平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――014「人と海(1861年版)」

人と海(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
自由人よ、いつでもおまえは海を愛おしむだろう!
海はおまえの鏡。おまえは無限に繰り広げられる
波濤の刃のなかに、おまえの魂を見つめるだろう。
おまえの精神には、海にも劣らぬ苦汁の淵がある。
 
おまえは喜んでおまえの鏡像の胸中に身を投じる。
おまえはそれを眼と腕で抱きしめる。そして時に
おまえの心は、自身のざわつきをまぎらせもする。
飼い馴らしえぬ野生の苦悶の声が立ち騒ぐなかに。
 
おまえたちには二人とも闇があり、口も堅くなる。
人よ、おまえの深淵の底を測深しえた者はいない。
おお、海よ、おまえの内奥の富を知る者もいない。
それほどに、おまえたちは恋々と秘密を守りきる!
 
それなのに、数えきれぬ世紀が過ぎ去ってもなお、
おまえたちは、憐憫も悔恨もなく戦い続けている。
そんなにも、おまえたちは殺戮と死を愛している。
おお、永遠の闘士たちよ、おお、非情なる兄弟よ!
 
 

L’HOMME ET LA MER

 
 
Homme libre, toujours tu chériras la mer !
La mer est ton miroir ; tu contemples ton âme
Dans le déroulement infini de sa lame,
Et ton esprit n’est pas un gouffre moins amer.
 
Tu te plais à plonger au sein de ton image ;
Tu l’embrasses des yeux et des bras, et ton cœur
Se distrait quelquefois de sa propre rumeur
Au bruit de cette plainte indomptable et sauvage.
 
Vous êtes tous les deux ténébreux et discrets :
Homme, nul n’a sondé le fond de tes abîmes ;
Ô mer, nul ne connaît tes richesses intimes,
Tant vous êtes jaloux de garder vos secrets !
 
Et cependant voilà des siècles innombrables
Que vous vous combattez sans pitié ni remord,
Tellement vous aimez le carnage et la mort,
Ô lutteurs éternels, ô frères implacables !
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/L’Homme et la Mer - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』第14の詩「人と海」の韻文訳をようやく公開できた。この詩の旧訳のできはそんなに悪くなかったと思っていたのだが、それでもほぼ別物と言っていい仕上がりにできたことに満足している。
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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 今回の「人と海」が大航海時代をテーマとした詩であることは、私は自明のことだろうと思っていたのだが、阿部良雄ボードレール全集Ⅰ』の註釈にも『「悪の花」註釈』にもなぜか言及がないようなので、まずはその解説からはじめよう。
 

 
 最初に世界史を復習しておこう。前回の「旅のボヘミアンの主役であるボヘミアンがヨーロッパ諸国にやってきたのは15世紀の前半のことであり、「人と海」の次の「地獄のドン・ジュアンの主役であるドン・ファンの伝説が成立したのが17世紀の前半である。大航海時代が本格化するのは15世紀の後半だから、この詩の並び順からして、「人と海」から読者が大航海時代を想起することを詩人が期待しているのは明らかだろう。もっとも、こうした時系列を知らなくても、「旅のボヘミアン」の次の作品ということだけで、充分に大航海時代を連想する理由になるはずだ。
 


 
 ヒントは、もちろん詩の本文のなかにもある。前回の「旅のボヘミアン」の最後の2行を再読してみよう。
 

この旅人たちを迎えるが、彼らの行く先には、
なおも見慣れた未来の闇の帝国が展けていた。

ボードレール『悪の華』韻文訳――013「旅のボヘミアン(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Devant ces voyageurs, pour lesquels est ouvert
L’empire familier des ténèbres futures.

