灯台(1861年版)
シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
ルーベンス、忘却の河、自堕落の庭、
そこはだれも愛せぬ瑞々しき肉の枕。
それでも流れこみ、絶え間なく騒ぎ立つ生命。
空に満ちる空気や、海に満ちる海水のように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、奥深く薄暗い鏡、
そこに現れる魅力あふれる天使たち。
一面に神秘を湛えた甘い微笑を浮かべながら、
彼らの国を閉ざす氷河と松の陰から。
レンブラント、一面にざわめきの立ちこめる、
大きな十字架像だけが飾られた悲しき施療院。
泪ながらの祈りが汚物から立ち昇る。
にわかに通り抜ける一条の冬の光線。
ミケランジェロ、ヘラクレスたちと
キリストたちが混在して見える漠とした場所。
黄昏のなか、まっすぐに起き上がり、
指をのばして屍衣を引き裂く屈強な幽霊たち。
怒れる拳闘士、厚顔なるファウヌス、
汝こそ、不埒者どもの美しさを拾いえたる者。
驕慢に膨らんだ尊大な心、虚弱に黄ばんだ男、
ピュジェ、徒刑囚どもの憂鬱な帝王。
ヴァトー、この謝肉祭を幾多の著名な人士が、
蝶のように、爛々と輝いて逍遥する。
この舞踏会の渦に狂気を注ぐシャンデリアが、
鮮やかで軽やかな舞台装置上に照る。
ゴヤ、未知なるものに満ちた悪い夢。
サバトの中央で火にかけられる胎児、
鏡を見る老婆たち、悪霊どもを誘惑するため、
ストッキングをよくのばす真っ裸の子供たち。
ドラクロワ、けしからぬ天使たちの出没する、
常緑の樅の森が陰を落とした血の湖。
憂愁の空の下、異様なファンファーレが通る。
ウェーバーの息づまる嘆息のように。
これらの呪い、これらの冒瀆、これらの苦悶、
これらの恍惚、叫び、泪、「テ・デウム」は、
幾千の迷宮によって繰り返し反響された木霊、
それは死すべき者の心にとっての神のアヘン!
それは幾千の歩哨によって復唱された叫び声、
幾千のメガホンによって送り伝えられた命令。
それは幾千の城砦の上で火をつけられた灯台、
大きな森のなかで道を見失った狩人の呼び声!
それというのも、主よ、まさしくこれこそが、
われらが尊厳を示しうる最良の証言たるもの。
時代から時代へ流転し、あなたの永遠の岸辺へと
打ち寄せて消えていく、この熾烈なる嗚咽こそが!
(2024.2.12一部改訳)
ボードレール『悪の華』韻文訳の第7弾「灯台」がやっと完成した。序盤の二つの最難関をなんとか乗り越えたのを機に、タイトルを改め、通し番号も『悪の華(1861年版)』における詩篇番号にそろえることにした。
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今回の「灯台」の韻文訳が困難を極めた理由は、全編をとおして連発される体言止めのせいである。自分で言うのもどうかと思うが、行末に「だ」や「である」などのよけいな語尾をつけてごまかさずに韻文に訳せたのは、ほとんど奇跡であると言っていいだろう。
とはいえ、これは私のテクニックでどうにかなる問題ではなく、たまたま韻を踏むことができる名詞の対が原文に存在したという、純粋な偶然のおかげである。たとえば、この韻文訳には第3連と第9連に、それぞれ「施療院(hôpital)」と「光線(rayon)」、「苦悶(plaintes)」と「アヘン(opium)」という「ん」で脚韻を踏む訳語の組み合わせが存在するが、そもそも「ん」で脚韻を踏むこと自体が難しいなか、そこにそれらの語があったことはほんとうに奇跡としか言いようがない。
ちなみに、第9連の原文では「Te Deum(テ・デオム)」と「divin opium(ディヴァン・オピヨム)」が脚韻を踏んでいる。
Ces malédictions, ces blasphèmes, ces plaintes,
Les Fleurs du mal (1861)/Les Phares - Wikisource
Ces extases, ces cris, ces pleurs, ces Te Deum,
Sont un écho redit par mille labyrinthes ;
C’est pour les cœurs mortels un divin opium !
