平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

『悪の華』の謎を解く1――「アヴェ・マリア」と「祝福」

 シャルル・ボードレールの韻文詩集『悪の華』は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』と同じく、キリスト教『聖書』の知識がないと、なにが書かれているかを充分に読み説くことが難しい書物である。
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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 聖書の物語は、欧米のキリスト教文化圏の人々にとっては一般教養というよりも常識と呼ぶのがふさわしい知識だろう。私たち非キリスト教国の国民でも、「創世記」におけるアダムとイブの物語や、『新約聖書』におけるイエスの誕生からゴルゴダの丘での刑死にいたる神話の大筋くらいはだれでも知っているはずだ。これまでの『悪の華』の解説も、読者も聖書の物語の大筋は知っているという前提で書いている。
 
新約聖書』をもとにした作品として、ここまでの『悪の華』の詩作品のなかでいちばんわかりやすいのは、「祝福」の詩人の母親による神への呪詛だろう。
 

至高なる者の力能の命により遣わされる、
詩人がこの退屈な世界に姿を現すに際し、
彼の母親は恐れ慄き、心を冒瀆に満たし、
憐れみ給う神に向け、拳をわななかせる。
 
――「ああ! こんなお笑い種を養うくらいなら、
いっそ絡みあった蝮でも産めなかったものかしら!
あたしの腹がこんな贖いのもとを宿してしまった、
あの儚い快楽の夜など、呪われてしまうがいいわ!
 
あんたが情けない夫から嫌われる女にするために、
あらゆる女のあいだからあたしを選ばれたのなら、
こんなまともに育たない怪物でも、恋文のように、
炎へと投げ入れてしまうわけにもいかないのなら、
 
あたしの身に圧しかかってくるあんたの憎しみは、
あんたが意地悪に使う呪われた楽器に跳ね返して、
この惨めな若木をこの手でそれはよくねじ曲げて、
ペストを流行らす芽を出せないようにしてやるわ!」

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み2――韻文訳「祝福(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Lorsque, par un décret des puissances suprêmes,
Le Poëte apparaît en ce monde ennuyé,
Sa mère épouvantée et pleine de blasphèmes
Crispe ses poings vers Dieu, qui la prend en pitié :
 
— « Ah ! que n’ai-je mis bas tout un nœud de vipères,
Plutôt que de nourrir cette dérision !
Maudite soit la nuit aux plaisirs éphémères
Où mon ventre a conçu mon expiation !
 
Puisque tu m’as choisie entre toutes les femmes
Pour être le dégoût de mon triste mari,
Et que je ne puis pas rejeter dans les flammes,
Comme un billet d’amour, ce monstre rabougri,
 
Je ferai rejaillir ta haine qui m’accable
Sur l’instrument maudit de tes méchancetés,
Et je tordrai si bien cet arbre misérable,
Qu’il ne pourra pousser ses boutons empestés ! »

Les Fleurs du mal (1861)/Bénédiction - Wikisource

 
 ご存知の方には言わずもがなの解説だとは思うが、これは「ルカによる福音書」に登場する聖母マリア処女懐胎のパロディーである。
 

 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

ルカによる福音書 1 | 新共同訳 Bible | YouVersion

 
 詩人の母親が、「あの儚い快楽の夜など、呪われてしまうがいいわ(Maudite soit la nuit aux plaisirs éphémères)」などとわめいてわざわざ夫との性交をほのめかしているのは、言うまでもなく、このマリアのセリフを反転させたものだ。冒頭の「至高なる者の力能(puissances suprêmes)」も、天使ガブリエルのセリフのなかの「いと高き方の力」をふまえた表現と見ていいだろう。こうして読み比べてみると、ボードレールが思いのほか細部まできっちりと言いまわしをリンクさせていることに驚かされる。
 
 パロディーはスルーされたらおしまいである。なので、ほかにもボードレールはそれと気づかせるための仕掛けを生真面目に施している。今回の読解において重要になるのは、自宅にやってきたマリアにエリサベトが送った祝福の言葉だ。
 

 あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。

ルカによる福音書 1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 | Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳) | Download The Bible App Now

 Vous êtes bénie entre toutes les femmes, et le fruit de votre sein est béni ;

Bible Sacy/Saint Luc - Wikisource

 Benedicta tu inter mulieres, et benedictus fructus ventris tui.

