平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――008「魂を売るミューズ(1861年版)」

魂を売るミューズ(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
おお、わが心のミューズよ、宮殿に恋い焦がれる人よ。
君のもとには、一月がボレアスたちを放す頃、
雪の降る晩の黒い退屈がずっと続くあいだに、
紫色になった二本の足を暖める燃えさしはあるのかい?
 
君の大理石のようなまだら模様になった肩は、
鎧戸から洩れる夜の光線にでも蘇らせてもらう気かい?
君の財布が君の口と同じくらい渇いたときは、
紺青の丸天井から星の黄金でも獲り入れてくる気かい?
 
君もやるしかないんだよ。毎晩のパン代を稼ぐために、
聖歌隊の子供のように、振り香炉をふったり、
君もろくに信じていない「テ・デウム」を歌ったりさ。
 
でなければ、飲まず食わずで大道芸人をやり、
俗衆の脾臓を満開にして笑わせてやるために、
男の好餌や、見えない泪で濡れた愛想笑いを晒すかさ。
 
 

LA MUSE VÉNALE

 
 
Ô muse de mon cœur, amante des palais,
Auras-tu, quand Janvier lâchera ses Borées,
Durant les noirs ennuis des neigeuses soirées,
Un tison pour chauffer tes deux pieds violets ?
 
Ranimeras-tu donc tes épaules marbrées
Aux nocturnes rayons qui percent les volets ?
Sentant ta bourse à sec autant que ton palais,
Récolteras-tu l’or des voûtes azurées ?
 
Il te faut, pour gagner ton pain de chaque soir,
Comme un enfant de chœur, jouer de l’encensoir,
Chanter des Te Deum auxquels tu ne crois guère,
 
Ou, saltimbanque à jeun, étaler tes appas
Et ton rire trempé de pleurs qu’on ne voit pas,
Pour faire épanouir la rate du vulgaire.
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/La Muse vénale - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』第8の詩「魂を売るミューズ」の韻文訳が完成した。前回も予告していたとおり、邦題は姉妹編である「病を得るミューズ」とそろえることを意識した。語呂合わせをして遊んでいるんじゃないかと思われるかもしれないが、原詩のタイトルも「LA MUSE MALADE」と「LA MUSE VÉNALE」というふうに語呂合わせになっているので、それを再現したかったのだ。
 

 
 今回もタイトルの解説からはじめよう。この詩のタイトルの「VÉNALE(ヴェノー)」は、「身を売る」と訳すのが通例となっている。さっそくいつもの4冊の邦題を確認すると、*1堀口訳は「身売する詩神」(堀口訳,p.46)、鈴木訳は「身を賣る詩の女神」(鈴木訳,p.48)、安藤訳は「身を売るミューズ」(安藤訳,p.37)、阿部訳では「金で身を売る美神」(阿部訳,p.50)としている。ちなみに、私は旧訳では「卑しき詩の女神」(平岡旧訳,p.35)としていた。「金に卑しい」という意味だということは本文を読めばわかるだろうと考えていたと記憶しているが、タイトルだけでわからなければダメだと今は反省している
 
 問題のvénal(vénale)とは、「金で動く」、「金次第の」という意味の形容詞である(だから私の旧訳の「金に卑しい」という解釈は決してまちがいではない)。仏和辞典に挙がっている「amour vénal(金次第の愛)」という例文にも表れているように、この語には、「本来金銭で取引すべきでないものを売り買いすることによって、そのものの価値を貶める」という意味合いがある。
 
 このニュアンスをふまえて「LA MUSE VÉNALE」を読んでみると、この作品において「金銭と引き換えに価値を貶められているもの」とは、第3連で押し殺されたミューズの思想信条であり、第4連で踏み躙られたミューズのプライドである。それらは価値観と自尊心という、いずれも精神に属する価値にほかならない。この詩において問題となっているのは、ミューズの魂の尊厳なのだ。その点を重視するなら、売春を意味することが明らかな「身を売る」という訳語は、この詩のタイトルにはミスマッチではないかと私は考える。というより、「身を売る」という表現は明らかに「魂を売ること」の比喩として用いられているし、そう解釈しなければこの詩は理解できない。
 