「テ・デウム」は、周知のとおりラテン語で歌われるカトリックの讃美歌の定番であり、それと「神のアヘン」を脚韻でつないで暗に同一視するのは、カール・マルクスの有名な「宗教は民衆のアヘンである」という格言を彷彿とさせる大胆不敵な表現である。これを翻訳で再現できれば百点満点かもしれないが、さすがにそこまではできなかった。
とはいえ、「苦悶」と「神のアヘン」の組み合わせも脚韻に有意義な意味上のつながりを重ねることができているので、これはこれで正解ではないかと思う。しかも、この箇所については原文の趣旨にも反していない。こうした言葉の組み合わせを見つけることが、韻文訳の一番の楽しみかもしれない。
語学研究としての翻訳
先ほど、韻文訳は私のテクニックでどうにかなる問題ではないと言ったが、これは翻訳において訳語を決めることすべてに当てはまることである。
たとえば、先ほど例示したplainte(プラーント)を、私はこの「灯台」では「苦悶」、「読者に」と「祝福」では「苦悶の声」と訳している。「祝福」にはその形容詞形のplaintif(プランティフ)も出てくるので、そちらは「苦悶する」と訳した。このように、フランス語の単語には(英語もそうだが)、漢字と同じように、語幹と活用語尾によって品詞が変化するものが多い。なので私は、語幹(この場合はplaint)を共有する単語群は、ちゃんとそのことがわかるように訳語を選ぶようにしている。
ところで、plainteを仏和辞典で引くと、最初に載っている意味は「うめき声」である。では、私の好みで「苦悶」や「苦悶の声」という訳語にしたのかと言えば、必ずしもそうではない。なぜなら、フランス語にはgémissement(ジェミスマン)という「うめき声」を表すより一般的な単語が存在するので、それと区別する必要があるからだ。和仏辞典を引いてみても、やはり「うめき声」はgémissementであり、plainteは載ってすらいない。よって、plainteの訳語はそれ以外にするしかない。
同様に、私がpleur(プルール)の訳語をこれまで一貫して「涙」ではなく「泪」と表記しているのもまったく同じ理由である。フランス語には「涙」を表すlarme(ラルム)というより一般的な単語が存在し、pleurのほうは文語表現とされている。ここまでまだ一度も出てきていないものの、larmeは『悪の華』にも登場する。そのため、ボードレールの使用頻度はpleurのほうが多そうだが、それでもlarmeと区別するためにpleurのほうを「泪」と表記せざるをえないのだ。決してカッコをつけたくてそうしていたわけではない。ずっと言っておきたかったのだが、やっと書くことができてすっきりした。
涙にちなんで言えば、フランス語には、「目」を表すœil(ウイユ)と、「両目」を表すyeux(イユー)という2種類の単語がある。しかし、「青い眼(yeux bleus)」など、yeuxを両目と訳すと日本語としては不自然になるときは、私はyeuxを「眼」と訳すことにしている。というわけで、私の「祝福」の韻文訳に「目」と「眼」の両方の表記が出てくるのは、決してケアレスミスではない。これもずっと言いたかった。
このように、訳語を区別するルールを定式化する試みをつきつめていくと、私たち翻訳者の自由になる部分は、実はそれほど大きくはないことがわかる。それでも翻訳が退屈なルーティンワークになってしまわないのは、この定式化されるべきルールがまだほとんどでき上がっていないからだ。おそらく個々の翻訳家はそれぞれに自分の基準をもっているだろうとは思うが、個々人を超えて広く共有されているようなルールのコンセンサスは、まだどこにもない。
こうした日本語とフランス語という二つの言語のあいだの語彙のマッチングは、翻訳というより語学研究の仕事ではないかと思う。実際、『悪の華』の翻訳と並行して類義語を訳し分けるための単語リストを作りながら、私は自分がボードレールの研究をしているのか、それともフランス語の研究をしているのか区別がつかなくなりつつある。
とはいえ、幸か不幸か私は、こうした言語間の語彙のマッチングという課題の題材に、詩集ほど向いているものはないことに気づいてしまった。その意味でも、ボードレールの『悪の華』と『パリの鬱屈』は、長さも分量もちょうどいいのだ。気づいてしまったからには、私がやるしかないのだろうか。きっと自分でやらないと気が済まないだろうから、私が自分でやるしかないのだろう。
芸術の本質の六つの変奏
今回の「LES PHARES」の韻文訳には、今度こそ新発見などないだろうと思っていた。だが、当初は些細な表現のちがいにすぎないと思っていたことが、よくよく考えると全体の解釈にも影響する大きな差異だと気づいたところがあったので、ここからはその箇所について説明しておきたい。
問題の箇所は、第9連の第3行から第10連の第4行まで6回くり返されているパラフレーズである。まずは参考として、今回は集英社文庫の安藤元雄訳と原文を引用しておこう。*1
それはみな 千の迷宮に響く一つのこだま。
死すべき人間の心にとっての聖なる阿片!