Vulgata Clementina/Evangelium Secundum Lucam - Wikisource

 
 新共同訳に続いて引用したのは、19世紀当時最も一般に普及していた、パスカルの友人としても知られているルイ・アイザック・ルメストル・ド・サシによるフランス語訳と、カトリック教会の正典であるウルガタ・クレメンティナ版のラテン語訳である。いずれもボードレールが読んだ可能性の高いテクストだ。
 
 読み比べると、サシ訳にはある「toutes(あらゆる)」がラテン語の原文にはないことに気づく。したがって、「祝福」の「entre toutes les femmes(あらゆる女のあいだ)」という詩句は、このサシ訳から引用されたものである可能性が極めて高いと考えられる。これくらいなら自分で考えた可能性もなくはないが、引用によってパロディーの完成度を高めようとしたのだろうと私は見ている。詩人の母親がわざわざ自分の「腹(ventre)」に言及しているのも理由は同じである。
 
 この「ルカによる福音書」の原典に遡ることによってはじめて、なぜこの詩に「祝福」などというタイトルがつけられているのかも明らかになる。クライマックスの詩人の祈祷でもタネ明かしはされているものの、この不謹慎なタイトルは、この元ネタを知ってこそ生きるものなのだ。
 

「祝福」と「アヴェ・マリアの祈り」

 
「祝福」と同様に、「ルカによる福音書」第1章42節のエリザベトの祝福を引用している有名なテクストがある。だれもが知っているカトリック教会のアヴェ・マリアの祈り」である。
 

アヴェ・マリアの祈り
 
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。

アヴェ・マリアの祈り | カトリック中央協議会

Je vous salue Marie
 
Je vous salue Marie, pleine de grâce ;
Le Seigneur est avec vous.
Vous êtes bénie entre toutes les femmes
Et Jésus, le fruit de vos entrailles, est béni.
Sainte Marie, Mère de Dieu,
Priez pour nous pauvres pécheurs,
Maintenant et à l’heure de notre mort.
 
Amen

Je vous salue Marie - Église catholique en France

Ave Maria
 
Ave, Maria, grátia plena,
Dóminus tecum.
Benedícta tu in muliéribus,
et benedíctus fructus ventris tui, Iesus.
Sancta María, Mater Dei,
ora pro nobis peccatóribus,
nunc et in hora mortis nostræ.
Amen.

Ave Maria - Wikisource

 
 引用は順に、日本のカトリック教会の公式な邦訳と、フランスのカトリック教会の公式なフランス語訳と、ラテン語原文である。ここで注意が必要なのは、教会公認のフランス語訳の「Je vous salue Marie(ジュ・ヴー・サリュ・マリー)」が誕生するのは、各国語でミサを行うことが公認された第二バチカン公会議(1962-1965年)以降のことだ。この公会議以前はカトリック教会のミサはラテン語のみで行われていたため、ボードレールはこの仏訳を読んではいない。
 
アヴェ・マリアの祈り」は、カトリック教会のミサにおいて読み上げられる聖母マリアへの祈祷文だが、キリスト教徒ではない私たちにとっては賛美歌のイメージのほうが強いのではないかと思う。無論、「アヴェ・マリアの祈り」に曲をつけた聖歌はボードレールが生きた19世紀以前から存在しており、奇しくも、昨年カノンがカバーしたアルカデルトの「アヴェ・マリア」は、当時のフランスでも歌われていた賛美歌である。もしかすると、ボードレールも幼いころに歌ったことがあるかもしれない。
 

 
Arcadelt Ave Maria : by Kanon - YouTube
 

 
 アルカデルトの「アヴェ・マリア」は、ボードレール散文詩「バッコスの杖」を捧げている、当時スーパースターだったピアニストのフランツ・リストがピアノ独奏曲に編曲したりもしている。それだけ広く親しまれていた賛美歌だったということだろう。
 

