平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み3――韻文訳「アホウドリ(1861年版)」

アホウドリ1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
しばしば、気晴らしに船乗りたちは、
海の巨鳥、アホウドリをつかまえる。
こののんびり屋の旅の道連れたちは、
苦汁の淵を滑りゆく船についてくる。
 
船乗りたちが甲板に置いたとたんに、
この蒼穹の王は、不器用で恥晒しに、
その大きな白い翼をオールのごとく、
憐れにも両脇に引きずったまま歩く。
 
あの翼の生えた旅人が、なんと不格好で自堕落に!
先ほどのそれは美しき鳥が、なんと珍妙で醜悪に!
ある者は、スモールパイプでその嘴を苛つかせる、
別の者は、ずり足で、飛んでいた不具者をまねる!
 
詩人は、嵐に出没し、射手を嘲笑う、
この雲上の貴公子に似ているだろう。
地面に巻き起こる罵声の渦中に追い落とされれば、
その巨人のごとき翼が彼の歩みの妨げとなるのだ。
 
 
(2021.8.22一部訳文改訂)

 
 ボードレール悪の華』韻文訳の第3弾は「アホウドリ」である。私が知らないだけで、これくらい短い詩なら、すでにどこかのだれかが韻文に訳しているかもしれない。ということで、今回は本邦初と断言するのはやめておこう。
 

 
 インターネット上で「L’ALBATROS」の翻訳を公開している人は私以外にもたくさんいるので、ほかにどんな翻訳があるのか探してみるのもおもしろいかもしれない。せっかくだから、参考になったサイトを2つ紹介しておこう。どちらも解説がとても勉強になる。
 

 
 3回めにして、ようやく詩らしい詩を翻訳することができた。フランス韻文詩の定番のソネット(14行詩)でこそないものの、同じ4連構成の、『悪の華』のなかでもスタンダードな詩の1つである。とりわけこの「アホウドリ」は起承転結がはっきりしていて、「転」にあたる第3連にはわかりやすいサビまである。まさに韻文詩の見本のような作品であると言えるだろう。
 
 内容についても、アホウドリを詩人になぞらえた非常にストレートな詩であるため、「照応」と並んで『悪の華』を代表する詩とみなされることが多い。また、この詩は1857年の初版には収録されておらず、1861年版で追加された詩の最初の1つでもある。もしかすると、ボードレール自身にとっても特別な思い入れのある詩だったのかもしれない。
 
 3回めともなると、もう私の翻訳はこういうものだと思われているかもしれないが(笑)、私の「アホウドリ」の韻文訳も、この新訳全体の看板作品にするつもりで取り組んだ。特に、第3連のサビは会心のできである。
 
 さて、「アホウドリ」は、翻訳でざっと読んだ限りでは、これといって難解なところの見当たらない、とてもわかりやすい詩に見えるのではないかと思う。こんなに短い詩に、新発見などあるわけがない……と思っていたのだが、なんと見つけてしまった。さっそく解説に移ろう。
 

場面をイメージすることの大切さ

 
 まずは、「L’ALBATROS」の第3連の既存の邦訳と原文を引用しておこう。
 

天翔けるこの旅人の、ああ、さても、さま変れるよ!
麗わしかりしこの鳥の、ああ、なんと、醜くも、おかしきことよ!
一にんは、パイプもて、嘴こづき、
他は真似つ、足なえの片輪の鳥を!*1

翼あるこの旅人の なんとぶざまな意氣地なさ。
今まで美しかつたのに、滑稽極まる醜い姿。
短い烟管で 嘴を 一人の水夫は 突つ突くし、
天翔る身の成れの果の跛を 眞似するものもゐる。*2

つばさを持った旅人が、何とぶざまでだらしがない!
いままで素敵だったのに、何と滑稽で醜いこと!
一人がパイプでくちばしをつつきまわせば、
別の一人が、びっこをひいて、天かけていた片輪者のまねをする!*3

この翼ある旅人の、なんと不様なだらしなさ!
先ほどはあんなに美しかったのが、何と滑稽で醜いこと!
ある者はパイプで嘴をつつきまわし、
ある者は跛ひきひき、飛んでいた不具者の真似をする!*4

  • 原文

Ce voyageur ailé, comme il est gauche et veule !
Lui, naguère si beau, qu’il est comique et laid !
L’un agace son bec avec un brûle-gueule,
L’autre mime, en boitant, l’infirme qui volait !