Les Fleurs du mal (1861)/Bohémiens en voyage - Wikisource

 
 最終行の「見慣れた未来の闇の帝国(L’empire familier des ténèbres futures)」とは、前回の解説の末尾で私が唐突に断定していたとおり、スペイン帝国のことであると考えられる。ヨーロッパに進出し、各国を転々としていたボヘミアンたちが最後に到達したヨーロッパ西端には、大航海時代に世界を二分することになるスペインとポルトガルが存在した。それがここにempire(帝国)という単語が登場する理由だろうが、両国のうち、ボヘミアンとのつながりがより深いのは、言うまでもなくスペインのほうだろう。
 
 ヨーロッパ各地を遍歴したボヘミアンの魂は、それでは飽き足らずに自由人(Homme libre)へと転生を果たし、さらなる旅を続けるために大海原へと乗り出す。スペイン帝国によるボヘミアンに対する迫害を思えば、いくらなんでも強引すぎる気もするが(笑)、19世紀当時も現在も、ボヘミアンが自由人をイメージさせる存在だったのは確かだ。
 

鏡と刃の織りなす照応

 
 Homme libreのほかにも、魂の転生のテーマを裏づけるキーワードが「人と海」第1連に巧妙に仕込まれている。それが、私の新訳では「波濤の刃」と翻訳しているlame(ラム)である。この名詞には、「波頭が白く崩れるほどの高波」と「刃物の刃」の両方の意味が掛けられていると解釈できる。私の訳語はそれを反映させるための苦肉の策である。
 


 
 このlameは、刃の鏡面が鏡のメタファーに対応するだけでなく、「旅のボヘミアン」の男たちが担いでいた武器(arme)に反射した光をも照り返している。
 

彼女らが身を寄せあって乗る荷馬車のそばで、
担いだ武器を光らせて、徒歩で行く男たちは、
不在のキマイラたちへの陰鬱な愛惜のせいで、
動きの鈍くなった眼に、空を散歩させていた。

ボードレール『悪の華』韻文訳――013「旅のボヘミアン(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Les hommes vont à pied sous leurs armes luisantes
Le long des chariots où les leurs sont blottis,
Promenant sur le ciel des yeux appesantis
Par le morne regret des chimères absentes.

Les Fleurs du mal (1861)/Bohémiens en voyage - Wikisource

 
 高波の白刃と武器の刀身に乱反射した光のイマージュを媒介にして、「人と海」第1連と「旅のボヘミアン」第2連がオーバーラップする。おそらく、ボヘミアンの男たちが持っていたのがsabre(剣)でもlance(槍)でもなくarme(アルム)だった理由は、この仕掛けのためだろう。
 
 この演出により、「人と海」の「無限に繰り広げられる波濤の刃(le déroulement infini de sa lame)」は、「波のように押し寄せる刃物を持った男たち」のイマージュをも喚起することになるだろう。この殺伐としたイマージュは、第4連の「数えきれぬ世紀(siècles innombrables)」にわたる戦いを予示するものでもあり、「人と海」の構成を理解するためにも、この詩句の翻訳に「刃」という言葉は必要不可欠である。そして言うまでもなく、これも大航海時代を想起させるためのヒントにほかならない。
 
 ところで、世界史に詳しい人は、「全盛期には「太陽の沈まぬ国」と称されたスペイン帝国が、闇(ténèbres)の帝国というのはおかしいのではないか」と疑問に思われるかもしれない。その疑問はもっともである。ここはボードレールお得意のイロニーで片づけてしまわずに、もう少し詳しく「人と海」を読み解いてみることにしよう。
 

闇が意味するもの

 
「人と海」の第3連にも、闇にまつわる単語が使われている(赤字は引用者)。
 

おまえたちには二人とも闇があり、口も堅くなる。
人よ、おまえの深淵の底を測深しえた者はいない。
おお、海よ、おまえの内奥の富を知る者もいない。
それほどに、おまえたちは恋々と秘密を守りきる!

Vous êtes tous les deux ténébreux et discrets :
Homme, nul n’a sondé le fond de tes abîmes ;
Ô mer, nul ne connaît tes richesses intimes,
Tant vous êtes jaloux de garder vos secrets !

