平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――012「前世(1861年版)」

前世(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
私は長いあいだ、海辺の太陽が千の火で
染め上げた広大な柱廊の下に住んでいた。
その大きな柱は、まっすぐ厳かに並んで、
夕暮れは、玄武岩の洞窟と同様に見えた。
 
大空の姿を映して巻きこむ波のうねりは、
その豊かな音楽に備わった全能の和音と、
私の眼にも照り映えた沈む夕日の色彩を、
厳粛で神秘なる仕方で混ぜ合わせていた。
 
そこが私の静かな愉悦に生きたところだった。
蒼穹と、白波と、光輝と、全身に香の染みた、
裸の奴隷たちに取り巻かれていたというのに、
 
棕櫚の葉で私の面に涼を取らせていた彼らに、
唯一できた世話は、私をもの憂くさせていた
痛ましい秘密を、ただ深めることだけだった。
 
 

LA VIE ANTÉRIEURE

 
 
J’ai longtemps habité sous de vastes portiques
Que les soleils marins teignaient de mille feux,
Et que leurs grands piliers, droits et majestueux,
Rendaient pareils, le soir, aux grottes basaltiques.
 
Les houles, en roulant les images des cieux,
Mêlaient d’une façon solennelle et mystique
Les tout-puissants accords de leur riche musique
Aux couleurs du couchant reflété par mes yeux.
 
C’est là que j’ai vécu dans les voluptés calmes,
Au milieu de l’azur, des vagues, des splendeurs
Et des esclaves nus, tout imprégnés d’odeurs,
 
Qui me rafraîchissaient le front avec des palmes,
Et dont l’unique soin était d’approfondir
Le secret douloureux qui me faisait languir.
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/La Vie antérieure - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』第12の詩「前世」の韻文訳がやっと完成した。今年はここからペースを上げていきたい。
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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 今回は久々にタイトルの解説からはじめよう。とはいえ、仏和辞典で「antérieure」を引いても、和仏辞典で「前世」を引いても、「vie antérieure(ヴィ・アンテリユール)」はあたりまえのように例文で「前世」と紹介されているので、今回はタイトルの訳語にほかの選択肢を検討する余地はなかった。「前生(ぜんしょう)」という、より原語の語義に近い熟語もあるにはあるが、これは仏教用語なので外国語の翻訳には使えない。
 
 もっとも、「邪魔」や「愚痴」のように仏教用語であっても日常語として定着しているものまで使用を避ける必要はないだろうが(私はできる限り使用しないつもりだが)、「後生(ごしょう)」や「今生(こんじょう)」ならともかく、「前生」を会話で使っている場面を、少なくとも私は時代劇ですら見たことがない。
 
 意味の上では、「前世」も「前生」も同じく「生まれ変わるまえの人生」だ。この言葉は、魂の転生の思想を前提としなければ理解できない概念である。だが、輪廻転生の思想が教義のなかにあるわけではないキリスト教文化圏において、この思想がどのように受け入れられているのか(あるいはいないのか)は、正直言ってよくわからない。ロマン主義の時代に流行したそうだが、おそらく、ただのファンタジーとしておもしろがられただけなのではないかと思われる。そのあたりのいい加減さは、日本も西欧も大して変わらないのかもしれない。
 
 とはいえ、古今東西のオカルト思想にかぶれていたボードレールが、こうした神秘思想に興味を引かれたこと自体は、自然ななりゆきだったと言うべきだろう。ちなみに、この詩は魂の転生をテーマとした作品ではないとする説もあるにはあるが、私は支持しない。
 

魂の転生と秘密の建築

 
 では、ボードレール自身は魂の転生を信じていたのだろうか? これをどう考えるかによって、『悪の華』の解釈は一変するだろう。きっと、信じていたとする証拠も、信じていなかったとする証拠も、ボードレールの書き残したものからいくらでも見かるだろう。だが、信仰と同じく、それはけっきょくのところ本人にしかわからない問題だ。
 
悪の華』を読み解く上で重要なのは、悪の華』の「秘密の建築」に組み込まれた転生のモチーフである。その意味で、今回の「前世」は、「照応」と同じく『悪の華』を読み解くキー概念を前面に出した詩であるという見方ができるだろう。転生を繰り返す主人公たちによって、『悪の華』の主題もまたリフレインされるのである。
 