Les Fleurs du mal/1861/L’Albatros - Wikisource

 
 いきなり本題から外れてしまうのだが、やはり堀口大學訳のひどさをスルーして進めるわけにはいかない。読み比べていただければわかるとおり、引用部1行めと2行めにある「ああ、」は原文には存在しない。これは意訳でも説明の挿入でもない、たんなる脚色であり、翻訳では絶対にやってはいけないことである。
 
 それから、原文1行めの「il est gauche et veule !」の翻訳が「さま変れるよ!」でいいはずがないことも一目瞭然だろう。「どう変わったのか」は原文に書いてあるし、ほかの訳者もちゃんと訳している。こうした必然性のない原文の改変も、翻訳では絶対にやってはいけないことである。この詩の堀口訳の悪質さはあまりに目にあまるので、改めて記事にまとめようと思う。
 
 では本題に入ろう。原文引用部4行めの「en boitant」を、堀口大學は「足なえの」、鈴木信太郎は「跛」、安藤元雄は「びっこをひいて」、阿部良雄は「跛ひきひき」と訳しているが、ほんとうにこの解釈でいいのだろうか?
 
 もう一度「アホウドリ」の第2連から第3連への展開を読み直してみてほしい。第2連の「大きな翼をオールのように両脇に引きずって歩くアホウドリ」のモノマネをするために、船乗りの男が「びっこ(跛)をひく」というのは、おかしくないだろうか?
 
「びっこをひく」という言葉は放送禁止用語なので、知らない人のために解説すると、「びっこをひく」とは、「不自由な足を健康なほうの足で引きずるようにして歩くこと」である。くり返しになるが、両方の翼を引きずって歩くアホウドリのまねをしようとして、片足を引きずって歩いたりするだろうか?
 
 仏和辞典ではboitantの意味をどう説明しているのだろうか。『プチ・ロワイヤル仏和(第4版)・和仏(第3版)辞典』によると、この単語は「足を引きずる、足が不自由である」という意味で使われる動詞あることがわかる。ニュアンスとしては「足が不自由そうな歩き方をする」という意味であり、この単語だけから不自由な足は片方だけなのか、それとも両方ともなのかを判断することはできない。とはいえ、辞書の「boiter du pied gauche(左足を引きずって歩く)」という例文が示しているとおり、片足だけを引きずっているのなら、それとわかる説明があるはずだ。だが、引用箇所にそんな記述はない。
 
 では、アホウドリのモノマネをする船乗りの男は、どんなふうに足を引きずって歩いたと解釈するべきだろうか。私は、船乗りの男は、足の裏で甲板をずりずりとこすりながら歩いたと解釈している。ケガや病気などによって足をうまく上げられない人がするこの歩き方を「すり足」というのだが、近年では武道や伝統芸能の身のこなしである「すり足」と区別するために「ずり足」という呼称が提案されており、私の翻訳もそれに倣った。
 

足腰の筋肉が弱って足が上がらなくなり転びやすいという歩き方は『すり足』ならぬ『ずり足』なのです。足腰の筋力が弱り『ずり足』になっている状態だと、片足で立つことも難しく、ほんの少しの段差にも躓きやすくなります。けれども『すり足』の稽古は逆に筋力が付くので足腰の鍛錬になるのです。

すり足とずり足 | 緑桜会

 
 放送禁止用語つながりで指摘しておくと、鈴木以外の3名は、同じく原文4行めの、身体障害者を意味するl'infirmeという名詞を、それぞれ堀口訳「片輪の鳥」、安藤訳「片輪者」、阿部訳「不具者(「不具」に「かたわ」とルビ)」と訳すことによって、「片足が不自由である」というニュアンスを補強してしまっている。
 
 滅んだも同然の差別用語なので知らない人のほうが多いと思うが、「片輪(かたわ)」とは、手や足など対になっている身体部位の片方だけに障害のある人を、片方の車輪の外れた車に見立てて呼んだ蔑称である。この慣用表現は、そもそも身体障害者全般を意味するinfirmeの訳語としては不適切だ。安藤訳と阿部訳の「びっこ」と「かたわ」のリンクは無論意図したものだろうが、ここでは完全に裏目に出てしまっていると言うほかない。
 
