平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み1――韻文訳「読者に(1861年版)」

読者に(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
愚行と、誤謬と、罪悪と、吝嗇とが、
われらの精神を占領し、肉体までをも変容させる。
かくして乞食が虱の類を養うごとく、
われらは愛すべき悔恨に餌を与えるというわけだ。
 
われらの罪悪は頑固だが、悔悛はたるんだものだ。
罪を告白すればたっぷり代償を払った気になって、
下卑た泪でことごとく汚点を洗い流したと信じて、
われらは泥だらけの道へと陽気に帰ってくるのだ。
 
悪の枕の上にはサタン・トリスメギストスが見え、
魔法のかかったわれらの精神を長く静かに揺する。
われらの意志という高い値打ちのある金属でさえ、
この博識の化学者にかかればことごとく蒸発する。
 
われらを動かす操りの糸を握っているのは悪魔だ!
人々の嫌悪の対象にこそわれらは好餌を見出して、
おぞましさも知らず、悪臭漂う暗闇を通り抜けて、
日々地獄へと、われらは一歩ずつ下っていくのだ。
 
骨董品も同然の淫売の虐げられてきた乳房にすら、
口づけしてはかぶりつく貧しき放蕩者にも等しく、
われらは通りすがりに不法な快楽を盗み取っては、
古びたオレンジのごとく、よくよく強く搾り抜く。
 
百万匹の蛔虫のごとく、詰め寄せて、群れをなし、
われらの脳内では悪霊どもの大群が酒宴に興じる。
われらの呼吸のたび、死神は目に見えぬ河と化し、
耳に聞こえぬ苦悶の声を上げて肺中へと流れ下る。
 
もしもいまだ、強姦や、毒薬や、短刀や、放火が、
われらの憐れな運命のありふれたキャンバスへと、
それらのふざけた図柄を刺繍しえていないならば、
ああ! われらの魂に豪胆さが足りぬだけのこと。
 
だが、ジャッカルや、豹や、牝狼や、
猿や、蠍や、ハゲタカや、蛇の姿の、
われらの悪徳の集められた悪名高き見世物小屋の、
鳴き、吠え、唸り、這いずる怪物どものうちには、
 
より醜悪で、より性悪で、より醜穢なやつが一匹いる!
そいつは大きな身ぶりも大きな叫び声も発してこない。
それでも、そいつは進んで地上を瓦礫と化してしまい、
さらには、あくびのなかに世界を丸呑みにしてしまう。
 
そいつが退屈だ!――目を知らずと泪で満杯にしては、
そいつは水煙管を吹かしながら死刑台の夢を見るのだ。
覚えがあるだろう、読者よ、このデリケートな怪物に。
――善人ぶった読者よ、――わが同類、――わが兄弟!
 
 
(2023.6.4一部改訳)

 
Les Fleurs du mal (1861)/Au lecteur - Wikisource
 


 

悪の華』韻文訳という夢

 
 ボードレールの生誕200周年にあわせて、『悪の華1861年版と『パリの憂愁』の新訳を出したいと思って数年前から準備していたのだが、残念ながら間に合わなかった。原因は、われながら頭がどうかしているとしか思えないこの異様な新訳を見てもらえば察していただけるものと思う。もともとはスタンダードな翻訳をめざしていたはずだったのが、いつの間にかこうなってしまっていた。
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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 フランス文学史上に冠たるボードレールの韻文詩集『悪の華』を韻文に翻訳することは、翻訳家の夢である。私自身を含め、ボードレール翻訳者のだれもが「できたらすごいことだ」と憧れながら、「できるはずがない」とずっと諦めてきたのだ。しかしながら、『悪の華』が世界一有名な韻文詩集であることは、少しでも文学を齧ったことがある人であればだれでも知っている。にもかかわらず、その翻訳が韻文詩集にはなっていないことに、私自身、忸怩たる思いを抱いてきた。
 
 この「読者に」の新訳は、私の知る限り、おそらく本邦初の「AU LECTEUR」の韻文訳である。もっと短い詩であれば、私の旧訳にも韻文に訳せているものがあるが、これだけ長い詩を韻文に翻訳できているものは過去に例がないだろうと思う。ほかならぬ私自身がいちばんこの詩を韻文に訳せたことに驚いている。翻訳でこれだけのことができるのだ。今回、それを確認できたことがなによりの収穫だった。
 
 韻文の定義を明確にしておこう。この詩においては、1連に4行ある詩行が2行ずつ脚韻を踏んでいることが韻文であることの最低条件である。辛うじて最後の母音だけ韻を踏んでいるペアもあるものの、この新訳はここまでは達成できている。原文ではすべての連において1行めと4行め、2行めと3行めがそれぞれ脚韻を踏んでいるのだが、残念ながら、そこまで再現することはできなかった。
 