 
Ave maria / Arcadelt(Liszt) - YouTube
 

 
ルカによる福音書」からの引用は、「Ave Maria」前半の4行にある。3行めまでが第1章28節の天使ガブリエルの受胎告知「Ave gratia plena : Dominus tecum : benedicta tu in mulieribus」*1から取られ、4行めが先ほどのエリサベトの祝福だ。「アヴェ・マリア」と「祝福」は、いずれも福音書がもとになった祈祷文である(呪詛も祈祷の一種である)。この符合は、無論偶然であるはずがない。「祝福」は、ほかならぬ「アヴェ・マリア」のパロディーだったのだ。
 
 現代の私たちには、「祝福」の詩人の母親の呪詛はせいぜいタチの悪いジョークにすぎないが、果たして、当時のフランス社会でこれが冗談で済んだのかどうかはわからない。この詩は削除を免れたものの、現に『悪の華』は公衆風俗壊乱と宗教道徳侵犯の咎で訴追され、有罪判決を受けている。こうしてみると、私には、ボードレールはアウトすれすれを狙ったチキンレースをしていたとしか思えない。
 
 詩人の母親の呪詛のなかでも群を抜いてきわどいのが、「贖い(expiation)」である。「アヴェ・マリア」原典にはあるはずもないこの詩句は、イエスだけでなく、聖母マリアも原罪の穢れを免れていたとする、「無原罪の御宿り」と呼ばれるカトリック教会の教義を揶揄するためにボードレールが加えたものだと考えられる。同じ連に原罪の象徴たる蛇(vipères)が登場していることからも、その意図は明らかだろう。
 

 
「祝福」の語り手が断罪しているとおり、詩人の母親の呪詛は「アヴェ・マリアの祈り」の冒瀆以外のなにものでもない。その罪状により、この詩人の母親は地獄行きになることが予告されているものの、その末路までもが「聖母の被昇天」と好対照をなすパロディーとなっている徹底ぶりである。
 

 
 これほどまでに手の込んだパロディーを、果たしてただの冗談で済ませてしまっていいものだろうか? 実はこれは、愚かな女のカリカチュアのふりをした、カトリシズムへの本腰を入れた諷刺だったのではないか。
 

サド侯爵の教え

 
 福音書のパロディーの裏に忍ばせたカトリック教会に対するボードレールの敵意には、詩人が敬愛したサド侯爵キリスト教批判の影響を見て取ることができる。
 
 サド侯爵の対話篇『閨房の哲学』(1795年)の作中に登場するパンフレットとして発表された「フランス人よ、共和主義者になりたいなら、もうひとがんばりだ」では、宗教と対決する人間の心構えが説かれている。
 

 何度でも繰り返し言おう。神はもう要らない、フランス人よ、もしもあなたがたがその有害な支配を受け、あっというまに残虐この上ない専制主義に引き戻されることを望まないなら、神はもう要らない、と。しかし、神を打ち倒すには、ひたすら神を嘲笑することが必要だ。むやみにいらついたり、大げさにものものしい態度をとったりするなら、神についてまわる危険のすべてが群れをなし、即座に息を吹き返すことになるだろう。怒りに任せて神の偶像を打ち倒すのではなく、あくまでもふざけながら粉砕するのだ。*2

 
「道義派のドラマと小説」(1851年)において、「淫猥の悪魔どもすべての角にかけて! ティベリウスとサド侯爵の魂にかけて!」*3当時の通俗演劇の偽善を嘲笑し、エドガー・ポーに関する新たな覚書」(1857年)においては、「われわれ皆は悪のための侯爵として生れたのだ」*4と公言してはばからなかったボードレールは、無論サド侯爵の小説の愛読者であったと考えられている。ボードレールがサドのどの小説を読んでいたかまではわかっていないが、この名高い論考を読んでいた可能性は充分にある。なにより、機会に恵まれさえすれば、ボードレールが読まなかったはずがない。
 
 残虐趣味以外のサド侯爵からの影響も、慎重に、だが正当に読み解かれねばならない。「フランス人よ、共和主義者になりたいなら、もうひとがんばりだ」には、このほかにも読んでいたとすれば確実にボードレールの宗教観に影響を与えたであろうテーゼを見出すことができる。その痕跡と思しきものも、「祝福」をはじめとするいくつもの詩のなかに見つけることが可能だ。
 