千の歩哨が復誦する一つの叫び、
千の送話器が申し送る一つの指令。
千の砦の上にともされる一つのかがり火、
深い森に迷った狩人たちの一つの呼び声!
(安藤訳,p.33)
Sont un écho redit par mille labyrinthes ;
Les Fleurs du mal (1861)/Les Phares - Wikisource
C’est pour les cœurs mortels un divin opium !
C’est un cri répété par mille sentinelles,
Un ordre renvoyé par mille porte-voix ;
C’est un phare allumé sur mille citadelles,
Un appel de chasseurs perdus dans les grands bois !
注目していただきたいのは、原文引用部に赤字で示した「un(アン)」である。安藤訳では、引用部2行目以外のunを律儀に「一つの」と訳出しているが、私はこの箇所のunはすべて数量ではなく、不特定のものであることを示す不定冠詞であると解釈し、訳出しなかった。該当箇所の私の翻訳を再度提示しておこう。
幾千の迷宮によって繰り返し反響された木霊、
それは死すべき者の心にとっての神のアヘン!
それは幾千の歩哨によって復唱された叫び声、
幾千のメガホンによって送り伝えられた命令。
それは幾千の城砦の上で火をつけられた灯台、
大きな森のなかで道を見失った狩人の呼び声!
ここからの説明は、私が「一つの」を訳出する必要はないと判断した理由にすぎない。だが、それを「つけなくてもかまわない」理由ではなく、「つけないほうが正しい」理由をしっかり説明しようとすると、思いのほか長くなってしまった。とはいえ、それはこの詩全体の読み方にも関わる問題なので、最後までおつきあいいただけると幸いである。
引用部で、「木霊(écho)」、「神のアヘン(divin opium)」、「叫び声(cri)」、「命令(ordre)」、「灯台(phare)」、「呼び声(appel)」と、次々と言い換えられているものは、それらによって表現されている芸術の本質や真髄と呼ぶべきものであると、ひとまず解釈できるだろう。この芸術の本質は、そうした表現のちがいを超えて、それらに共通するものとして、その一つひとつに宿るものだと考えられる。
芸術の本質を共有することで、それら六つの表現は、別々のものであるにも関わらず、その本質においては同じものであるという見方が可能となる。ここで私が問い直したいのは、私たちがあたりまえのものとして前提としているこの思想なのだ。いったい、それらの表現はどの程度の厳密さで同じものと考えるべきだろうか? それが引用箇所におけるunの解釈に深く関係しているのだ。
まずは基礎文法の復習をしておこう。「ある日」を英語で「One day」と言うように、フランス語でも「Un jour」と表現する。この場合のunは、不特定多数のものの一例という意味の「ある」である。安藤訳が引用部2行目のunだけ訳出していないのは、その意味の「ある(不特定の)」だと解釈したからだろう。おそらく安藤も、「聖なる阿片」という数えようのないものに「一つの」をつけるのはおかしいと考えたのではないかと思う。
では、unを「一つの」と訳出している箇所はどうだろうか。ここで注意が必要なのは、名詞に「一つの」という限定がつくと、単純に「ものが一つある」という意味ばかりではなく、文脈によってはそのものの単一性や同一性が必要以上に強調されてしまうことだ。引用した安藤訳も、この意味での単一性が際立つことにより、そのものの同一性が帰結してしまうような訳文となっている。つまり、千個のものがすべてまったく同じものであると言っているように読めてしまうのだ。
安藤訳引用部3行目の「叫び」は、「復誦(répété)」されているものだから「同じ一つの叫び」と解釈して問題ないかもしれない。では、くり返されているわけではない6行目の「呼び声」のほうはどうだろうか。「一つの呼び声」を、「森で道に迷った狩人はみんなまったく同じSOSを発する」というふうに解釈することはできなくはないだろう。だが、unによってそこまで厳密な同一性が示されていると考えるのは無理があるのではないか。ほかの邦訳も確認してみると、堀口大學(堀口訳,p.44)も鈴木信太郎(鈴木訳,p.45)も阿部良雄(阿部訳,p.48)もこの箇所のunを訳出していない。