 とはいえ、第4連では、大道芸人に身をやつしたミューズが、お色気を売り物にした芸を披露して下劣な観衆の笑いを取るシーンが描かれている。こうした体を張った芸を売ることも「身を売る」と表現できるだろう。しかし、よく読めばわかるように、ここで問題になっているのは、卓越した技芸で観衆を圧倒するような大道芸ではなく、低俗なお色気で笑いを取ることなのだ。問題なのは「媚を売ること」であり、このシーンには「芸を売ること」すべてを蔑む意図はないと私は解釈している。
 
 しかしながら、私のこの読み方に対する反論の材料になりそうな文章もボードレールは遺している。「芸術とは売春である」という有名なテーゼである。
 

「芸術とは売春である」というテーゼについて

 
 ボードレール「芸術とは売春である」というテーゼは、正確には「芸術とは何か? 売春」*2という『火箭』のアフォリズムの一つである。
 
 このテーゼを「魂を売るミューズ」の読解に援用するアイディアは、フランス文学者の西川長夫が『「悪の花」註釈』において提示しているが、この着想を提示するのは恐らく西川がはじめてではないだろう。
 

 ボードレールはここで糊口をしのぐために身を売らねばならぬ貧乏詩人の姿を描きだしているが,この題名は同時に身を売る女(=prostituée 娼婦)――例えば「赤毛の女乞食に」(LXXXVIII)――を連想させる。「芸術とは売淫である(Qu’est-ce que l’art ?―Prostitution.)」という『火箭』のテーゼにこの詩をひきつけて解釈することも可能であろう。*3

 
 しかしながら、西川はこの可能性を示唆するに止めており、以降の註釈でこれ以上発展させているわけではない。私も「LA MUSE VÉNALE」というタイトルは娼婦を連想させることを意図したものだろうと思うし、このタイトルによって大道芸人になったミューズが売春をすることもほのめかされているのだろうとも思う。だが、それを根拠に『火箭』のテーゼをこの詩の解釈に援用することには賛成できない。
 
『火箭』のテーゼは、「芸術とは売春である」という簡潔なフレーズだけが独り歩きしている印象がある。たとえば三島由紀夫は、あるインタビューでボードレールの名を挙げてこのテーゼを自身の芸術家論に援用しているが、三島の解釈は完全にまちがいである。
 

 僕は、本質的なものは売っていないつもりですよ、本当のものは。例えば女郎が好きな男にしか唇を許さないのと同じで、僕はマスコミに決して唇だけは許していないです。だから、みんな僕の体を買っているだけです。それはプロスティチュートの宿命です。*4

 
 このテーゼは、同じく『火箭』のなかにあるそれを註釈するアフォリズムといっしょに読むことによってはじめて意味がわかるものなのだ。
 

 恋愛とは、売春への嗜好である。それどころか、高尚な快楽で、〈売春〉に帰着させることのできないものはない。*5

 L’amour, c’est le goût de la prostitution. Il n’est même pas de plaisir noble qui ne puisse être ramené à la prostitution.

Fusées - Wikisource

 
 阿部良雄はL’amourを「恋愛」と訳しているが、『火箭』の一連のアフォリズム群で論じられているL’amourは、もっと広い「愛情」のことを意味すると私は考えている。
 
 一読して明らかなように、ここで「売春」という言葉はセックスを売り買いすることではないなにかをすることの比喩として用いられている。問題の「芸術とは売春である」というテーゼはこのアフォリズムの二つあとに提示されているのだから、そちらの「売春」も同じように、「高貴な快楽(plaisir noble)」をもたらす行為に共通するなんらかの性質と解釈するべきだろう。
 