 われわれは宗教が必要だと感じている。ならば、ローマ人たちの宗教を真似ればよい。行動、情熱、英雄こそ、とりもなおさずその崇敬の対象だった。人はこうした偶像によって魂を高められ、強く感動させられただけでなく、崇敬の対象がもつ諸々の美徳を伝えられた。*5

 
 ボードレールの「祝福」は、サド侯爵の教えに忠実に、言わば生真面目にふざけているという印象を私は受ける。それは、カトリック教会の教義など断じて尊重してはならず、徹底して軽んじなければならないという詩人の確固たる意志の現れである。
 
 このサド侯爵の教えこそ、詩人の西脇順三郎が絶賛したボードレール諧謔の精神」の正体にほかならない。
 

 またボードレールがイロニイやパラドックスやパロディの天才であったことは諧謔の精神に富んでいたことを証明する。ジァン・プレヴォボードレールの「模倣主義」ということさえ言っているが、これは頭脳の柔軟性と感受性のすぐれていることを示している。ものまねするということ自身に喜劇性が含まれている。*6

 
「祝福」とは、まさに諧謔を武器としたボードレールによる宗教批判の実践なのである。幸いなことに、私たちはいま、サドやボードレールたちの抵抗が自由を勝ち取ったあとの世界に生きることができている。文化を信仰から解放し、文化を文化として享受することが許されている私たちのこの世界は、彼ら芸術家たちが、一歩ずつ切り開いてきた成果にほかならないのである。
 

聖母マリアの子宮が象徴するもの

 
 しかしながら、キリスト教に対するボードレールの態度は、必ずしも批判一辺倒というわけでもなかったことが、『悪の華』の解釈者たちを悩ませ続けている。美術批評家でもあったボードレールが、キリスト教美術に敬意を払っていたことはまちがいない。
 
 中世キリスト教メメント・モリ美術をオマージュした「けしからぬ修道者」の第1連には、長らく翻訳者たちを悩ませてきた不可解な詩句がある。その謎を解く鍵となるのも、ほかならぬ「アヴェ・マリア」だ。
 

昔日の修道院にある回廊の大きな壁には、
聖なる真理が壁画に描かれて並んでいた。
その効果は、敬虔なる胎を温め直しては、
その謹厳さの孕む冷たさを和らげていた。

ボードレール『悪の華』韻文訳――009「けしからぬ修道者(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Les cloîtres anciens sur leurs grandes murailles
Étalaient en tableaux la sainte Vérité,
Dont l’effet, réchauffant les pieuses entrailles,
Tempérait la froideur de leur austérité.

Les Fleurs du mal (1861)/Le Mauvais Moine - Wikisource

 
 問題の詩句とは、私の韻文訳では「敬虔なる胎」と翻訳した「les pieuses entrailles」である。これをどう解釈するかは、訳者によって見事に判断が分かれている。いつもの4冊を確認しておこう。*7堀口大學訳は「信深き心腸」(堀口訳,p.47)、鈴木信太郎訳は「信仰の篤い心」(鈴木訳,p.50)、安藤元雄訳は「信心にこり固まった腹の底」(安藤訳,p.39)、阿部良雄訳は「敬虔なる臓の腑」(阿部訳,p.52)と訳している。
 
 一致しないのは、entrailles(アントラーイユ)の解釈である。これは通常は「内臓」を意味する名詞なのだが、そこにpieuses(敬虔な)という形容詞がつくことによって、それがなにを表している比喩なのかが問題となるわけだ。『「悪の花」註釈』によると、解釈は「修道院の内部」と「修道士の内心」の二つに大きく分かれる。だが、そもそもこれは「単に押韻のために無理に採用されたまずい表現」*8にすぎないとする見方もあるらしい(クレペ=ブラン)。きっとボードレール本人が知ったら激怒するにちがいない。
 
 ここで注目してほしいのが、フランス語訳「アヴェ・マリア」におけるentraillesの用法である。そこでは、entraillesは聖母マリアの母胎を意味する訳語として使用されている。無論、これは「アヴェ・マリア」独自の用例ではなく、辞書にもあたりまえに載っている文語表現である。ラルースの仏仏辞典を引用しておこう。
 