 わかりやすい例では、ちょうど前回ふれたシシュフォスからサタンへの転生がそうだ。そこで強度を増しつつ反復されているのは、言うまでもなく神への反逆のテーマである。そして、今回の「前世」の語り手もまた、シシュフォスへと化身した「不遇」の「私」の生まれ変わりにほかならない。
 
 そのことは、この詩の舞台からも確認できる。第1連に登場する「広大な柱廊(vastes portiques)」とは、言うまでもなく古代ギリシャパルテノン神殿であり、「海辺の太陽(les soleils marins)」とはエーゲ海の太陽である。それは、第3連における裸の奴隷たちの「全身に香(か)の染みた(tout imprégnés d’odeurs)」という描写によっても裏づけられている。これは古代ギリシャ・ローマ時代における上流階級の入浴の習慣にルーツをもつ表現だ。シシュフォスは、ギリシャ神話のコリントスの王であった。
 

古代ローマ人にとって入浴は非常に重要だった。彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には一日中いることもあった。裕福なローマ人が1人か複数人の奴隷を伴ってやってきた。料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどした。入浴前には運動をする。例えば、ランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などである。運動後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。

古代ローマの公衆浴場 - Wikipedia

 
 ところで、これまで「tout imprégnés d’odeurs」という詩句は、「奴隷が自分の身体に香油ないし香料を塗っている」と解釈されてきた。だが、この表現のルーツに照らせば、「主人に塗った香油の臭い(odeurs)が全身に染みついた(tout imprégnés)」と解するのが正しいのではないかと私は考えている。古代の上位貴族のなかには、財力を誇示するため、奴隷にも高級品である香油をつけさせていた者もいたかもしれないが、「前世」のこのシーンがわざわざそんな特殊なケースを描いているとは考えにくい。かえって無知を疑われるリスクのほうが大きいからだ。そうした誤解を避けるためにこそ、「臭いを染み込ませた(imprégnés d’odeurs)」と表現したのではないだろうか。
 
 話を戻そう。「不遇」から「前世」への語り手の転生は、「前世」の「私」もまた、「不遇」の語り手と同様の苦悩を抱えていることを示唆しているだろう。
 

プレ・スプリーン詩群の発見

 
 魂の転生というテーマに注目して「前世」を読み解いていく上で、絶対に見落としてはならないのは、『悪の華』の76番目に収録された第2の「スプリーン」との照応である。
 

私は幾千の時を生きるよりなお多くの記憶を持つ
 
勘定書や 詩稿や 恋文や 告訴状や
恋歌や 領収書に巻かれた重い髪の束などが
その抽斗へと詰められし巨大な戸棚も
わが悲しき脳髄ほどに秘密を隠してはいない
そこはピラミッド 無辺の地下納骨堂
共同墓地よりなお多くの死者を安置する場所*1

J’ai plus de souvenirs que si j’avais mille ans.
 
Un gros meuble à tiroirs encombré de bilans,
De vers, de billets doux, de procès, de romances,
Avec de lourds cheveux roulés dans des quittances,
Cache moins de secrets que mon triste cerveau.
C’est une pyramide, un immense caveau,
Qui contient plus de morts que la fosse commune.

Les Fleurs du mal (1861)/Spleen (« J’ai plus de souvenirs que si j’avais mille ans ») - Wikisource

 
「前世」と第2「スプリーン」は、冒頭の「千(mille)」と5行目の「秘密(secrets)」によってリンクしているばかりでなく、第2「スプリーン」の「私」が証言する「幾千の時を生きるよりなお多くの記憶」によって、直接「前世」とのつながりを想起することを求められている。これほど気前のいいヒントの多さが示しているとおり、これは悪の華』に組み込まれた転生の物語に気づかせるための仕掛けである。
 
 第2「スプリーン」の「私」の記憶は、「永遠の過去から(Depuis l’éternité)」墓場をさ迷い歩き、そこに住み続ける「けしからぬ修道者」をも想起させるだろう。
 

――わが魂は、けしからぬ共住修道士のこの私が、
永遠の過去から歩きまわり、住み続けている墓場。
この忌々しき回廊の壁を飾るものなどなにもない。

ボードレール『悪の華』韻文訳――009「けしからぬ修道者(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

— Mon âme est un tombeau que, mauvais cénobite,
Depuis l’éternité je parcours et j’habite ;
Rien n’embellit les murs de ce cloître odieux.