 では、ボードレールはなにをすることを売春と呼んでいるのだろうか? 私はそれを、「自分がいちばん大切にしているものを他者に譲りわたすこと」であると解釈している。「大切なもの」とは、自分の感情であり、センスであり、価値観であり、道徳観であり、美意識である。それを自分だけのものにしておくのではなく、他者にも惜しみなく与えること。それがなぜ「売春」なのかと言えば、それによって金銭を含む対価を得るからだ。『火箭』からもう一つアフォリズムを引こう。
 

 恋愛は、高邁な感情、すなわち売春への嗜好に由来することもあり得る。しかし間もなく所有への嗜好によって腐敗させられる。
 恋愛は、自己からぬけ出して、敗者に対する勝者さながら、己の犠牲と溶け合おうとする欲求であるが、それでいて、征服者としての特権は保持したがるものだ。*6

 L’amour peut dériver d’un sentiment généreux : le goût de la prostitution ; mais il est bientôt corrompu par le goût de la propriété.
 L’amour veut sortir de soi, se confondre avec sa victime, comme le vainqueur avec le vaincu, et cependant conserver des privilèges de conquérant.

Fusées - Wikisource

 
 ボードレールの言う「売春」が現代思想用語で言うところの「贈与」と異なるのは、「売春」は、その結果として相手から対価を得ることや、世の中から高い評価を得ることへの期待を含んでいることだ。しかしながら、価値あるものを他者に提供できなければ、無論見返りなど得られるはずがない。その意味でも、「売春」において「価値あるものを提供すること」は絶対の成立条件なのである。
 
 ゆえに、芸術において「価値ある作品を生み出したい」という動機は、「それによって金儲けをしたい」という動機につねに優先する。それが「売春への嗜好(le goût de la prostitution)」が「高邁な感情(sentiment généreux)」と称される所以であり、それが恋愛と同じく「所有への嗜好(le goût de la propriété)」によって腐敗する所以である。しかしながら、この腐敗の可能性は、「売春」が対価と評価を得ることへの欲求と不可分のものである以上、決して「売春」から切り離すことはできない。
 
 もしも切り離すことができるなら、それは「売春」ではなく「贈与」ということになるだろう。だか、芸術や恋愛が純粋な贈与であることなど可能だろうか? それは不可能だと考えたからこそ、ボードレールはそれらを「売春」と呼んだのだろう。
 

売春への嗜好と魂の聖なる売春

 
 それでは、「魂を売るミューズ」には以上のような意味での「売春への嗜好」が描かれているという読み方は可能だろうか? 私の答えは否である。
 
 無論、この詩が芸術を主題としている以上、「売春への嗜好」は、芸術の本来あるべき姿として当然に前提されているという見方は可能だろう。だが、それはあくまで作品解釈の背景の話でしかなく、この作品の前景において描かれているのは、むしろそれとは真逆の「所有への嗜好」によって芸術が腐敗するありさまだ。その「所有への嗜好」さえも、生活苦から否応なく選び取らざるをえない貧しいミューズの姿が描かれている。
 
 ボードレールの「売春への嗜好」というテーマは、『パリの鬱屈』に収録された散文詩「群衆たち」に結実している。翻訳は私の新訳である。
 

 人が愛と名づけるものなど、よくよく卑小で、よくよく有限で、よくよく脆弱なものだ。このえも言われぬ狂乱の祭典、すなわち、ふいに姿を現す予期せぬ人や、通りすがりに出会う見知らぬ人に、詩想と隣人愛とをすべてみな捧げる、この魂の聖なる売春と比べたならば。

 Ce que les hommes nomment amour est bien petit, bien restreint et bien faible, comparé à cette ineffable orgie, à cette sainte prostitution de l’âme qui se donne tout entière, poésie et charité, à l’imprévu qui se montre, à l’inconnu qui passe.