この「Un appel」を、私は「不特定多数の狩人がそれぞれに発する同じような呼び声」であると解釈している。それは、重要な構成要素のほとんどが共通しているため同じものとみなすことができるが、同一性を損なわない程度には個々にちがいがあるようなもののまとまりである。この場合のunは、こうした意味での「輪郭のぼやけた同一性」を表していると考えることができる。
説明がややこしすぎるかもしれないが、要するに私は「ある犬(un chien)」や「ある猫(un chat)」の場合の「ある」のことを言っているのである。この場合の「ある」には、「それとわかるもののうちのどれか」という含意がある。「ある猫」はどんな種類の猫かはわからないが、少なくとも猫であることはまちがいない。「Un appel」が含意する「狩人の呼び声」の同一性も、これと同じ程度のものと考えるべきなのだ。
ここで論じている六つのパラフレーズは、芸術の本質の表象であることに立ち戻れば、「神のアヘン」も「狩人の呼び声」も芸術作品の比喩であることは明らかだろう。ならばなおさら、元来多様であるはずのその表現が「一つのもの」であることを強調するのは、不適切であると言わざるをえない。
単一性と多様性は対立せざるをえない概念だが、共通性と多様性のほうは必ずしもそうではない。メッセージの共通性と表現の多様性は両立するのだ。6回にわたる芸術の本質の変奏は、まさにそのことを表現するために行われているのである。
本質の表現の反復と伝達
ということは、「神のアヘン」と「狩人の呼び声」以外の四つのパラフレーズに付されたunについても、同様に「輪郭のぼやけた同一性」を表していると解釈することができるのではないだろうか。
パラフレーズされていく表現それぞれの描写に目を向けてみよう。すると、そのうちの「木霊」と「叫び声」と「命令」と「呼び声」は、いずれも反復され、伝達されるものだということに気づくはずだ(「叫び声」と「命令」は同じメッセージを伝達しているとも解釈できる)。そのことは、何度も反復され、伝達されることによって、伝えられるべきメッセージが変化してしまう可能性が暗示されているとは考えられないだろうか?
それらの変奏は、「木霊」は「幾千の迷宮」のなかで反響することよって、「叫び声」は「幾千の歩哨」のあいだを伝言されることによって、「命令」は「幾千のメガホン」によって越えなければならない距離によって、「狩人の呼び声」は「大きな森」に遮られることによって、それぞれ不確かな、あいまいな、聴き取りにくいものとなり、その分だけ歪められた形で伝えられることになるだろう。これらの不確かな伝達手段は明らかに意図して集められたものだ。
そうした悪条件のせいで、伝達されるべき芸術の本質の表現は、正確性や同一性を保つことが困難となる。これは、言うまでもなく芸術家が理想どおりに作品を作り上げることの難しさの比喩である。芸術の本質が、まったく歪みのない本来の姿を保ったまま正しく伝わることは、決してないのだ。少なくとも、それは決して人間にできることではない。つまり、この六つのパラフレーズでは、伝わることと同じかそれ以上に、伝わらないこともまた重要なのである。
不確かな伝達経路によって伝えられる芸術の本質の表現は、輪郭のぼやけたものにしかなりえないだろう。変奏の起源に位置する「木霊」は、そもそもどこから響いてきたのかさえ定かでないものである。そのような、それ自身がくり返し反響することによってさえ混濁し、次第に不明瞭になっていくものの同一性とは、もはや同一であることが正確さや真正さを保つことの役に立たないもの、むしろその同一性によって、逆にその本質が覆い隠されてしまうものを表しているとさえ言えるかもしれない。「木霊」とは、オリジナルと模倣のメタファーでもある。
もうお気づきだろうが、この反復と伝達によるメッセージの変容もまた、これら六つのパラフレーズそのものによって表現されているものである。この作品の形式そのものが、この詩の言わんとすることを体現する仕組みになっているのだ。そうした観点でこの作品全体の構成に目を向けてみると、前半に配列された8人の芸術家を顕彰する「メダイヨン(Médaillon)」の数と、最後の第11連の「証言(témoignage)」と「嗚咽(sanglot)」の2回を含めて計8回くり返される芸術の本質の変奏の回数が合致していることに気づく。