Les Fleurs du mal (1861)/Le Mauvais Moine - Wikisource

 
 第2「スプリーン」の「無辺の地下納骨堂(immense caveau)」との照応により、この「けしからぬ修道者」の墓場の光景もまた、スプリーン(Spleen)の形象にほかならないことが明らかとなる。おそらく、これこそが『悪の華』に姿を現した最初のスプリーンのイマージュである。この墓場に埋葬されているのは、スプリーンによって抜け殻と化した過去のあらゆる偉大なものたちばかりでなく、幾度となく転生を繰り返してきた「私」の亡骸たちでもあるのだろう。
 
 それに続く「敵」と「不遇」にも、それぞれスプリーンを暗示するものが登場することは前回まで解説してきたとおりだ。
 


 
 ということは、今回の「前世」も含めて、悪の華』の序盤にすでに中盤のハイライトであるスプリーン詩群を予告する詩が四つ並んでいたことになる。第2「スプリーン」冒頭の具象化されたスプリーンのイマージュは、その「秘密」の答え合わせだったのだ。
 
 ボードレールが用意した解答は、第2「スプリーン」の「私」が、第3「スプリーン」において「雨の国の王(le roi d’un pays pluvieux*2)」へと転生を果たしたことによって、より完全なものとなるだろう。スプリーン詩群のこの配列は、明らかにプレ・スプリーンの「前世」を想起させるためのダメ押しであり、第3「スプリーン」そのものも、そのまま「前世」の続編として、すなわち「痛ましい秘密(Le secret douloureux)」の告白として読むことが可能だ。もうおわかりだろうが、「前世」の「私」の「痛ましい秘密」とは、スプリーンのことである。
 
 くやしいことに、これは私の新発見ではなく、「前世」の「私」と第3「スプリーン」の「雨の国の王」とのシンクロについては、新進のボードレール研究者である鈴木麻純が、ボードレールの他処(ailleurs)における「匂い/香り」の諸機能」(2019年)においてすでに指摘していた。才能ある若手の登場は心強いが、その分脅威でもある。
 

 詩人はそこで至福を見出すことはなく、むしろ、奴隷たちが甲斐甲斐しく世話をすればするほど、「苦悩に満ちた秘密」は深いものとなっていく。「私」は「幸福の島の王」であるというよりは、「雨ばかり降る国の王」のようであり、奴隷の気遣いによって孤独を深めるその姿は、まるで「無頓着な浮世の人には知られぬ老いたスフィンクス」を描いているかのようである。ここでわたしたちは、「前世」の「私」のなかに、「憂愁」詩群で描かれているような、現代の「私」の影を見ることができるのではないだろうか。*3

 
 これがただの偶然では絶対にないことは、各詩篇に付された番号によっても明らかだ。プレ・スプリーン詩群の4詩篇、「けしからぬ修道者」、「敵」、「不遇」、「前世」は、それぞれ9、10、11、12番目の詩であるのに対し、スプリーン詩群は、1861年版では変更されてしまったものの、初版の1857年版では、それぞれ59、60、61、62番目の詩だったのだ。符号に気づかせるためにわざわざ番号をそろえているのは明白だろう。ほかにも、ヒントと思しきものはまだまだ見つかるにちがいない。
 
 このようなプレ・スプリーン詩群とスプリーン詩群との対照からはっきりすることは、明らかにボードレールは、『悪の華』を謎解きを楽しむことができる詩集にしようとしていたことだ。なにより、先行する詩で提示された「秘密」の答えが、後続する詩のなかで明かされていることは特筆に値するだろう。悪の華』には謎を解く仕組みが用意されているのだ。言うまでもなく、これはエドガー・アラン・ポーの探偵小説からの影響がもたらした趣向だろうが、これまで理解されてきた以上に、ポーが『悪の華』に与えた影響は絶大なものだったと考えるべきだろう。
 
 もしかすると、悪の華』の真の新しさとは、詩集をたんなる詩の寄せ集めではなく、謎解きを楽しむ読み物にしようとしたことにこそあったと言えるかもしれない。
 

不可解な奴隷たちの役目

 
 きれいにまとまったところで終わりにしたかったのだが、今回の「前世」にも、翻訳者や研究者によって解釈が大きく異なっている箇所があるので、最後にその解説をしておかなければならない。
 