Les Foules - Wikisource

 
「魂の聖なる売春(sainte prostitution de l’âme)」とは、ボードレールの詩作の理論であり、またその理論のベースとなる原理である。作品のモデルとなる見知らぬ他人に「詩想と隣人愛(poésie et charité)」を注ぎ込むこと。それこそが詩を作るということなのだ。そして、その原動力となるものこそが「売春への嗜好」にほかならない。「群衆を楽しむことは一つの芸術である(jouir de la foule est un art*7)」。
 
 このボードレールの詩作の理論をふまえてここまでの『悪の華』の詩作品をふり返ってみると、特定のモデルがいるにせよ、完全な想像の産物であるにせよ、詩人以外の人物を主役とする詩が登場するのは、「病を得るミューズ」と「魂を売るミューズ」がはじめてであることに気づく。この二人の姉妹は、病と貧困という『悪の華』の主要テーマを象徴すると同時に、理論化されつつあったボードレールの群衆の詩学の、最初の実践モデルであったという見方もできるかもしれない。
 
 その意味で、「魂を売るミューズ」には「売春への嗜好」は描かれてはいないが、表現されてはいるという見方は可能だろう。とはいえ、「LA MUSE VÉNALE」という原題からこの含意を読み取ることはやはり不可能だろうと思う。しかしながら、この解釈をふまえると、「魂を売るミューズ」という邦題には「魂の聖なる売春をする詩人」という予定外のダブルミーニングが生じてしまうことになるが、こればかりは完全な不可抗力である。
 

二人のミューズが体現するボードレールの理想の美

 
「魂を売るミューズ」は、現代の詩人の置かれた苦境を表した寓意詩や風刺詩として読むことが通例となっている。無論、その読み方はまちがいではない。しかし、この詩を読む上で決して見落としてはならないのは、ここで描かれている貧困にあえぐ悲惨なミューズの姿は、それ自体が鑑賞に値するものとして提示されているということだ。
 
 ボードレールは、『火箭』において自身の理想とする美の定義を試みている。
 

 ――〈歓喜〉は〈美しさ〉に結びつくことができないと主張するものではないが、〈歓喜〉はその最も通俗的な装飾の一つでしかない、と言うのだ。――これに対して〈憂愁〉は言うならばその輝かしい伴侶であって、私には、〈不幸〉をともなわない〈美しさ〉の典型というものが(私の脳髄は魔法にかかった鏡なのだろうか?)、およそ考えられないほどなのだ。*8

 — Je ne prétends pas que la Joie ne puisse pas s’associer avec la Beauté, mais je dis que la Joie est un des ornements les plus vulgaires, tandis que la Mélancolie en est pour ainsi dire l’illustre compagne, à ce point que je ne conçois guère (mon cerveau serait-il un miroir ensorcelé ?) un type de Beauté où il n’y ait du Malheur.

Fusées - Wikisource

 
 ボードレールにとって、不幸(Malheur)とは、美と分かちがたく結びついた構成要素である。そして、その不幸を、なによりも美しく映し出す鏡こそが、「沈鬱な女の顔」にほかならない。
 

 魅惑的で美しい顔、ただし女の顔、それは、逸楽と悲哀とを同時に、――しかし混然と、――夢見させるような顔だ。憂愁、けだるさ、それどころか飽満の観念をさえおびた顔、――あるいは逆の観念、すなわち、生きる熱意、喪失や絶望に由来するかのごとき逆流する苦渋と結びついた、生きる欲求を、含む顔だ。謎、後悔もまた〈美〉の特徴である。
 男の美しい顔は、ひょっとして女の目から見れば別だろうが、――つまり、男の目から見てということになるが――そうした逸楽の観念をおびている必要はない、女の顔にあっては、顔が総じて沈鬱であればあるほど、この逸楽の観念が、ますます人を惹きつける挑発となるのであるが。*9