 その代わりと言ってはなんだが、日本語でしかできない趣向をいろいろと凝らしてみている。どう考えてもやりすぎな気もするが(笑)、もちろん原文の内容を大きく逸脱した脚色や改変はしていない。ふつうならここで、殊勝に「評価は読者の判断に委ねたい」とでも言うべきかもしれない。だが、私はこれ以上ないほど理想に近い翻訳に仕上げることができたと自信をもって言える。
 
 これがボードレールだ。ボードレール生誕200周年を迎えた記念すべき年に、ここから『悪の華1861年版の新訳をスタートすることとしよう。例によって不定期の更新となるだろうが、気長に「平岡公彦のボードレール翻訳ノート」におつきあいいただければ幸いである。
 

旧訳との読み比べ

 
 最後に、恥を忍んで1857年版の私の旧訳も載せておこう。
 

読者に(1857年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
愚行と 過失と 罪科と 吝嗇とが
われらが精神を領し 肉体を蝕みて
乞食どもが虱を養うがさまにも似て
われらは心地よき悔恨を肥え太らす
 
われらが罪科は斥け難く 悔恨は揺らぎ易い
告解により罪の報いは贖われて余りあると慢心し
卑しき涙に一切の穢れを洗い流したものと妄信し
われらは嬉々として汚泥に塗れし道へと舞い戻る
 
悪の枕辺に現れし者は悪霊の頭たる錬金術
魅入られしわれらの精神を緩やかに眠りへと誘う
そしてわれらが意志という名のこの貴き金属さえ
この博識の化学者の手によりことごとく煙と化す
 
われらを踊らす操りの糸を握る者こそは悪魔!
忌まわしきもののうちにわれらは魅力を見出して
腐臭漂える暗黒のうちを怖れも知らず横切りては
われらは日ごと地獄の方へと一歩ずつ堕ちてゆく
 
喩えるなら年老いた娼婦の打ち拉がれし乳房へと
接吻けては齧りつく貧しき放蕩者にも似て
われらは道すがら人知れず快楽を盗んでは
古びた香橙を搾るがごとく 力を込め搾り尽くす
 
われらが頽廃の脳髄のうちに巣食う悪霊の群れは
数知れぬ蛔蟲のごとく 蠢き 歌い 酒宴に興じ
われらが息をつくたび 死は大河のごとく
鈍い嘆きの声とともに肺腑へと流れ落ちる
 
強姦 毒薬 短刀 放火が
われらが憐れむべき運命というこの陳腐な画布を
いまだそれらの愉快なる図柄もて飾りえぬならば
悲しいかな! それはわれらが魂の怯惰のゆえだ
 
だが 金狼や豹 牝狼に猿
蠍に禿鷹 また蛇にも似た
われらが悪徳の群れ集う忌まわしき見世物小屋
啼き 吼え 唸り 這いまわる怪物どものうちに
 
ひときわ醜悪にして 悪意に充ち 不浄なる者がある!
それは大仰な身振りもせず 大きな声も立てはせぬが
ややもすればこの地上を廃墟と化すやもしれず
欠伸のうちにこの世界を呑み尽くすやもしれぬ
 
それこそが倦怠!――眼には心ならぬ涙を泛べ
長き煙管を燻らせながら 断頭台の夢を見る者
ご存知であろう 読者よ この気難しき怪物を
――偽善の読者よ ――わが同胞よ ――わが兄弟よ!*1
 
 

 
Les Fleurs du mal/1857/Au lecteur - Wikisource
 

 
 現在の私の目から見ると、この旧訳は「未熟」の一言に尽きる。
 
 1857年版と1861年版とのテクストの異同は、ほぼ第6連だけなので、そこ以外で訳文が大きく変わっている箇所については潔く誤りを認めるほかない。そればかりか、この旧訳には新訳にそのまま受け継がれた行が一行もない。これでは全否定していると思われてもしょうがないだろう。読者のみなさまにはほんとうに申し訳ないことだが、当時の私なりに全力を尽くした仕事だということに免じて、ただただご容赦願うしかない。今回の新訳をもってお詫びに代えさせていただきたい。
 
 いまこうして読み比べてみて、14年前に人生を賭けて取り組んだ翻訳が、今回の新訳のたんなる引き立て役にしか見えなくなっていることを寂しく思う。だが、それと同時に、あたりまえのことかもしれないが、この旧訳で得たものがなければ、今回の新訳は決して生まれなかっただろうとも思う。すべての行を訳し直しているとはいえ、今回の新訳が、この旧訳のコンセプトをエスカレートさせた先に存在していることは確かだ。
 
 人は成長するのだ。だから、勉強を続けることには意味がある。まさか私自身がそれを身をもってお見せすることになろうとは、まったく想像だにしていなかった。いまこんなことを書いている私に、ほかならぬ私自身がいちばん驚いている。
 
 
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*1:ボードレール悪の華[1857年版]』平岡公彦訳,文芸社,2007年,pp.13-15