平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――008「魂を売るミューズ(1861年版)」の誤訳について

 前回公開したボードレール悪の華』第8の詩「魂を売るミューズ」の韻文訳に、誤訳を発見してしまった。
 

 
 今回の誤訳も、些細な解釈のズレや微妙なニュアンスのちがいのようなものではなく、確認不足と勉強不足によるごまかしようのないまちがいだった。それに加えて、この誤訳のせいで「LA MUSE VÉNALE」と続く「けしからぬ修道者(LE MAUVAIS MOINE)」とをつなぐ大事な蝶番が外れてしまっていることも新たに発見した。ということで、今回はいつものように部分改訳では済ませずに、どこをどうまちがったのかしっかりと説明しておきたいと思う。
 
 念のため断っておくと、以前の韻文訳に加えている改訳は、主に訳語や表現の統一と、私自身の好みを反映するためのものであり、こっそり誤訳を訂正したことは一度もない。というのも、私が新たに発見した誤訳は、私以外の既存の邦訳でも同様にまちがっていることがほとんどなので、こっそり訂正すると、逆に私だけが誤訳していると勘違いされるリスクのほうが大きい。不本意な誤解を避けるためにも、ちゃんと説明しておかなければならないのだ。今回もまさにそうだ。
 
 問題の誤訳とは、本文第3連にある「聖歌隊の子供(enfant de chœur)」である。
 

君もやるしかないんだよ。毎晩のパン代を稼ぐために、
聖歌隊の子供のように、振り香炉をふったり、
君もろくに信じていない「テ・デウム」を歌ったりさ。

Il te faut, pour gagner ton pain de chaque soir,
Comme un enfant de chœur, jouer de l’encensoir,
Chanter des Te Deum auxquels tu ne crois guère,

Les Fleurs du mal (1861)/La Muse vénale - Wikisource

 
 enfant(アンファン)は言うまでもなく「子供」だし、chœur(クール)は「合唱団」や「聖歌隊」を意味する名詞なので、一見この訳のどこに問題があるのかわらないだろうと思う。だが、まさにそこにこそ落とし穴があったのだ。
 
 既存の邦訳の解釈も「聖歌隊の子供」で一致している。いつもの4冊を確認しておこう。*1堀口大學訳は「合唱隊の寺小姓」(堀口訳,p.46)、鈴木信太郎訳は「合唱團の稚兒」(鈴木訳,p.49)、安藤元雄訳は「聖歌隊の子供」(安藤訳,p.37)、阿部良雄訳は「聖歌隊の子供」(阿部訳,p.51)と訳している。とはいえ、もちろん人のせいにするつもりは毛頭ない。
 
 私の誤訳の原因ははっきりしている。こんなかんたんな箇所をまちがえるはずがないと思い込んで、chœurの意味を辞書で再確認しなかったからだ。これは最も恐ろしい部類のまちがいの理由である。
 
 だが幸いなことに、あとから「もしかすると「合唱団」と「聖歌隊」を訳し分ける必要があるかもしれない」と思い立って、辞書を引き直す機会を得ることができた。そして、再確認してみた結果、信じがたいことに、この箇所のchœurは「合唱団」でも「聖歌隊」でもないことが判明したというわけだ。
 

enfant de chœurは「聖歌隊の子供」ではない

 
 enfant de chœurとは、カトリック教会のミサにおいて司祭の補佐役を務める侍者を意味する専門用語である。まぎらわしいからか、実はこの用例はしっかりと仏和辞典に載っている。今回はだれでもソースを確認できるコトバンクの説明を見てみよう。
 

enfant de chœur
(1) ミサの侍者.
(2) 世間知らず,お人よし.

chœur(フランス語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 仏和辞典

 
 そうは言っても、文脈によっては「聖歌隊の子供」を意味する場合もあるのではないかと考える方もいるかもしれない。確かに、文字どおりにはそう読める以上、そちらの意味で使われることがまったくないとは言い切れないだろう。辞書の説明は、特別なシーンにおける特殊な用例への注意を促すためのものなのかもしれない。しかしながら、そうだとしても、「LA MUSE VÉNALE」の用例はその「特別なシーンにおける特殊な用例」に当てはまるようなのだ。
 