 Une tête séduisante et belle, une tête de femme, veux-je dire, c’est une tête qui fait rêver à la fois, mais d’une manière confuse, de volupté et de tristesse ; qui comporte une idée de mélancolie, de lassitude, même de satiété, — soit une idée contraire, c’est-à-dire une ardeur, un désir de vivre, associés avec une amertume refluante, comme venant de privation ou de désespérance. Le mystère, le regret sont aussi des caractères du Beau.
 Une belle tête d’homme n’a pas besoin de comporter, aux yeux d’un homme bien entendu, excepté, peut-être, aux yeux d’une femme, cette idée de volupté, qui, dans un visage de femme, est une provocation d’autant plus attirante que le visage est généralement plus mélancolique.

Fusées - Wikisource

 
悪の華』第5の無題詩に登場する遅れて現れたミューズたちは「心が下疳にでも苛まれているような顔(Des visages rongés par les chancres du cœur)」*10をしていたし、第7の詩「病を得るミューズ」のミューズの顔には「冷たく無口になった狂気と怖気(La folie et l’horreur, froides et taciturnes)」*11が浮かんでいた。このような「苦悩する女の顔」へのボードレールの偏愛は、もちろん「魂を売るミューズ」にも見出すことができる。
 

でなければ、飲まず食わずで大道芸人をやり、
俗衆の脾臓を満開にして笑わせてやるために、
男の好餌や、見えない泪で濡れた愛想笑いを晒すかさ。

Ou, saltimbanque à jeun, étaler tes appas
Et ton rire trempé de pleurs qu’on ne voit pas,
Pour faire épanouir la rate du vulgaire.

 
 ボードレールが強く心惹かれるミューズの「見えない泪で濡れた愛想笑い(rire trempé de pleurs qu’on ne voit pas)」は、あたかもボードレールの美意識を象徴するかのように「笑い(rire)」が悲しみの涙で塗りつぶされている。このミューズの凄絶な笑顔のまえでは、俗衆が喜ぶ「男の好餌(appas)」など、ただの引き立て役に過ぎない。
 
「女の露わな胸元」を意味するappasは、男たちを引き寄せる「餌(appât)」が転訛したものだ。そして、このappasが担う脚韻は、それに呼応する「読者に」の第4連もまた引き寄せることになるだろう。こうした悪の華』におけるキーワードを介した詩作品同士のリンクは、相互の作品解釈に補助線を与える役割を果たしている。これは偶然によるものではなく、明確な構成意図をもって組み立てられたものであると私は考えている。
 

われらを動かす操りの糸を握っているのは悪魔だ!
人々の嫌悪の対象にこそわれらは好餌を見出して、
おぞましさも知らず、悪臭漂う暗闇を通り抜けて、
日々地獄へと、われらは一歩ずつ下ってゆくのだ。

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み1――韻文訳「読者に(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

C’est le Diable qui tient les fils qui nous remuent !
Aux objets répugnants nous trouvons des appas ;
Chaque jour vers l’Enfer nous descendons d’un pas,
Sans horreur, à travers des ténèbres qui puent.

Les Fleurs du mal (1861)/Au lecteur - Wikisource

 
 良識ある人々が眉を顰め、目をそらしてやりすごそうとするものこそ、われらが詩人が愛してやまないものである。病気や貧困といった人々の不幸が、その痛みや、苦しみや、悲しみが、なかでもとりわけ憂鬱と苦悩が、いかなる慰めも救済もなく、それ自体が詩でありうるという美意識が『悪の華』の根幹にはあるのだ。
 
 その意味で、「病を得るミューズ」と「魂を売るミューズ」に描かれているのは、まぎれもなくボードレールにとっての美の女神の姿である。そんな背徳のミューズたちに手を引かれて、私たちは地獄への一歩を踏み出すことになるだろう。
 

*1:悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。文芸社刊の私の旧訳は平岡旧訳と略記する。

*2:シャルル・ボードレール『火箭』阿部良雄訳,『ボードレール批評』4,ちくま学芸文庫,1999年,p.39

*3:シャルル・ボードレール京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』上,平凡社,1988年,p.113

