平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

「アヴェ・マリア」とミューズたち――黒百合姉妹とナターシャ・グジー

 宗教というものについて、ボードレール『火箭』の冒頭に、「たとえ神が存在しないとしても、〈宗教〉はやはり〈神聖〉かつ〈神々しい〉ものであるだろう」*1という有名なテーゼを遺している。おそらくこれは、サド侯爵のキリスト教批判へのボードレールの答えである。
 

 
 さまざまな解釈が可能だろうが、ここでは文字どおりの意味で受け取ればいいだろう。すなわち、神がいようがいまいが、「神聖さ」や「神々しさ」を感じるものは存在する。それも、私たちが実際に見たり聞いたりして体験することができるものとして確かに存在しているのだ。もしかすると、それは神とはなんの関係もないのかもしれないが、私たちが「神聖さ」や「神々しさ」と名づけている感動そのものは現に存在している。「精神によって創られたものは、物質以上に生きている」*2宗教とは、私たち人間がそのようなものによって創り上げてきた文化にほかならない。
 
 あるいは、詩人の萩原朔太郎『詩の原理』(1928年)で論じているように、私たちは宗教にこそ詩の精神の本質なるものを見出すべきなのかもしれない。
 

 詩的精神の第一義感的なるものは、何よりも宗教情操の本質と一致している。その宗教情操の本質とは、時空を通じて永遠に実在するところの、或るメタフィジカルのものに対する渇仰で、霊魂の故郷に向えるのすたるじや、思慕の止みがたい訴えである。そこでこの宗教感のメタフィジックを、特に観念上に於て掲げたものを、芸術上で普通に「象徴派」と称している。

萩原朔太郎 詩の原理

 
 こうした朔太郎の芸術観には、彼が深く敬愛したボードレールの影響があることは言うまでもない。「いかなる人間の裡にも、いかなる刻にも、二つの同時的な請願があって、一方は神に向い、他方は〈魔王〉に向う。神への祈願、すなわち精神性は、昇進しようとする欲望だ。〈魔王〉への祈願、すなわち獣性は、下降することの歓びだ」*3その本源においても、その在り方においても、詩とは、祈り以外のなにものでもない。
 

アヴェ・マリア」とミューズたち

 
 教会音楽の成立以降、数多の作曲家によって作曲され、数多の歌手によって歌い継がれてきた「アヴェ・マリア」もまた、私たちに「神聖さ」というもののなんたるかを直に感じさせてくれる楽曲であり続けている。そうした楽曲として、私が真っ先にイメージするのは、黒百合姉妹「水のマリア ave maria - water -」である。
 

森羅万象の聲

森羅万象の聲

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 パイプオルガンによる荘厳な伴奏とJURIの歌声だけのシンプルな構成ながら、それが「神威」の顕現を思わせる清廉な高貴さと重厚な威厳をもって迫り、聴く者を圧倒する。歌詞は「Ave Maria」のラテン語原文である。至高の「アヴェ・マリア」を1曲選べと言われたら、私は迷わず黒百合姉妹の「水のマリア」を挙げるだろう。
 
 前回本文中で紹介した、カノンが歌うアルカデルトの「アヴェ・マリア」が圧巻であることは繰り返すまでもないだろうが、著名な作曲家の作品のカバーなら、ウクライナ出身の歌手、ナターシャ・グジーの仕事もすばらしい。
  
 幸いなことに、こちらもYouTubeで動画を公開してくださっているので、私たちは思う存分女神の歌声に酔い痴れることができる。どの曲も静謐な神々しさに満ちみちている。
 

 
Ave Maria ~カッチーニ~ ナターシャ・グジー / Ave Maria (Caccini) by Nataliya Gudziy - YouTube
 

 
アヴェマリア (シューベルト) / ナターシャ・グジー ”Ave Maria" F.P.Schubert by Nataliya GUDZIY - YouTube
 

 
アヴェマリア ナターシャ・グジー / Ave Maria by Nataliya Gudziy - YouTube
 

 
 彼女の代表曲である「鳥の歌」も、イエスの誕生を鳥たちが祝う、スペインで古くから歌い継がれてきたカタルーニャ民謡だそうだ。
 

 
Song of the Birds ( El Cant dels Ocells ) by Nataliya Gudziy / 鳥の歌 ・ ナターシャ・グジー - YouTube
 

