気もするが、問題はそこではない。
 
 最大の問題は、この解釈では、第4連がそれまでの連とうまくつながらなくなってしまうことだ。この読み方では、第3連までは新たな芸術作品の創作に取りかかることへの決意と不安を語っていた詩が、「時間」の登場によって、そこまでの流れがまったく生かされずに終わってしまうことになるのではないだろうか。第3連までの文脈をふまえるならば、「敵」は、芸術作品の創作を邪魔するものでなければならないのではないだろうか?
 
「敵」が、時間の経過にともなって影響力を強めたり、存在感を増したりするものと解釈するならば、別の読み方が可能となる。するとその「敵」は、この詩のなかだけでなく、この詩集のこれ以降の作品のなかでも生長し、力をつけていくものと解釈することもまた可能となるだろう。この「敵」は、『悪の華』の今後の展開を暗示してもいるのだ。
 
 読解の鍵となるのは、croît(不定詞croître)である。croître(クロワートル)は、植物が生長することを意味する動詞である。文章では比喩として人や動物にも用いられるが、この詩の「敵」は、「私たちの失う血(sang que nous perdons)」でcroîtするのだから、このcroîtreは原義のとおり「血を吸って植物のように生長する」と読むべきである。私が誤解していたように、「敵」を吸血鬼のように噛みついて血を吸う怪物とイメージしてはならない。
 

➋ 〔植物が〕育つ,生える.
➌ ⸨文章⸩ 〔人,動物が〕成長する(=grandir).

croître(フランス語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 仏和辞典

 
 となると、「ronge le cœur」も、安藤(安藤訳,p.42)や阿部(阿部訳,p.54)のように「心臓をかじる」ではなく、「心を蝕む」と読むべきだということになるだろう。この詩句には両方の意味がかけられているとも解釈できそうだと思っていたのだが、「敵」が植物のように育つものならば、後者の解釈をとるほかはない。したがって、この「敵」には生命を「食べる(mange)」こともできないはずだ。以上の読解から、この詩における「敵」と「時間」は別々の存在であるという見方は充分に成立する。
 
 rongerとcœurの組み合わせは、第5の無題詩の「心が下疳にでも蝕まれているような顔(Des visages rongés par les chancres du cœur)」という詩行を想起させる。
 

実のところ、われら、堕落した国民にもまた、
心が下疳にでも蝕まれているような顔をした、
古代の民の知りもしない美女たちがいるのだ。
言ってみるならそれは、気怠さの美女たちだ。
だが、遅れて現れたわれらがミューズたちが
そんな発明をしようと、決して病多き種族が
青春に捧げる深き表敬の妨げになりはしない。

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み6――韻文訳「無題(私が愛するのは、……)(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Nous avons, il est vrai, nations corrompues,
Aux peuples anciens des beautés inconnues :
Des visages rongés par les chancres du cœur,
Et comme qui dirait des beautés de langueur ;
Mais ces inventions de nos muses tardives
N’empêcheront jamais les races maladives
De rendre à la jeunesse un hommage profond,

Les Fleurs du mal (1861)/« J’aime le souvenir de ces époques nues » - Wikisource

 
「敵」の冒頭の「わが青春(Ma jeunesse)」と、それに続く太陽のコレスポンダンスからして、ボードレールが第5の無題詩を「敵」の読解のためのサブテキストに指定していることは明白である。「敵」の読解には、この無題詩とのコントラストだけではなく、共通する箇所もまた補助線を与えてくれるはずだ。
 
 ということは、「敵」とは「心の下疳(les chancres du cœur)」のことだろうか? もちろんそう解釈していいだろう。しかし、そうすると今度は「心の下疳とはなにか?」という問題が新たに生じてしまう。「下疳」とは、梅毒によってできる潰瘍のことだが、言うまでもなく、これもなにかのメタファーである。これでは答えになっていないのだ。しかしながら、それが堕落した(corrompues)、病多き(maladives)時代の人々を特徴づける病んだ精神状態を意味することはまちがいないだろう。
 