*4:三島由紀夫/TBSヴィンテージクラシックス編『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』講談社文庫,2019年,p.36

*5:前掲『火箭』,p.38

*6:同前,p.39

*7:Les Foules - Wikisource

*8:前掲『火箭』,p.52

*9:同前,pp.51-52

*10:ボードレール『悪の華』韻文訳の試み6――韻文訳「無題(私が愛するのは、……)(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

*11:ボードレール『悪の華』韻文訳――007「病を得るミューズ(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華』韻文訳――007「病を得るミューズ(1861年版)」

病を得るミューズ(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
わが不憫なミューズよ、ああ! 今朝はどうしたんだ?
落ちくぼんだ君の両目に、夜の幻が住みついているよ。
それに君の面持ちにも、冷たく無口になった
狂気と怖気が、代わるがわる映って見えるよ。
 
薄緑色のサキュバスと、薔薇色のリュタンが、
そいつらの水甕から恐れと恋心でも君に注いだのかい?
そうやって横暴で悪戯な拳をふるった悪夢が、
伝説のミントゥルナエの沼の底まで君を沈めたのかい?
 
私は願っているよ。君の胸がまた健康の匂いを発散し、
いつでも力強い考えの訪れる場となってくれるように。
君のキリスト者の血も滔々とリズムよく流れるように。
 
詩歌の父、フォイボスと、刈り入れの主、
偉大なるパンが代わるがわる統べていた、
古代の音節のもつ数ある響きのようにさ。
 
 
(2022.7.24一部改訳)

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ボードレール『悪の華』韻文訳――006「灯台(1861年版)」

灯台1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
ルーベンス、忘却の河、自堕落の庭、
そこはだれも愛せぬ瑞々しき肉の枕。
それでも流れ込み、絶え間なく立ち騒ぐ生命。
空に満ちる空気や、海に満ちる海水のように。
 
レオナルド・ダ・ヴィンチ、奥深く薄暗い鏡、
そこに現れる魅力あふれる天使たち。
一面に神秘を湛えた甘い微笑を浮かべながら、
彼らの国を閉ざす氷河と松の陰から。
 
レンブラント、一面にざわめきの立ちこめる、
大きな十字架像だけが飾られた悲しき施療院。
泪ながらの祈りが汚物から立ち昇る。
にわかに通り抜ける一条の冬の光線。
 
ミケランジェロヘラクレスたちと
キリストたちが混在して見える漠とした場所。
黄昏のなか、真っすぐに起き上がり、
指をのばして屍衣を引き裂く屈強な幽霊たち。
 
怒れる拳闘士、厚顔なるファウヌス、
汝こそ、不埒者どもの美しさを拾いえたる者。
驕慢に膨らんだ尊大な心、虚弱に黄ばんだ男、
ピュジェ、徒刑囚どもの憂鬱な帝王。
 
ヴァトー、この謝肉祭を幾多の著名な人士が、
蝶のように、爛々と輝いて逍遥する。
この舞踏会の渦に狂気を注ぐシャンデリアが、
鮮やかで軽やかな舞台装置上に照る。
 
ゴヤ、未知なるものに満ちた悪い夢。
サバトの渦中に火にかけられる胎児、
鏡を見る老婆たち、悪霊どもを誘惑するため、
ストッキングをよくのばす真っ裸の子供たち。
 
ドラクロワ、けしからぬ天使たちの出没する、
常緑の樅の森が陰を落とした血の湖。
憂愁の空の下、異様なファンファーレが通る。
ウェーバーの息づまる嘆息のように。
 
これらの呪い、これらの冒瀆、これらの苦悶、
これらの恍惚、叫び、泪、「テ・デウム」は、
幾千の迷宮によって繰り返し反響された木霊、
それは死すべき者の心にとっての神のアヘン!
 
