宗教というものについて、ボードレールは『火箭』の冒頭に、「たとえ神が存在しないとしても、〈宗教〉はやはり〈神聖〉かつ〈神々しい〉ものであるだろう」*1という有名なテーゼを遺している。おそらくこれは、サド侯爵のキリスト教批判へのボードレールの答えである。
*1:シャルル・ボードレール『火箭』阿部良雄訳,『ボードレール批評』4,ちくま学芸文庫,1999年,p.38
韻 文 訳 悪 の 華 1861年版 シャルル・ボードレール 平岡公彦訳 © 2021-2024 Kimihiko Hiraoka |
続きを読む敵(1861年版)
シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
わが青春は、輝かしき陽光もあちこちに
通り抜けた暗澹たる雷雨でしかなかった。
落雷と雨のもたらした荒廃にさらされた私の庭に、
残ったものはごくわずかな紅緋色の実だけだった。
いまやこの私も理念の秋にさしかかった。
これからは私もシャベルやレーキを使い、
洪水が墓場のようにいくつも大きな穴をえぐった、
水浸しの土地を集めて新生させなければならない。
果たして、私の夢見る新たなる花たちは、
砂浜のように洗い流されたこの地からも、
力強くしてくれる神秘なる糧を見出せるだろうか?
――おお痛い! おお痛い! 時が生命を食えば、
われらの心を蝕んでいく不分明なる敵も、
われらの失う血を吸って生長し、力をつけるのだ!
続きを読むけしからぬ修道者(1861年版)
シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
昔日の修道院にある回廊の大きな壁には、
聖なる真理が壁画に描かれて並んでいた。
その効果は、敬虔なる胎を温め直しては、
その謹厳さの孕む冷たさを和らげていた。
キリストのまいた種が花開いていたそのご時世に、
今日では、その名を引かれることも少なくなった、
一人ならぬ著名な修道者が、埋葬場をアトリエに、
純朴なる心で死神の栄光を称えていたものだった。
――わが魂は、けしからぬ共住修道士のこの私が、
永遠の過去から歩きまわり、住み続けている墓場。
この忌々しき回廊の壁を飾るものなどなにもない。
おお、無為なる修道者よ! いつになったら私は、
私のおかれた情けない惨状の生きた光景をもとに、
わが手の作と、わが眼の愛するものを作れるのか?