Les Fleurs du mal (1861)/L’Homme et la Mer - Wikisource

 
 ここに登場しているのは、ténèbres(テネーブル)の形容詞形のténébreux(テネブル)だが、意味はそのまま「闇がある」である。それに並置されているdiscrets(ディスクレ)は、「控え目な」という意味もあるが、ここでの意味は、文脈から明らかに「口が堅い」のほうなので、先行するténébreuxには「謎がある」というニュアンスが込められていると解釈すべきだろう。
 


 
 参考に、第3連の既存の4種類の邦訳も確認しておこう。
 

君も海も、同じほど、陰険で隠しだてする、
人間よ、君の心の深間を究めた者が一人でもあったか?
海よ、誰ひとり君が秘める財宝の限りは知らぬではないか?
それほどに君らには各自の秘密が大事なのだ!*1

海もお前󠄁も二人とも 暗󠄁黑であり 隱密だ。
人よ、お前󠄁の深淵の底を 誰も測らなかつた。
海よ、お前󠄁の水底に藏した富は 識る者もない。
かくまで二人は汲々と祕密を守るに餘念がない。*2

君たちは双方ともにむっつりと口数少ない。
人間よ、君の深みの奥底を測定した者はいないし、
おお 海よ、おまえの内部の豊かさを知る者もない、
それほどに 君たちは固く自分の秘密を守る!*3

きみも海もともどもに、陰険で口が固い。
人間よ、きみの深淵の底を測った者は誰もいない。
おお海よ、何人もきみの心の奥の富を知らぬ、
さほどにきみらは、秘密を守るに汲々としている!*4

 
 こうして対比してみると、私の「闇があり」がいちばん大胆な意訳に見えるだろうが、無論実際は逆だ。西欧の言語も日本語も、変化しない共通の語幹をもち、活用語尾の変化によって品詞が変わる単語のグループがあるのは同じである。よって、ténèbresを「闇」と翻訳するのなら、ténébreuxの訳語にも「闇」という漢字を含めたほうがより原語に近い表現になるはずだ。しかも、「闇がある」という表現には、「陰険な」と「闇に隠れた」の両方の意味に解釈する余地がある。
 
 では、ここで言う闇とはなんだろうか? それが、原文2行目と3行目できれいに脚韻を踏んでいる人のabîmes(深淵)と海のintimes(内奥)にほかならないのだが、重要なのは前者のabîmes(アビム)のほうである。察しのいい方はおわかりだろうが、これは英語のabyss(アビス)、すなわち地獄のことだ。
 


 
 このabîmesを、堀口や安藤のように、3行目の海のrichesses(富)と同じものと見て、人の心の奥の深さ、すなわち感受性や想像力の豊かさを表していると解釈することもできなくはない。だが、そうすると、自由人であるはずの人が、なぜそれを隠さねばならないのかという難問が生じるだろう。自由人ならば、だれはばかることなく好きにふるまえばいいではないか!
 
 だが、自由人でも衆目に晒すのをはばかるような闇をその本性に秘めているとしたら? ここで言う「感受性や想像力の豊かさ」とは、地獄に落ちるのがふさわしい者たちが悪をなすためにこそ活かされるものだとしたら? まさにそれこそが、このabîmesが暗示するものにほかならないかもしれないのだ。
 

スペイン帝国の闇

 
「人と海」の読解を続けよう。「人と海」において自由人に転生したボヘミアンたちは、大海原へと乗り出し、果てしなく冒険の旅を続けるだろう。第4連に詠まれている人と海の戦い(combattez)とは、まさにそのことを表している。
 

それなのに、数えきれぬ世紀が過ぎ去ってもなお、
おまえたちは、憐憫も悔恨もなく戦い続けている。
そんなにも、おまえたちは殺戮と死を愛している。
おお、永遠の闘士たちよ、おお、非情なる兄弟よ!

Et cependant voilà des siècles innombrables
Que vous vous combattez sans pitié ni remord,
Tellement vous aimez le carnage et la mort,
Ô lutteurs éternels, ô frères implacables !

Les Fleurs du mal (1861)/L’Homme et la Mer - Wikisource

 
 海の果てをめざして旅立った自由人の一人であるコロンブスは、1492年、スペイン王室の支援のもと、ついに大西洋の横断に成功し、いわゆる「新大陸」を発見する。しかし、よく知られているとおり、歴史上の偉人とされる人物は、同時に大量虐殺の首謀者であることが珍しくない。そして、コロンブスはまぎれもなくその代表者の一人である。
 

 
 スペイン帝国が、征服したアメリカ大陸の各地をどのような地獄に変えたかを見てきた人物がいる。キリスト教の布教のため、征服者たちとともに中南米に渡ったカトリック教会の司教ラス・カサスである。その報告書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1552年)では、スペイン人征服者による大虐殺の犠牲となったアメリカ先住民の総数を1,200万人から1,500万人と推計している。*5ホロコーストの2倍以上である。
 