それはすなわち、ルーベンスから「フランスのルーベンス」*2であるドラクロワにいたるまでの西洋美術史の変遷そのものが芸術の本質の変奏にほかならないという、この作品にボードレールが仕込んだ暗号である。
灯台の灯火が意味するもの
六つのパラフレーズのうち、「灯台」がなぜ「反復」と「伝達」を表していると言えるかについては、『「悪の花」註釈』におけるフランス文学者の西川長夫による卓抜な解釈を讃えずにおくわけにはいかない。
それにしても無数の,おそらくは遠く離れた城砦に次々と灯火がともされてゆくのは美しいイマージュである。人びとはこの灯火に導びかれて永遠の岸辺(au bord de votre éternité)に至る。冒頭の表題の項で述べたように,もしこのイマージュをとってLes Pharesという題名がつけられたとすれば,「燈台」という海を思わせる翻訳は適切であるとは言えないだろう。*3
phareとは、城砦から城砦へ次々とリレーされる合図の灯火なのだ。西川は「結局は唯一のものがそれらの灯火をたどって伝えられる」*4という解釈を取っているが、西川の考えは、「芸術の本質という共通のものが表現を変えながら継承されていく」という私の解釈と必ずしも矛盾しない。
ストレートに読めば、灯台とは、城砦(citadelles)、すなわち芸術家のアトリエで制作される芸術作品の比喩であり、それに火をつける(allumé)のは、言うまでもなく芸術の本質である。そう解釈するなら、芸術家や芸術作品のシンボルである灯台が、大きさも形もまったく同じ「一つのもの」であると考えるのは、やはりおかしい。ましてや、リレーされる「一つのもの」は灯台そのものではなく、そこに灯される灯火のほうだとすれば、灯台が「同じ一つのもの」である必然性はまったくないことになるだろう。
ところで、西川も書いているとおり、「唯一のもの」とは、灯火そのものではなく、「それによって伝えらえるもの」のほうである。芸術の本質とは、灯台でも、灯火でも、無論それ以外のいかなる表現形態でもなく、表現される内容のほうなのだ。したがって、表現の形式にすぎない六つのパラフレーズのそれぞれが「一つのもの」だったとしても、それにはいかなる重要性もないのである。
西洋美術史という忘却の河
最後に、西川長夫の詩のタイトルについての見解に対してコメントしておこう。
Googleでphareといっしょにcitadelleを打ち込んで画像検索してみると、海岸にある灯台に似た見張り台のような建物があるヨーロッパの城砦の画像が見つかる。その建物が海岸の灯台と同じようにphareと呼ばれている以上は、やはり「灯台」と訳すしかないだろうと私は考えている。再考すべきなのは、phareの訳語ではなく、私たちの「灯台」のイメージのほうなのだ。
それに加え、この作品の第1連で、ボードレールは「河(fleuve)」や「海(mer)」という語を用いることによって、明らかに読者が海岸にあるほうの「灯台」をイメージするように誘導しようとしている。西洋美術史という「忘却の河」をわたる船が、偉大な芸術家という灯台に導かれながら、オケアノスの大海原をめざして進んでいく。そのイメージが、第10連のphareの描写によって覆されるのだが、第9連から第10連は、作品の構成上、起承転結の「転」にあたる箇所なのである。つまり読者は、そこで予想していたイメージを鮮やかにひっくり返されて驚くことになるわけだ。
ところが、最後の第11連で、西洋美術史という大河は神の永遠の岸辺へとたどり着く。最後にふたたび海のイメージを喚起してこの詩は締めくくられるのだ。そこからふり返るとき、読者は、そこまで美術史の流れを導いてきたのは、8人の偉大な芸術家という灯台であったことを改めて確認するだろう。この作品は、そうした王道の筋書きをストレートになぞって終わっていると言える。
というわけで、「城砦の灯台」は、私はタイトルのタネ明かしに見せかけたフェイントではないかと思っている。偉大な芸術家を人々を導く灯台に見立てるというのは、当時も非常にありきたりなモチーフだったらしいので、ボードレールはそこでひとひねり加えてやろうと思いついたのだろう。
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