 フランス版ウィクショナリーの「enfant de chœur」の項目を確認すると、「(Liturgie) Jeune servant occasionnel et bénévole, dans les rites catholiques((典礼)カトリックの祭儀で、臨時で無償奉仕をする若い侍者)」という説明のすぐあとに、例文として真っ先にボードレールの「LA MUSE VÉNALE」の問題の箇所が挙げられているのである。
 

 
 となると、フランス人が問題の箇所を読んだら、だいたいの人は「ミサの侍者」のことだと思うと考えるほかはないだろう。
 
 うちにあった翻訳書では、オックスフォード大学出版局のジェームズ・マクゴーワン訳の英仏対訳版だけが、唯一正しく「altar boy」と翻訳していた。
 

You must, to earn your meagre evening bread,
Like a bored altar boy swing censers, chant
Te Deums to the never present gods,*2

 
 直訳すれば「祭壇の少年」だが、これは英語圏における「ミサの侍者」の通称である。ちなみに、英語には「聖歌隊の少年」を意味するchoirboyという名詞もある。こちらには「侍者」の意味はないようだが、ウブな世間知らずを揶揄する用法は共通しているところがおもしろい。
 


 
 しかしながら、マクゴーワンの英訳は、「auxquels tu ne crois guère(君はあまり信じていない)」を「to the never present gods(存在しない神々への)」などと訳してあったりもするので(キリスト教なのにgods!?)、私の解釈の傍証としては頼りない。
 
 ついでに解説しておくと、このフランス語原文中の「ne… guère」は、「あまり…ない」という意味なのだが、既存の邦訳ではなぜかこのニュアンスが無視されている。確認しておこう。堀口訳では「心にもない」(堀口訳,p.46)、鈴木訳では「一向に信じてゐない」(鈴木訳,p.49)、安藤訳では「信じてもいない」(安藤訳,p.37)、阿部訳では「心にもない」(阿部訳,p.51)と訳されている。ここもちゃんと説明しておかないと、私だけがまちがっていると誤解されかねない。
 
 言うまでもないことだが、「あまり信じていない」ということは、少しくらいは信じる気持ちがないこともないのだ。よって、上に例示した既訳はどれも言いすぎだろう。このキリスト教との微妙な距離感は、『悪の華』を読み解く上でも意識しておくべきポイントである。『悪の華』全体のストーリーにおいては、序盤では多少はあったキリスト教への畏敬の念が、後半へ向かうにつれて疑念や敵意に取って代わられてゆくのだ。
 
 他人の翻訳を批判した直後で恐縮だが、今回再確認してみて、恥ずかしながら、私自身も「ne… guère」は改まった表現であるという仏和辞典の注意書きを見落としていたことに気づいた。この機会にこのニュアンスをふまえた表現に直したいと思う。どんなふうに直したかは、最後のお楽しみとしたい。
 
 脱線しすぎた。話を本筋に戻そう。
 

encensoirは聖歌隊の小道具ではない

 
 enfant de chœurがミサの侍者を意味すると知っていれば、それが「聖歌隊の子供」ではありえないことがすぐにわかる描写が、実は「LA MUSE VÉNALE」の引用箇所にちゃんとあることがわかる。それが「jouer de l’encensoir(振り香炉をふる)」である。
 
「振り香炉(encensoir)」とは、カトリック教会のミサで用いられる香炉である。ミサにおいてこの香炉を扱うことができるのは、典礼を執り行う司祭と、それをふる役割を任命された侍者だけであり、聖歌隊員が小道具として手に持っていたり、歌いながらふったりするようなものではない(なにを隠そう私はそう思っていた)。それを知っている人からすると、今回の誤訳は、その程度の常識すらわきまえていない、たいへんお粗末なものに見えるにちがいない。
 


 
「enfant de chœur」と「jouer de l’encensoir」というキーワードによって、問題の第3連はカトリック教会のミサのシーンを描いたものであることが明確になる。「聖歌隊の子供」だったら、パリのどこかの通りや広場で歌っている場面をイメージする余地もあったかもしれないが、そうではなかったということだ。
 