 
 この推計には、誇張された数字であるとか、スペイン人が持ち込んだインフルエンザや天然痘などの疫病による死者を区別せずに計上されているといった批判もあるそうだが、邦訳の解説で紹介されている現代の歴史学者による推計と比較しても、*6死者数の総計としてはかなり実態に近いものであったと考えていいだろう。
 
「新大陸」にやってきたスペイン人たちは、まさに津波のように征服した土地の人々を皆殺しにし、そこを次々と荒れ果てた土地へと変えていった。ラス・カサスの『報告』は、彼の死後、オランダをはじめとする当時スペインと敵対していた国々で次々と翻訳され、反スペインのプロパガンダに利用されることとなる。そこにはフランスも含まれている。
 
 さらにフランスでは、マルモンテルがこの『報告』を下敷きにし、ラス・カサスその人を主人公とした小説インカ帝国の滅亡』(1777年)を刊行している。ボードレールは、1857年3月28日付けのプーレ=マラシ宛ての書簡において、プーレ=マラシが刊行を計画していた『十八世紀叢書』の収録作品リストの貧弱さを酷評し、叢書に収めるべき作品の一つにこの『インカ帝国の滅亡』を挙げている。*7この小説がきっかけとは限らないが、ボードレールがラス・カサスの『報告』を知っていたのはまちがいない。私は、彼の性格上、『報告』のフランス語訳を読んだ可能性も充分にあると考えている。
 
 アメリカ先住民の虐殺と収奪は、大航海時代に冠たるスペイン帝国の栄華と表裏一体のものだった。勇敢なる自由人たちが、わざわざ大西洋の果てまで冒険の旅をしてしたことは、けっきょくのところ金儲けのための人殺しにすぎなかったわけだ。「人と海」第4連の「おまえたちは殺戮と死を愛している(vous aimez le carnage et la mort)」という詩行は、海に出ては戦争をし、海を渡った先でも飽きもせず殺戮(carnage)に明け暮れる、人間の救いようのない野蛮さを皮肉ったものなのだ。
 
 その意味で、carnage(カルナージュ)は、大航海時代を一語で象徴する言葉であると言えよう。多田道太郎は、『「悪の花」註釈』で「なぜここにcarnageというイマージュが必要なのか,註者には不明」*8と嘆いていたが、以上のような歴史上の背景をしっかりふまえて「人と海」を読めば、難なく読み解けたのではないか。むしろこう読んでこそ、「「人と海」が,かの狂熱の呪詛「聖ペテロの否認」(CXVIII)といっしょに『パリ評論』に載せられたのも偶然とは考えられなくなる」*9はずだ。後者の多田の指摘は慧眼と言わねばなるまい。
 
 では、時としてそのような残虐非道の限りを尽くす人間が、その非情さ(implacables)において海と兄弟(frères)であるとは、どういう意味なのだろうか。
 

サド侯爵の自然哲学

 
 言うまでもなく、時に大自然は、われわれ人間を虫けらにように、容赦なく、徹底してひねりつぶすことを、私たちはよく知っている。たんなる自然の気まぐれと言うほかない大災害によって、どれほどの人間と都市が滅ぼされてきたかは、われわれの想像を遙かに超えるだろう。人間の努力も苦労も、文化も栄華も、大自然の脅威のまえでは塵に等しいものでしかない。そのことを、私たちは忘れたふりをして生きている。
 
 ボードレールは、そんな人間に牙を剥く自然の非情さに、人間の残酷さを重ねていたのだろうか。「人と海」がそう読むべき詩であることはまちがいない。だが、人間と海は、そうした表面上の類似だけではなく、本性に根ざした共通性によっても結びついているとボードレールは考えていた。
 
 その自然観において、ボードレールはまぎれもなくサド侯爵の忠実な教え子であった。対話篇『閨房の哲学』(1795年)の淫蕩の教師ドルマンセ「自然は自分に逆らうようなことを人間にそそのかすだろうか?」*10という問いに、ボードレールならばまちがいなく否と答えるだろう。「現代生活の画家」1863年)において、ボードレールは自然こそが罪の教師であると主張している。
 