それは幾千の歩哨によって復唱された叫び声、
幾千のメガホンによって送り伝えられた命令。
それは幾千の城砦の上で火をつけられた灯台
大きな森のなかで道を見失った狩人の呼び声!
 
それというのも、主よ、まさしくこれこそが、
われらが尊厳を示しうる最良の証言たるもの。
時代から時代へ流転し、あなたの永遠の岸辺へと
打ち寄せて消えてゆく、この熾烈なる嗚咽こそが!
 
 
(2022.6.19大幅改訳

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ボードレールと三島由紀夫――三島由紀夫『潮騒』について

 前回韻文訳を公開した、シャルル・ボードレールの『悪の華』の5番めに収録されている無題詩は、三島由紀夫にとっての『潮騒』(1954年)のような作品だったのではないかと私は考えている。
 

 
 三島由紀夫も、代表作である『仮面の告白』(1949年)や『金閣寺』(1956年)がまさにそうであったように、鬱々とした内面の苦悩を描くイメージの強い作家だ。その三島が遺した膨大な作品のなかで、唯一の純愛小説と言われているのが、離島で暮らす漁師の少年、新治と、島の外から帰ってきた海女の少女、初江の恋を描いた『潮騒』である。

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ボードレール『悪の華』韻文訳の試み6――韻文訳「無題(私が愛するのは、……)(1861年版)」

無題(私が愛するのは、……)(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
私が愛するのは、フォイボスが彫像を黄金に
染めるのを好んだ、あの裸の時代の思い出だ。
その頃は、男も女も立ち居ふるまいも機敏に、
嘘もなく、不安もなく、楽しく過ごしていた。
恋しているような空は彼らの背中を愛撫して、
その高貴な機械を健やかに鍛え上げてくれた。
キュベレーはその頃、豊饒に作物を実らせて、
その息子たちを過剰な重石とは思わなかった、
共通の優しさに心を膨らませた雌狼となって、
その褐色の乳房をもって万物を潤してくれた。
優雅で、頑健で、強い力をもっていた男には、
彼を王と呼ぶ美女たちを誇れる権利があった。
まるで凌辱に無垢でひびにも処女地の果実は、
なめらかで固い果肉で、噛んでと呼んでいた!
 
詩人が今日、そんな生まれもっての偉大さを
思い描きたいと望み、男の裸体や女のそれを
見られるような場所まで行ってみたところで、
戦慄に満ちあふれたその暗黒の絵図のまえで、
暗闇の寒気が魂を覆うのを感じるだけのこと。
おお、服を着せてくれと泣きつく醜怪な者たちよ!
おお、滑稽な胴体よ! 仮面が相応のトルソーよ!
おお、捻じれた、痩せた、腹の出た、ぶくぶくの、
苛烈にして晴朗なる、実利という神の思し召しの、
青銅の産着でくるんだ子供たちの、不憫な肉体よ!
それから諸君ら、ああ! 蝋燭のように蒼ざめて、
放蕩に身を苛まれながら養われてもいる女たちよ。
それから諸君ら、母親の悪徳の遺伝を引きずって、
多産の忌まわしさのすべてを受け継ぐ処女たちよ!
 
実のところ、われら、堕落した国民にもまた、
心が下疳にでも苛まれているような顔をした、
古代の民の知りもしない美女たちがいるのだ。
言ってみるならそれは、気怠さの美女たちだ。
だが、遅れて現れたわれらがミューズたちが
そんな発明をしようと、決して病多き種族が
青春に捧げる深き表敬の妨げになりはしない。
――聖なる青春に、純朴な風情に、穏やかな面に、
流れる水と同じように澄み切っている明るい目に。
そして、空の蒼さや、鳥たちや、花たちのように、
その香りを、その歌声を、その穏やかな熱気をも、
屈託もなく、すべてにふりまいてくれることにも!
 
 
(2022.2.13一部改訳)

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