3. Littéraire. Ventre maternel : L'enfant qu'elle avait porté dans ses entrailles.
 SYNONYMES :
 sein - ventre

Définitions : entrailles - Dictionnaire de français Larousse

 
 見落としてはならないのは、「彼女が胎のなかに宿した子供(L'enfant qu'elle avait porté dans ses entrailles)」という例文のあとに類義語(Synonymes)として挙げられているseinとventreだ。sein(サン)はサシが「ルカによる福音書」のフランス語訳において、ventre(ヴァーントル)はボードレールが「祝福」においてそのパロディーに用いたラテン語ventris(ヴェントリス)の訳語である。それらと同じように、ボードレールは、ほかならぬ「アヴェ・マリア」のこの聖句から「けしからぬ修道者」の詩句の着想を得たのではないかと私は推測している。
 
アヴェ・マリア」と同じく、「けしからぬ修道者」のentraillesも「聖母マリアの子宮」を意味するとすれば、「les pieuses entrailles」は三通りの解釈が可能となる。一つめは、「敬虔なる胎」、すなわち「信仰の母胎」である。これは、修道院という建物と修道会という組織の両方を指していると解釈していいだろう。それが大きな壁に展示された数々の宗教画によって温め直され(réchauffant)、再活性化されるのだ。
 
 二つめは、「聖なる真理(la sainte Vérité)」、すなわち聖母マリア処女懐胎であり、三つめは、それに象徴されるイエス・キリストの神話そのものである。処女懐胎は、イエスの神話の原点であり、まずそれを信じなければなにもはじまらないという意味で、キリスト教信仰の核心である。
 
 特筆すべきは、このピースがはまることによって、第1連に有名な「受胎告知」の聖画のイメージが現れることだ。前述のとおり、entraillesは一般には「内臓」を意味するので、この聖画のイメージを経由しなければ「子宮」と解釈することは難しい。その意味でも、「la sainte Vérité」という詩句は非常に重要なヒントになっており、それが第2連における「死の勝利」の連想を準備する仕組みにもなっている。
 

 
 周知のように、「受胎告知」はイエス磔刑像や聖母子像と並んで、キリスト教の聖画を代表するシンボルである。「けしからぬ修道者」の第1連において、ボードレールはそれらのうちのどれかではなく、しっかりと「受胎告知」のヴィジョンへと読者を導く仕掛けを用意していたというわけだ。
 

アヴェ・マリア」と「秘密の建築」

 
 残念ながら、ほとんどだれにも気づいてもらえなかったことによって、ボードレールの目論見は失敗だったと言わざるをえないが(笑)、ボードレールはほかにも読者に気づかせるための仕掛けを念入りに『悪の華』に施している。
 
 その最初の一つが、「祝福」における「アヴェ・マリア」のパロディーだったのは言うまでもないだろう。もちろんそれだけではなく、「けしからぬ修道者」の前後の詩のなかにも、ボードレールは抜かりなくヒントを仕込んでいる。
 
 答えを知っていればすぐにそれとわかるのは、直前の「魂を売るミューズ」に登場する「テ・デウム(Te Deum)」だろう。
 

君もやるしかないんだよ。毎晩のパン代を稼ぐために、
ミサ答えの子のように、振り香炉をふったり、
あまり信じていもしない「テ・デウム」を歌ったりさ。

ボードレール『悪の華』韻文訳――008「魂を売るミューズ(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Il te faut, pour gagner ton pain de chaque soir,
Comme un enfant de chœur, jouer de l’encensoir,
Chanter des Te Deum auxquels tu ne crois guère,

Les Fleurs du mal (1861)/La Muse vénale - Wikisource

 
 詩のみならず、文芸作品の読み方の基本として、教会で歌われている賛美歌が登場したなら、それは「これからそれにちなんだ表現が出てきますよ」というサインではないかと勘繰りながら読む必要がある。しかしながら、この技法の成否の要はアヴェ・マリア」には一切言及せずにそれと気づかせることにある。それで、こんな遠まわしなアシストになっているというわけだ。
 
 続いて、「敵」のほうに隠されているヒントが、第1連に登場する「紅緋色の実(fruits vermeils)」のfruits(実)である。
 

わが青春は、輝かしき陽光もあちこちに
通り抜けた暗澹たる雷雨でしかなかった。
落雷と雨のもたらした荒廃にさらされた私の庭に、
残ったものはごくわずかな紅緋色の実だけだった。

ボードレール『悪の華』韻文訳――010「敵(1861年版)」 - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

Ma jeunesse ne fut qu’un ténébreux orage,
Traversé çà et là par de brillants soleils ;
Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,
Qu’il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.