自然は人に、眠ること、飲むこと、食べること、有害な大気に対抗して良くも悪くも身を守ることを強制する。そしてこの自然が、同胞を殺し、食し、監禁し、拷問にかけるよう人を駆り立てるのである。というのも、必要性と欲求との領域を脱し、奢侈と快楽の領域に入り込んでしまえばすぐに、自然の助言できるものが罪でしかないことに我々は気付くのである。この不謬の自然が、親殺しや食人、そして恥じらいと繊細さのために名付けることができないようなその他の幾千ものおぞましい行為を生み出した。

『現代生活の画家』第11章「化粧礼賛」 – Invitation@Baudelaire

 
 よって、「罪という、獣人が母の腹からその嗜好を汲み出したものは、本源的に自然なものである」*11この意味においてこそ、まさしく人と海は兄弟なのだ。しかしながら、このボードレールの自然観が、サド侯爵の影響のみによって形成されたなどということはあるまい。なにより、信念は、揺るぎない事実に裏打ちされてこそ確固たるものとなる。その意味で、ラス・カサスの『報告』が詩人の自然観の確立に与えた影響は、相当なものだったであろうことは想像に難くない。
 
 ラス・カサスは、インディオに暴虐の限りを尽くすティラーノ(無法者)どもの行動には、ある法則が見られたと報告している。
 

 さらに、次にあげる法則にも注目しなければならない。つまり、キリスト教徒が足を踏みいれ、通過したインディアスの土地では例外なく、インディオに対して先記のような残虐非道な仕打ちが加えられ、無辜のインディオが忌まわしい殺戮や暴虐や抑圧に苦しめられたが、キリスト教徒は時を追うごとに、さらに数々の新しい恐るべき拷問を次々と考えだし、ますます残虐になっていったという法則である。つまり、神は、キリスト教徒がにわかに身を持ち崩し、人間としての感情を喪失し、そして、地獄落ちの裁きを受けるに至る道を整えられたのである。*12

 
 無法者どもは、だれに教えられるでもなく、ただ自分たちの内なる嗜好のみを教師として、ここに引用するのもはばかられるような創意工夫に富んだ残虐行為を次々と考案していった。もっとも、これは無法者だけに見られる病癖などでは決してない。人類の拷問と刑罰の歴史を紐解いてみれば、法と正義を公使する側にも同様の傾向があったことは否定しがたい事実である。罪人に対して科された残虐な刑罰が、純粋に懲戒のためだけに行われたと信じるには、その歴史はあまりにも醜悪すぎるだろう。
 
 確かなことは、どこまでも自由に力を行使することを放任された人間は、残虐行為すらも楽しむようになりうるという事実である。人間がどのような残虐行為を、どれほどまで楽しむことができるかを知りたければ、参考となる実例に事欠くことはない。だが、その限界がどこにあるかはだれにもわからない。その意味で、「人間の落ちる地獄の底の深さを測りえた者はいない」のだ。
 
 ラス・カサスが告発したティラーノどもの蛮行は、みずからをリベルタン(libertin)と称するサドの小説に登場する悪党どもを彷彿とさせる。「人と海」の初出時のタイトルが「L’Homme libre et la mer(自由人と海)」*13であったこととも併せて、Homme libreという詩句には、リベルタンを連想させる意図があったのではないかと私は勘繰っている。だとすれば、この詩は冒頭から一貫して真の意味でのサディズム、すなわちドルバックの後継者としてのサドの自然哲学をテーマとした作品であると評価することも可能だろう。
 

 
 サド侯爵と同じく、ボードレールにもこうした悪党どもに対する神の無能さを免罪する義理はない。それこそが、ボードレールが「自由人と海」を「聖ペトロの否認」とともに世に問うべき作品と考えた理由にほかならない。
 
 