 これが今回の新発見というのはなんとも情けない気もするが、場面をちゃんとイメージしながら読まないとおかしな翻訳が生まれてしまうことのいい例ではないかと思う。先ほどの4つの邦訳のうちでは堀口訳だけがこの失敗を免れているように見えるけれども、実は堀口訳の場合、第2連の翻訳が不適切なせいで、船乗りが「どのように真似したのか」を説明できない構造になっているためにあの訳になっていると考えられるので、私は正解とはしたくない。やはりこれは改めて書いたほうがよさそうだ。
 

場面をイメージすることの難しさ

 
 ところで、既存の邦訳では「つつく」という意味に訳されているagaceを、私の新訳では原語のとおり「苛つかせる」と訳すことにした(名詞形のagacementは「苛立ち」)。これは新発見と言うほどのことでもないが、違和感をもたれる方がいるかもしれないので解説しておこう。
 
 原文引用部3行めを語順どおりに確認すると、L'un(ある者は)、 agace son bec(彼の嘴を苛つかせる)、 avec un brûle-gueule(スモールパイプで)となるので、私の新訳は、実はなんのひねりもないただの直訳である(笑)。そこは目をつぶっていただくとして、注目してほしいのは、原文ではスモールパイプで「どのようにして」アホウドリの嘴を苛つかせるのかまったく説明されていないことだ。
 
「嘴を苛つかせるのだから、つつくのに決まってるじゃないか」と思われる方もいるかもしれないが、スモールパイプを使ってアホウドリの嘴に嫌がらせをする方法はそれだけとは限らない。ただ苛つかせたいだけなら、つつくフリをするだけでいいかもしれないし、つつかずに嘴のまえで振るのでも、まわすのでもいいかもしれない。もっと言えば、そのへんの棒切れではなく喫煙パイプを使っているのだから、タバコの煙を吹きかけることもできるし、逆に吸い口のほうを向けて吸わせようとすることもできる。
 
 けっきょくのところ、原文に書いてない以上、船乗りがどのようにしてアホウドリの嘴を苛つかせようとするのかはわからないのだ。わからない以上は、翻訳者が勝手に決めるわけにもいかない。というわけで、わからない部分については読者の想像におまかせできるように、私はあえて意訳せずに原文どおり訳すことにした。この点について、ほかの訳者の意訳を間違いだと主張するつもりはないが、私は「タバコの煙を吹きかける」という解釈も捨てがたいと思っている。
 
 最後に、するどい方は「brûle-gueuleの訳語がどうしてスモールパイプなんだ?」と疑問に思われるかもしれないので、これもちゃんと説明しておこう。これは短い喫煙パイプの愛称なのだが、日本語には対応する言葉がない(直訳すると「口を火傷させる」)。こういう物の名前は、クレームブリュレ(crème brûlée)やラングドシャ(langue-de-chat)のように原音に近いカタカナ表記にするべきなのかもしれないが、「ブリュルグル」で検索してみても、日本でこの商品名で売られている喫煙パイプは見当たらなかった。
 
 私としては、日本で実際に使われていない言葉をなるべく訳語にはしたくないので、「brûle-gueule」で画像検索して見つかった喫煙パイプと同型の商品に、日本の喫煙具店でつけられている「スモールパイプ」という商品名を採用することにした。ほんとうにGoogle様々である(笑)。学生の方は、単語の意味を調べるのに画像検索はかなり使えるということを憶えておいて損はない。
 
 以上、今回はずいぶん「ボードレール翻訳ノート」らしい解説になったのではないかと思う。あい変わらず誤訳の解説になるとイキイキしてしまうが(笑)、それだけでなく、新訳ではどんな工夫をしたかとか、どんなところが難しかったとか、そうした翻訳の裏話も書いていけたらいいと思っている。誤訳については、引用部ではsi(あんなに)を阿部訳しか訳していないとか、まだ言いたいことはあったのだが、今書いたので、今回はここまでにしておこう。

*1:ボードレール悪の華堀口大學訳,新潮文庫,2002年改版,p.34

*2:ボオドレール『悪の華鈴木信太郎訳,岩波文庫,1961年,p.33

*3:ボードレール悪の華安藤元雄訳,集英社文庫,1991年,pp.22-23

*4:シャルル・ボードレールボードレール全詩集Ⅰ』阿部良雄訳,ちくま文庫,1998年,p.39