 問題の箇所は第4連にある。今回は、いつもの4冊の邦訳と原文に加えて、ジェームズ・マクゴーワンによる英訳も確認していこう。
 

椰子の葉にわが額あおぎ
われの嘆きの源の悲しき秘密さぐるをば
唯一無二なるつとめとは、なしいけるよな。*4

奴隷たちは、棕櫚の團扇󠄁で私の額を扇󠄁いだが、
その眞心を籠めた一途󠄁の世話さへも、憂鬱に
私を沈めた惱ましい祕密を 更に深刻にしたのであつた。*5

彼らは棕櫚で私の額を扇いでくれたが、
その気づかいはただ一つ もっと深めることだったのだ
私を衰弱させて行く苦しい秘密を。*6

棕櫚の葉で私の額に風をおくる奴隷たちの
懸念といっては、私を日に日にやつれさせる
いたましい秘密を、きわめることばかりだった。*7

  • ジェームズ・マクゴーワン訳

Who cooled my brow with waving of the palms,
And had one care—to probe and make more deep
What made me languish so, my secret grief.*8

  • 原文

Qui me rafraîchissaient le front avec des palmes,
Et dont l’unique soin était d’approfondir
Le secret douloureux qui me faisait languir.

Les Fleurs du mal (1861)/La Vie antérieure - Wikisource

 
 解釈が大きく分かれているのは、原文2行目のsoinとapprofondirである。例示した邦訳では、soinを、堀口は「つとめ」、鈴木は「世話」、安藤は「気づかい」、阿部は「懸念」と訳し、approfondirを、堀口は「さぐる」、鈴木は「更に深刻にした」、安藤は「もっと深めること」、阿部は「きわめること」と訳している。
 
 訳語のバラつきもさることながら、soinとapprofondirの訳語の組み合わせが訳者によってバラバラなことも、この連の難解さを表していると言えよう。マクゴーワンの英訳では、soinは「care」だけだが、approfondirのほうは「to probe and make more deep」と、二種類の解釈が併記されている。だが、「one care」と言っているのにこれはおかしい。
 
「前世」第4連の解釈については、『「悪の花」註釈』において多田道太郎が詳細な検討を行っている。
 

 まず,あいまい性(この場合は両義性として現われる)の低いl’unique soinは,前1行との照りかえしで,心づかい,看護の意味にとれる。ここからv.13,v.14を整合的に解釈すると,(主人に優しい気持ちを持つ)奴隷の,ひたすら心がけていたのは,苦悩にみちた秘密をより鋭くすることであった――というイロニーとなる(解Ⅰ)。approfondirということばには,1)感覚・感情を深める,鋭くする,という意味と2)知的に問題を究める,深く掘り下げる,の意味と,とりあえず両義が考えられる。(解Ⅰ)は1)の意味を持ったが,soinのもう一つの意味,気がかり,懸念をとれば,奴隷の気がかりは,主人の(不可解な)苦悩の正体を究めようとすることにあった,となる(解Ⅱ)。この解によれば,感覚的幻想の中から現われた奴隷が突如,好奇心にとらわれる知的存在に変ったことになる。*9

 
 本題に入るまえに補足しておくと、多田の解釈には、「前世」はハシッシュ(大麻による幻覚を描いた作品であるという予断が前提としてある。「感覚的幻想」とはそのことである。だが、強烈な高揚感と酩酊をもたらすという麻薬の作用と、前世の生活に「私」が「静かな愉悦(les voluptés calmes)」を感じていたという描写は両立しない。麻薬によって鋭敏になった感覚でとらえた世界の見え方を描いていると言われれば、そうなのかもしれないが、「前世」は麻薬とは無縁の一般人の想像力でも不都合なく読み解ける作品だと思うので、正直言って私にはこの説はピンとこない。少なくとも、一般人の想像力の及ばない常軌を逸した世界を描いたような作品だとは思えない。
 
 多田が整理した解で私の考えに近いのは(解Ⅰ)である。「近い」と言うからには異論もあるのだが、そこはあとで説明するとして、理由は(解Ⅱ)の問題点と同じで、「私」が回想する前世の生活の、言わば舞台装置の一部にすぎなかった奴隷たちが、突然主人の「苦悩の正体」を究明しようとしはじめるというのは、あまりにも不自然だからだ。
 