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参考リンク




*1:ボードレール悪の華堀口大學訳,新潮文庫,2002年改版,pp.54-55

*2:ボオドレール『悪の華鈴木信太郎訳,岩波文庫,1961年,p.61

*3:ボードレール悪の華安藤元雄訳,集英社文庫,1991年,pp.49-50

*4:シャルル・ボードレールボードレール全詩集Ⅰ』阿部良雄訳,ちくま文庫,1998年,pp.58-59

*5:ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳,岩波文庫,2013年改版,p.32

*6:染田秀藤「解説」,前掲『インディアスの破壊についての簡潔な報告』,p.298

*7:ボードレール「書簡(抄)」阿部良雄訳,『ボードレール全集』Ⅵ,筑摩書房,1993年,p.301

*8:シャルル・ボードレール京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』上,平凡社,1988年,p.185

*9:同前,p.186

*10:マルキ・ド・サド『閨房の哲学』秋吉良人訳,講談社学術文庫,2019年,p.50

*11:『現代生活の画家』第11章「化粧礼賛」 – Invitation@Baudelaire

*12:ラス・カサス前掲書,p.55

*13:前掲『「悪の花」註釈』上,p.174

ボードレール『悪の華』韻文訳――013「旅のボヘミアン(1861年版)」

旅のボヘミアン1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
熾烈に瞳を燃え立たせた予言者たちの部族は、
昨日旅路についた。一行の女たちはてんでに
小さな子をおぶったり、その見上げた食欲に、
垂らした乳に常備した宝を委ねたりしていた。
 
彼女らが身を寄せあって乗る荷馬車のそばで、
担いだ武器を光らせて、徒歩で行く男たちは、
不在のキマイラたちへの陰鬱な愛惜のせいで、
動きの鈍くなった眼に、空を散歩させていた。
 
砂に覆われた小部屋の奥に潜む、コオロギが、
彼らが通るのを見るなり、歌声を倍にすれば、
彼らを愛するキュベレーは、緑を広がらせて、
 
岩場に川を流れさせて、砂漠に花を咲かせて、
この旅人たちを迎えるが、彼らの行く先には、
なおも見慣れた未来の闇の帝国が展けていた。
 
 

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ボードレール『悪の華』韻文訳――012「前世(1861年版)」

前世(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
私は長いあいだ、海辺の太陽が千の火で
染め上げた広大な柱廊の下に住んでいた。
その大きな柱は、まっすぐ厳かに並んで、
夕暮れは、玄武岩の洞窟と同様に見えた。
 
大空の姿を映して巻きこむ波のうねりは、
その豊かな音楽に備わった全能の和音と、
私の眼にも照り映えた沈む夕日の色彩を、
厳粛で神秘なる仕方で混ぜ合わせていた。
 
そこが私の静かな愉悦に生きたところだった。
蒼穹と、白波と、光輝と、全身に香の染みた、
裸の奴隷たちに取り巻かれていたというのに、
 
棕櫚の葉で私の面に涼を取らせていた彼らに、
唯一できた世話は、私をもの憂くさせていた
痛ましい秘密を、ただ深めることだけだった。
 
 

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ボードレール『悪の華』韻文訳――011「不遇(1861年版)」

不遇(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
これほど重い重石を持ち上げるとなると、
シシュフォスよ、汝の勇気が必要だろう!
よくよく作品に心をこめようと、
芸術の道は長く、時は短かろう。
 
名立たる墓所からは遠く離れた、
孤立した墓地のほうへと向かう、
わが心臓は、幕のかかったドラムめいた、
送葬のマーチを打ち鳴らして進むだろう。
 
――数多の宝石が埋もれて眠る。
闇と忘却のなかで、
鶴嘴と測鉛からよくよく遠くで。
 
数多の花が悔しげに打ち明ける。
秘密めいた甘い香りを惜しんで、
深き孤独のなかで。
 
 

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闇――highfashionparalyze「蟻は血が重要である」について(『Bar触手』始動を祝して)

 われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。

 
 闇が光の欠如であるなどというのは迷信である。闇とは、殊に人間精神に潜む闇とは、開花を待つ豊穣な潜勢力を秘めた領野である。
 
 人は反抗する犬を怖れはしない。真に人を畏怖させるのは、享楽する闇である。未知の快楽を狂気と区別することは難しい。だが、そのような快楽だけがポエジーと呼ばれるに値する。この、決して飼い馴らすことのできない無尽蔵の闇にこそ、人は戦慄するのだ。

*1:プラトンパイドロス』藤沢令夫訳,岩波文庫,1967年,p.52

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