 今回の誤訳は、カトリック教会のミサで振り香炉がどのように使われるのかをちゃんと調べていれば防げたことは明らかだ。キリスト教徒にとって、ミサでどんな儀式が行われているかは、結婚式や葬式と同様に、それほど熱心な信者ではなくても知っている常識の範疇に属する事柄なのだろう。明らかにこの詩の話者は、ミサという言葉を使わなくても例え話が通じる程度には、常識を共有している相手を前提として語りかけている。
 
 翻訳には、相手国の伝統文化や生活習慣への理解が不可欠である。この基本中の基本の大切さを、私は今回改めて痛感することとなった。
 

enfant de chœurをどう翻訳するべきか

 
 以上をふまえた上で、enfant de chœurをどう翻訳したらいいだろうか。これがなかなか難しい。調べてみた限り、カトリック教会のミサの侍者を指す呼び名はたくさんあるようなのだが、それはフランス語でも同じようだ。
 
 フランス語には侍者を意味する名詞としてservantやacolyteといった単語があるが、これらはそれぞれ「侍者(servant)」、「侍祭(acolyte)」と翻訳すべきだろう。フランス版ウィキペディアでは、ミサの侍者の項目のタイトルは「Servant d'autel」であり、これがフランスのカトリック教会における正式名称である。よって、これには日本のカトリック教会における正式名称である「祭壇奉仕者をあてなければならないだろう。このほかにも「servant de messe」という呼称が紹介されているが、これは直訳して「ミサの侍者」か「ミサ奉仕者」とするしかなさそうだ。したがって、これらの名称はenfant de chœurの訳語には使えない。いきなり手づまりである!
 

 
 自動翻訳も試してみると、「enfant de chœur」は「祭壇の少年」と翻訳された。だが、前述のとおりフランス語で「祭壇」はautelなので、直訳するにしてもほかとはかぶらない言葉にしなければならない。それが翻訳の仕事だ。それにしても、自動翻訳でもしっかり意訳してくれることには驚いた。ちなみにフランス語で「少年」はgarçon(ギャルソン)だが、「garçon d'autel」という表現は辞書には見当たらなかった。
 
 では、合唱団や聖歌隊ではないとすればchœurとはなんなのだろうか。これは「内陣」と呼ばれる、教会の中心部にある祭壇の近くのエリアのことらしい。もちろんこの意味も仏和辞典には載っている。
 


 
 そこがなぜchœurと呼ばれているのかと言えば、そこに聖歌隊席があるからのようだ。教会建築用語ではこのエリアを「クワイヤ」と呼んだりもする。クワイヤ(choir)とは、言うまでもなくchœurに対応する英語である。
 

クワイ
〘名〙 (choir)
①教会の聖歌隊。合唱隊。
②教会堂の内陣。また、内陣前方の聖歌隊席。コワヤ。チャンセル。

クワイアとは - コトバンク

 
 それでは、enfant de chœurの訳語は「教会の内陣の子供」か「クワイヤの子供」にするのはどうだろうか。残念ながら、これでは知らない人にはなんのことかさっぱりわからないだろう。それに加え、クワイヤには当然ながら「聖歌隊」という意味もあるため、それではけっきょく「聖歌隊の子供」と区別がつかなくなってしまう。
 
 なにより、ミサの侍者は現在のカトリック教会でも実際に活躍している人たちである。その呼び名の翻訳に、いまさら通じるかどうかすらあやしい造語に等しい呼称をわざわざ作る意味があるとは思えない。もしも日本のカトリック教会で実際に使われている呼び名がほかにもあるなら、それを訳語にするのがいちばんいいのだが。
 

enfant de chœurに隠されたもう一つの意味

 
 実を言うと、私がメインで使っているLogoVista電子辞典版の『プチ・ロワイヤル仏和(第4版)・和仏(第3版)辞典』で「enfant de chœur」の説明を見てみると、「侍者」のほかに「ミサ答え(ミサごたえ)」という呼称が紹介されている。通称や愛称の類だろうと思って最初は無視していたのだが、どのような由来があるのか調べてみることにした。
 