 多田が示唆するとおり、(解Ⅱ)の解釈では、奴隷たちが主人の「苦悩の正体」を究明しようとする動機の説明がつかない。加えて、おそらく大勢いると思われる奴隷たちが、みな一様に主人の苦悩に強い関心を寄せるという不自然な状況設定も、この説明の困難さを倍加させている。さらに言えば、(解Ⅱ)の解釈を取るなら、奴隷たちは「主人の調子が悪そうにしているのを心配している」という程度ではなく、「主人の不調の原因を強い関心をもって究明しようとしている」と解釈しなければならないはずだ。私には奴隷たちがそんな強いモチベーションをもつ理由があるとは思えない。
 
 しかしながら、ほかならぬこの不可解さが、一つの謎として「前世」第4連に極めて強い寓意性を生じさせているように見えることも確かだ。「主人の苦悩の正体を究明しようとする奴隷たち」とは、いったいなんのアレゴリーなのだろうか? その一つの解として、多田は奴隷たちをボードレールと同一視する解釈を提示している。
 

「前世」の奴隷たちには,幻覚,幻想,イマージュの群にとらわれたボードレール自身の投影があると見える。詩人は,ここで豊かな逸楽を味わう者と,それをじっと見つめ,囚われの身を嘆く者とに分化してゆく。「奴隷」もまた,「私」の幻想のなかに現われた偶像,詩人の身近かに寄りそう幻想的存在であった(解Ⅲ)。*10

 
 このように、アレゴリーを足がかりとして多田の解釈はどこまでも飛躍していく。これは、approfondirを「深まらせる」と解釈した場合にも同じことが起こるだろう。奴隷たちは、なぜ主人の苦悩の秘密をより深刻化するように仕向けるのだろうか? この場合も、奴隷たちをボードレールその人とみなすならば、答えらしきものが垣間見えるような気がしないこともない。
 
 多田の(解Ⅲ)に私は賛成ではないが、こうした深読みを誘うことも『悪の華』の魅力にはちがいないので、一概に否定するわけにもいかないのが悩ましいところだ。
 

文学研究の陥穽

 
 では、これまでの「前世」第4連の解釈の、どこに問題があるのだろうか?
 
 問題の大本は、soin(ソワン)を「気がかり」や「懸念」、すなわち奴隷たちの内心と解釈していることにあると私は考えている。マクゴーワン訳でも確認できるとおり、soinは英語のcare(ケア)にあたる語だ。ということは、この場面のsoinも、私たちがふだんその意味でケアという言葉を使っている、「世話」を意味しているのではないだろうか。奴隷の仕事とは、言うまでもなく主人の世話をすることだ。soinは、そうした「任務」や「仕事」という意味でも使われている単語である。
 
 ここは大事なので、しっかり辞書を引いておこう。
 


 
 そもそも、「前世」の語り手は、奴隷たちの内心に言及しているのだろうか? 実は、それ自体が慎重に見直されるべき問題なのではないだろうか。
 
「前世」の「私」は、第1連から一貫して、自分が前世の生活をどう感じていたかを回想し続けている。語り手がただ自分の思い出を回想しているだけなら、その過程で奴隷たちの内面に立ち入る必要は必ずしもない。それどころか、奴隷たちの役目を正しく伝える必要すらないだろう。よって、第4連のsoinも、奴隷たちがどんな世話をしていたかを説明したのではなく、奴隷たちの世話を「私」がどう感じていたかを述懐しているだけだとみなすことは可能である。そうであれば、奴隷たちがどういうつもりで主人に仕えていたかは、ここでは問題にはならない。
 
「前世」の語り手が、奴隷たちの内面に言及していると解釈しうる単語は、このsoin以外には存在しない。しかしながら、多田も指摘するとおり、このsoinは、その直前の詩行「棕櫚の葉で私の面に涼を取らせていた(Qui me rafraîchissaient le front avec des palmes)」を受けた表現であることは明白である。その流れをふまえるなら、本来このsoinは、第一に「世話」と読むことができないかどうかを検討するべき語であるはずだ。このあたりまえの読み方をあえて避けなければならない理由は、私にはあると思えない。
 