 
 ならば、ボードレールの考える、病多き時代を象徴する病んだ精神状態とはなにか? もうおわかりだろう。それはスプリーン(Spleen)である。私はSpleenの訳語は「鬱屈」がふさわしいと考えているが、ここでは便宜上カタカナ表記としたい。
 
 スプリーンとは、言わずと知れた『悪の華』読解の最重要キーワードである。私たちにとっては幸いなことに、スプリーンについて、ボードレールは1857年12月30日付の母親への手紙のなかに詳細な説明を書き残している。
 

 肉体が病気なので精神と意志が衰えるのか、それとも精神が無気力なので体が疲れるのか、全然わかりません。ともかく僕が感じているのは、意欲のひどい欠如であり、耐え難い孤立感であり、何かはっきりしない不幸に対する絶え間ない恐怖であり、自分の力への完全な不信であり、欲望のまったくの不在であり、いかなる楽しみも見つけられないということです。僕の本〔『悪の華』〕が変なふうに成功し、それで反感を買ったことで、少しの間僕は面白い思いをしましたが、その後また僕は落ちこんでしまいました。おわかりのとおり、これは、虚構をつくりだし、組み上げることを職とする者にとってかなり深刻な精神状態です。――僕は絶えず、これが何の役に立つのか、あれがなんの役に立つのか、と考えてしまうのです。これはまさにスプリーン気質です。*6

 
 内容は、『悪の華』初版刊行後の騒動が一段落したあとのいわゆる「燃え尽き症候群」を告白したものだが、そういう目で見ると「不分明なる敵(l’obscur Ennemi)」の解説をしているようにしか読めなくなるから困ったものだ(笑)。
 
 それはさておき、ここで注目すべきは、ボードレールがスプリーンを創作の妨げになるものと語っていることだ。とりわけ、「自分の力への完全な不信」がスプリーンによって引き起こされるとボードレールが考えていたのならば、「敵」は第4連で突然出てきたのではなく、実は第3連からすでに姿を現していたという見方が可能となるだろう。おそらく、この読み方は「敵」をスプリーンと解釈したときにしかできない。
 
「敵」の正体がスプリーンだとすれば、続く「不遇(LE GUIGNON)」シシュフォスが登場する理由も明快になる。スプリーンとは、芸術をシシュフォスの岩へと変えてしまうサタンの賢者の石なのだ。先ほどの手紙のなかで、ボードレールはスプリーンを「倦怠」*7と言い換えてもいる。それは、たんなる時間の経過のみの力によって、いかなる名作の輝きも翳らせてゆくだろう。芸術作品の創造とは、シシュフォスの岩となって襲いかかるスプリーンとの永遠の闘争にほかならない。
 
 そして「敵」は、それ自身もまた植物のように私たちの血を吸って生長するのだ。この「敵」が「私の夢見る新たなる花たち」に対置されていることは明白である。「理想」と同様に、スプリーンもまたみずから芽を出し、歪な花を咲かせることになるだろう。
 

参考リンク



 

ボードレール/平岡公彦訳『韻文訳 悪の華 1861年版』目次

読者に(2022.10.23一部改訳)(朗読動画追加)

鬱屈と理想

1 祝福(2021.9.12一部改訳)
2 アホウドリ(2021.8.22一部改訳)
3 上昇(2021.11.7一部改訳)
4 照応(2022.5.8一部改訳)
5 無題(私が愛するのは、……)(2022.10.2一部改訳)
6 灯台(2022.6.19大幅改訳)
7 病を得るミューズ(2022.7.24一部改訳)
8 魂を売るミューズ(2022.10.2誤訳訂正)
9 けしからぬ修道者
10 敵

*1:悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。文芸社刊の私の旧訳は平岡旧訳と略記する。

*2:Les Fleurs du mal (1861)/L’Idéal - Wikisource

*3:Les Fleurs du mal (1861)/Le Soleil - Wikisource

*4:Vermeil — Wikipédia

*5:シャルル・ボードレール京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』上,平凡社,1988年,p.105

*6:横張誠編訳『ボードレール語録』岩波現代文庫,2013年,p.217

*7:同前,p.217