 カトリック大阪教区典礼委員会のホームページ内にある「Q&Aコーナー」によると、「ミサ答え」という呼び名はミサの侍者の正式名称ではないものの、歴史上使われてきた実績のある言わば「公認の通称」のようだ。
 

 古くは「侍祭」と呼ばれ、5世紀頃の記録によれば、ろうそくの火を灯し、ぶどう酒や水の準備をし、教皇が聖別したホスチアを他の教会に運ぶ役割をもっていました。
トリエント公会議(16世紀)で「侍祭」は、司祭候補者だけに限られました。
しかしミサを捧げるためには最低一人、司祭の祈りに応答する者が必要だとされたことから、「侍祭」がいない場合は、「侍者」あるいは「ミサ答え」と呼ばれる少年が奉仕するようになりました。

侍者とは何をする人ですか?/Q&Aコーナー(ミサ・集会祭儀編)

 
「Q&A」の解説を読む限り、「ミサ答え」という呼び名の由来は、「司祭の祈りに応答する」という役目に対応するなんらかの外来語ではないかと推察されるが、それがなんであるかまではネットで調べただけではわからなかった。しかし、少なくともフランス語のボキャブラリーのなかにはこれと同じ由来をもつ呼称はないようである。
 
 ふたたびフランス版ウィキペディアの「Servant d'autel」を引くと、「Comme il s'agit souvent d'enfants à partir de 6 ou 7 ans, on emploie traditionnellement le terme d'« enfant de chœur »(それは多くの場合6歳か7歳の子供であるため、「enfant de chœur」という用語が伝統的に使われている)」とあり、enfant de chœurもまたフランスのカトリック教会で使われてきた公認の通称であることがわかる。
 
「ミサ答え」には、由来こそ異なるけれども、「実際に使われてきた公認の通称」という共通点に加えて、呼び名からある程度役割が想像できるという非常に大きな利点がある。おそらく、辞書の執筆者がこの呼称を訳語に加えたのも同じ理由ではないかと思う。反対に、「ミサ答え」をフランス語に訳すときも、「répondeur de messe」のようなフランスでは使われていない呼び名を作るのではなく、「enfant de chœur」を使うべきだろう。
 
 というわけで、enfant de chœurの訳語は、ようやく「ミサ答え」に決定した。訂正後の訳文ではenfantを活かして「ミサ答えの子」とした。このほうが「ミサ答え」がなんらかの仕事であることが伝わりやすいと思う(元記事の訳文も訂正済み)。
 

君もやるしかないんだよ。毎晩のパン代を稼ぐために、
ミサ答えの子のように、振り香炉をふったり、
あまり信じていもしない「テ・デウム」を歌ったりさ。

ボードレール『悪の華』韻文訳――008「魂を売るミューズ(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

 
 最後に、決して見落としてはならないのは、ここで描かれているミサのシーンが、次の「けしからぬ修道者(LE MAUVAIS MOINE)」の予告になっていることである。このことに気づくまで、「魂を売るミューズ」から「けしからぬ修道者」への流れはいささか唐突で強引ではないかと思っていたのだが、おかげでやっとそのつながりがわかった。
 
「ミサ答え」は、ミサでの役割からも容易に想像がつくように、将来聖職者になることをめざす子供が務めることが多い。enfant de chœurとは、moineの卵でもあるのだ。これに気づいたときは久々に背筋がゾクゾクした。『悪の華』にまだこんな発見があるとは!
 
 しかしながら、同時に明らかなことは、やはりボードレールの『悪の華』には、今日においても、いまだになにが書いてあるのか理解されていない箇所がまだまだたくさんあるだろうということだ。まだ十分の一も読み進めていないのにこんな調子では先が思いやられるけれども、とにかく地道に、根気よく読み解いていくしかないだろう。
 

*1:悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。文芸社刊の私の旧訳は平岡旧訳と略記する。

*2:Charles Baudelaire, The Flowers of Evil, trans. James McGowan, intro. Jonathan Culler, Oxford University Press, 2008 (1993), p.27