 そして無論、このsoinを「世話」と読むことは可能である。私以外にも、先に紹介した邦訳では、鈴木信太郎がこの解釈を取っている。訳語は「つとめ」だが、堀口大學訳も解釈の方向は同じと考えて差し支えないだろう。鈴木と堀口以外にも、発表年の古い邦訳にはこの解釈を取っているものがある。ここではもう一例、1963年に刊行された人文書院版『ボードレール全集』Ⅰ巻福永武彦を紹介しておこう。
 

僕の熱した額を扇ぐ棕櫚の葉風はゆるやかに、
僕の胸をやるせなく悩ませた苦しい秘密を
更に深めることばかりが、彼等の仕事ででもあったろう。*11

 
 福永訳ではsoinは「仕事」と訳されているが、仕事をする奴隷たちの思惑にはまったくふれられていない。
 
 考えてみれば、これは当然のことだ。というのも、「前世」第4連において本来「私」が最も注目してほしいポイントは、明らかに「痛ましい秘密(Le secret douloureux)」のほうだからだ。この「秘密」に注目してほしい語り手にとっては、奴隷たちはそのための道具にすぎず、ましてや、その道具の心情などノイズでしかあるまい。にもかかわらず、読者が奴隷たちの役目の不可解さに気を取られてしまっては、肝心の「秘密」がぼやけてしまうのだ。私はボードレールがそんなつまらないミスを犯したとは思わない。
 
 最後に、結論代わりにもう一度私の新訳を提示しておこう。
 

棕櫚の葉で私の面に涼を取らせていた彼らに、
唯一できた世話は、私をもの憂くさせていた
痛ましい秘密を、ただ深めることだけだった。

 
 以上の読解から、例に挙げた邦訳のなかで、「前世」第4連を正しく読み解くことができていると考えられるのは、発表年の古い鈴木信太郎訳と福永武彦訳だけだ。このことは、後続する邦訳書や研究書によって、翻訳がより正しいものに改められていくとは限らないことをも意味している。
 
「前世」第4連の解釈の混乱は、approfondirに二重の意味が掛けられていると言い出した研究者がいたことが最たる原因ではないかと思われる。これは日本に限った話ではなく、例に挙げたマクゴーワンの英訳のように、その悪影響は英語圏にも及んでいる。これまで翻訳者や研究者の議論を呼んでいた謎が、たんなる誤読の産物だったとすれば残念この上ないことだが、そのような誤読を一つひとつ正していくことでしか、文学作品への理解を深めることはできないのだ。
 
 そういえば、多田の(解Ⅲ)は、「前世」の「私」を「豊かな逸楽を味わう者」としていたが、私の解釈は真逆だ。千回以上も見たであろう壮麗な海辺の光景にも、奴隷たちに囲まれたなに不自由ない生活にも、「私」は退屈していたのだ。そんな「静かな愉悦」では飽き足らなかったからこそ、詩人は「旅のボヘミアン(BOHÉMIENS EN VOYAGE)」に惹かれてゆくのである。
 
 まさにそれこそが、スプリーンという怪物の真の恐ろしさにほかならない。
 
 

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参考リンク






*1:ボードレール悪の華[1857年版]』平岡公彦訳,文芸社,2007年,p.118

*2:Les Fleurs du mal (1861)/Spleen (« Je suis comme le roi d’un pays pluvieux ») - Wikisource

*3:鈴木麻純「ボードレールの他処(ailleurs)における「匂い/香り」の諸機能」(2019年)

*4:ボードレール悪の華堀口大學訳,新潮文庫,2002年改版,p.52

*5:ボオドレール『悪の華鈴木信太郎訳,岩波文庫,1961年,p.57

*6:ボードレール悪の華安藤元雄訳,集英社文庫,1991年,p.46

*7:シャルル・ボードレールボードレール全詩集Ⅰ』阿部良雄訳,ちくま文庫,1998年,p.56

*8:Charles Baudelaire, The Flowers of Evil, trans. James McGowan, intro. Jonathan Culler, Oxford University Press, 2008 (1993), p.31

*9:シャルル・ボードレール京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』上,平凡社,1988年,p.158

*10:同前,p.159

*11:ボードレール悪の華(再版)』福永武彦訳,『ボードレール全集』Ⅰ,人文書院,1963年,p.126