Les Fleurs du mal (1861)/L’Ennemi - Wikisource

 
 なぜfruitsが「聖母マリアの子宮」のヒントになるのかは、日本カトリック司教協議会による「「アヴェ・マリアの祈り」正式口語訳について」を読むとわかる。
 

聖母マリアへの祈り」で「あなたの子」と訳されていた箇所は、ラテン語原文の“fructus ventris tui”(あなたの胎の実)の“ventris”(胎)を訳して「ご胎内の御子」としました。「胎内」については、医学の専門用語のような印象を受けるとのご意見も寄せられましたが、適当な代案は見いだせませんでした。また、“fructus”の文字通りの意味は「実」、「果実」(英語では“fruit”)ですが、日本語の祈りの文章にはなじまないため「御子」を採用しました。

アヴェ・マリアの祈り | カトリック中央協議会

 
 私なら、fructusも活かして「あなたのお胎に実った御子」と訳すが、それはさておき、ここで重要なのは、「Ave Mariaラテン語原文の「fructus ventris tui」を直訳すると、「あなたの胎の実」になるというくだりだ。これこそが、「敵」の「私の庭」に残されたものが「花(fleurs)」でも「芽(bourgeons)」でも「種(graines)」でもなく、「実」であった理由である。「けしからぬ修道者」と「敵」にまぎれ込ませたパズルのピースが組み合わされることによって、「アヴェ・マリア」という絵が完成するというわけだ。
 
 このように、ボードレールは「アヴェ・マリア」を『悪の華』の「秘密の建築」の蝶番としても活用していたと考えられる。こうした形の福音書典礼文の利用は、パロディーではなくオマージュと呼ぶべきかもしれない。とはいえ、ここから直ちにキリスト教思想への表敬を読み取るのは早計だろう。おそらくこれは、教養主義に根ざしたちょっとした文章術にすぎないものだ。
 
 いや、むしろ、こうしたレトリックにもさりげなく顔を出すほどに、西欧の教養人には『聖書』が深く根づいているのだと理解するべきなのかもしれない。
 

ペストと「死の勝利」

 
「祝福」と「けしからぬ修道者」とをつなぐ蝶番は、「アヴェ・マリア」だけではない。「祝福」には、「けしからぬ修道者」を予告しているとも取れる詩句が巧妙にまぎれ込んでいる。そして、それもまた詩人の母親の呪詛なかに見つけることができるのだ。
 
 そのキーワードとは、「祝福」の解説で取り上げたempestés(アンペステ)である。私の韻文訳では「ペストを流行らす」と訳したこの単語が象徴しているのは、言うまでもなく、中世ヨーロッパを死の世界に変貌させた黒死病パンデミックだ。そして、中世のキリスト教美術は、この暗黒時代を土壌として開花したのである。それを象徴する作品が「死の舞踏」であり、「死の勝利」だ。
 
 実は、「祝福」に登場するempestésのルーツも、「ルカによる福音書」のなかに見出すことができる。それが、第21章におけるイエスの終末の予言である。
 

 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

ルカによる福音書 21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 | Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳) | Download The Bible App Now

 Et il y aura en divers lieux de grands tremblements de terre, des pestes et des famines ; et il paraîtra des choses épouvantables et des signes extraordinaires dans le ciel.

Bible Sacy/Saint Luc - Wikisource

 Et terræmotus magni erunt per loca, et pestilentiæ, et fames, terroresque de cælo, et signa magna erunt.