 
 動画でこれほどの美しさなら、生で聴いたら泣いてしまうかもしれない(笑)。残念なことに、私は彼女のコンサートにはまだ一度も行ったことがないので、今年こそは行ってみたいと思っている。
 

 

象徴主義はなぜそう呼ばれるのか

 
 前回あれほど長々と書いたというのに、けっきょくこうして補足をしなければならなくなってしまった。というのも、前回の記事は、もとは以上に紹介したアーティストたちを紹介するための前置きとして思いついたものだったのだが、いざ書いてみると、話がふくらみすぎてしまい、最後まで読んでもらえるかどうかもあやしい長さになってしまった。というわけで、少々不格好ではあるが、補遺というかたちで記事を改めることにした。
 
 記事本文のほうでは、『新約聖書』を副読本に『悪の華』読解の基礎編から応用編までをうまいぐあいに解説できたのではないかと思う。象徴というものが『悪の華』の詩作品のなかでどのような役割を演じているかを精緻に読み解くことをつうじて、サンボリスム象徴主義)はなぜそう呼ばれるのかについての私なりの見解を提示したつもりだ。
 
 それは同時に、『悪の華』の詩作品のどのような特徴がボードレール象徴主義の父にしたかを読み解く試みでもある。私の考えでは、それはたんなる印象論や精神論ばかりでなく、文体や表現技法のうちに見出しうるものでなければならない。でなければ、それが象徴主義と名づけられることも、文芸の一派をなすこともなかったはずだ。
 
 それがなんであるかを理解することが、すなわち『悪の華』を読むことであり、それが理解できなければ、真の意味で『悪の華』を読んだことにはならない。少なくとも、私はそれなしには「わかった」という手応えを得ることはできない。その意味では、私たちはまだまだ『悪の華』を読むことの途上にいるのである。
 
「理解すること」は「詩を味わうこと」には不可欠の条件とは言えないかもしれないが、理解することをとおしてしか味わえない楽しみ方が存在するのも確かだ。この翻訳ノートでは、これからもそんな『悪の華』の楽しみ方を紹介していきたい。
 
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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関連リンク


*1:シャルル・ボードレール『火箭』阿部良雄訳,『ボードレール批評』4,ちくま学芸文庫,1999年,p.38

*2:同前,p.38

*3:シャルル・ボードレール『赤裸の心』阿部良雄訳,『ボードレール批評』4,ちくま学芸文庫,1999年,p.91

『悪の華』の謎を解く1――「アヴェ・マリア」と「祝福」

 シャルル・ボードレールの韻文詩集『悪の華』は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』と同じく、キリスト教『聖書』の知識がないと、なにが書かれているかを充分に読み説くことが難しい書物である。
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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ボードレール『悪の華』韻文訳――010「敵(1861年版)」

敵(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
わが青春は、輝かしき陽光もあちこちに
通り抜けた暗澹たる雷雨でしかなかった。
落雷と雨のもたらした荒廃にさらされた私の庭に、
残ったものはごくわずかな紅緋色の実だけだった。
 
いまやこの私も理念の秋にさしかかった。
これからは私もシャベルやレーキを使い、
洪水が墓場のようにいくつも大きな穴をえぐった、
水浸しの土地を集めて新生させなければならない。
 
果たして、私の夢見る新たなる花たちは、
砂浜のように洗い流されたこの地からも、
力強くしてくれる神秘なる糧を見出せるだろうか?
 
――おお痛い! おお痛い! 時が生命を食えば、
われらの心を蝕んでいく不分明なる敵も、
われらの失う血を吸って生長し、力をつけるのだ!
 
 

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ボードレール『悪の華』韻文訳――009「けしからぬ修道者(1861年版)」

けしからぬ修道者(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
昔日の修道院にある回廊の大きな壁には、
聖なる真理が壁画に描かれて並んでいた。
その効果は、敬虔なる胎を温め直しては、
その謹厳さの孕む冷たさを和らげていた。
 
キリストのまいた種が花開いていたそのご時世に、
今日では、その名を引かれることも少なくなった、
一人ならぬ著名な修道者が、埋葬場をアトリエに、
純朴なる心で死神の栄光を称えていたものだった。
 
――わが魂は、けしからぬ共住修道士のこの私が、
永遠の過去から歩きまわり、住み続けている墓場。
この忌々しき回廊の壁を飾るものなどなにもない。
 
おお、無為なる修道者よ! いつになったら私は、
私のおかれた情けない惨状の生きた光景をもとに、
わが手の作と、わが眼の愛するものを作れるのか?
 
 

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