Vulgata Clementina/Evangelium Secundum Lucam - Wikisource

 
 新共同訳では「疫病」と訳されているラテン語pestilentiæ(ペスティレンティアエ)を、サシによるフランス語訳はまさにpestes(ペスト)と訳している。この「ルカによる福音書」第21章11節は、「ヨハネの黙示録」の第6章に登場するヨハネの黙示録の四騎士の第四の騎士が、疫病によって人々に死をもたらすとされる典拠として引かれるテクストでもある。
 

 小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。

ヨハネの黙示録 6 | 新共同訳 Bible | YouVersion

 Lorsqu’il eut ouvert le quatrième sceau, j’entendis la voix du quatrième animal, qui dit : Venez, et voyez. En même temps je vis paraître un cheval pâle ; et celui qui était monté dessus s’appelait la Mort, et l’Enfer le suivait ; et le pouvoir lui fut donné sur les quatre parties de la terre, pour y faire mourir les hommes par l’épée, par la famine, par la mortalité, et par les bêtes sauvages.

Bible Sacy/Apocalypse - Wikisource

 Et cum aperuisset sigillum quartum, audivi vocem quarti animalis dicentis : Veni, et vide. Et ecce equus pallidus : et qui sedebat super eum, nomen illi Mors, et infernus sequebatur eum, et data est illi potestas super quatuor partes terræ, interficere gladio, fame, et morte, et bestiis terræ.

Vulgata Clementina/Apocalypsis - Wikisource

 
 ご覧のとおり、「ヨハネの黙示録」の第6章で第四の騎士が登場する場面には「疫病」という言葉は出てこない。おそらく、後代の解釈者たちによって、先行する福音書におけるイエスの終末の予言とのすりあわせが行われた結果、四騎士それぞれの役割が決まったのだろう。第四の騎士と疫病を結びつける解釈が成立した正確な時期まではわからないが、遅くとも、「死の勝利」をテーマとする絵画が盛んに描かれていた時代にはすでにあったと見てまちがいない。
 
 この青白い馬に乗って現れるヨハネの黙示録の第四の騎士、「死(la Mort)」こそが、「死の勝利」の死神たちのルーツにほかならない。「死の勝利」をテーマとした作品群のなかに、馬に乗った死神が描かれたものがいくつも存在するのは、この第四の騎士の姿をふまえたものと考えられる。
 

 
 14世紀のヨーロッパを襲った黒死病の惨禍は、当時のキリスト教徒たちに、まさにこの世の終わりの到来として受け止められたのだ。「死の勝利」とは、世界に終末をもたらす黙示録の第四の騎士の勝利をも意味していたのである。こうした聖書解釈の伝統もまた、『悪の華』ばかりでなく、すべての西欧文学のまさに血肉となって受け継がれてきたものだと言えるだろう。
 
 最後に、今回解説した『悪の華』と「アヴェ・マリア」とのつながりは、まぎれもなく私が自分で発見したものだが、世界は広いので、「私が最初の発見者だ」などと自惚れるほど私は愚かではない。世界のどこかに、きっと私より先にボードレールが『悪の華』に仕掛けた「アヴェ・マリア」のパズルに気づいた人がいるにちがいない。しかしながら、私にはそれを確かめる余力も気力もない。
 
 だが、今後の研究をつうじて、幸運にもその最初の発見者に出会うことがあったなら、責任をもってこの翻訳ノートで紹介し、その栄誉を称えることを約束したい。
 
 

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参考リンク






*1:Vulgata Clementina/Evangelium Secundum Lucam - Wikisource

*2:マルキ・ド・サド『閨房の哲学』秋吉良人訳,講談社学術文庫,2019年,pp.213-214

*3:シャルル・ボードレール「道義派のドラマと小説」阿部良雄訳,『ボードレール批評』3,ちくま学芸文庫,1999年,p.33

*4:シャルル・ボードレールエドガー・ポーに関する新たな覚書」阿部良雄訳,『ボードレール批評』3,ちくま学芸文庫,1999年,p.135

*5:前掲『閨房の哲学』,p.199

*6:西脇順三郎ボードレールと私』講談社文芸文庫,2005年,p.237

*7:悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。文芸社刊の私の旧訳は平岡旧訳と略記する。

*8:シャルル・ボードレール京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』上,平凡社,1988年,p.122