平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み5――韻文訳「照応(1861年版)」

照応(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
自然とは一つの神殿。そこに生きる柱たちは、
時折、混迷した言葉を芽生えさせた。
そこを訪ねる人間は、親しげな視線で見守る、
象徴たちの森林のなかを通り抜ける。
 
遠くから響いて混ざりあう長き木霊のように、
夜のように、明かりのように広がる、
暗闇に包まれた深遠な統一のうちに、
香りと、色彩と、音声とがお互いに応えあう。
 
ある香りは、幼い子供の肌のように瑞々しく、
オーボエのように甘く、牧草地のように青く、
――別の香りは、堕落し、豊満し、勝ち誇り、
 
無限の諸事物にも等しく膨れ上がる、
龍涎香や、麝香や、安息香や、薫香のように、
精神と諸感覚との昂りを歌い上げる。
 
 
(2022.5.8一部改訳)

CORRESPONDANCES

 
 
La Nature est un temple où de vivants piliers
Laissent parfois sortir de confuses paroles ;
L’homme y passe à travers des forêts de symboles
Qui l’observent avec des regards familiers.
 
Comme de longs échos qui de loin se confondent
Dans une ténébreuse et profonde unité,
Vaste comme la nuit et comme la clarté,
Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.
 
Il est des parfums frais comme des chairs d’enfants,
Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,
— Et d’autres, corrompus, riches et triomphants,
 
Ayant l’expansion des choses infinies,
Comme l’ambre, le musc, le benjoin et l’encens,
Qui chantent les transports de l’esprit et des sens.
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/Correspondances - Wikisource


 
 ボードレール悪の華』韻文訳の第5弾は「照応」である。今回の旧訳のリニューアルは珍しいことにかなり旧訳の原型を留めている。とはいえ、訳語の再検討は徹底して行ったので、実は旧訳とまったく同じ行は一行もない。
 

 
 ボードレールの『悪の華』を代表する詩を1篇だけ選べと言われたなら、ほとんどの人がこの「CORRESPONDANCES」を挙げるのではないかと思う。というのも、『悪の華』によって誕生したとされるサンボリスム象徴主義という文学潮流を、まさに象徴する詩こそが、この「照応」だからだ。この作品が『悪の華』に登場する最初のソネットだということにも、ボードレールによる格別のはからいが見てとれる。
 

コレスポンダンスの原理

 
「照応」では、香りによって喚起される共感覚やイメージが、コレスポンダンスの理論の例として示されている。共感覚と言ってもなにも特別なことではない。たとえば、第3連で香りの比喩に出てくるオーボエの音色を表現する「甘い(Doux)」という形容詞は、香りはもちろんのこと、食べ物や飲み物の味、ベッドやクッションの肌触り、気候や場の雰囲気まで表現することができる。それを可能にしているのが、私たちのもつ共感覚だ。
 
「こうしたものすべてに共通する「甘さ(douceur)」なるものは存在するのか」というソクラテスの問答はひとまず措くとしても、個々の現れとしての「甘さ」は、「甘さそのもの」という「ある一つのもの」へと私たちの思考を差し向ける。それこそが「暗闇に包まれた深遠な統一(ténébreuse et profonde unité)」の意味することだ。それは「甘さ」のイメージの核心として、個々の「甘さ」の尺度として、またそれらを包摂する輪郭として、確かに存在している。この統一の根底にある原理こそがコレスポンダンスなのだ。
 
 こうした統一によって収斂したイメージが、そこでつながった個々の現れへとふたたび開かれることによって、連想ゲームのようにイメージが展開していく。コレスポンダンスとは比喩の原理でもある。それこそが、この作品が『悪の華』を読み解く鍵とみなされている所以である。
 

無垢な香りと堕落の香り

 
「照応」には、コレスポンダンスの実例として二種類の香りが提示されている。一つが、幼い子供の肌のように瑞々しく、オーボエのように甘く、牧草地のように青い香り。もう一つが、堕落し、豊満し、勝ち誇る香りである。ここでは前者を「無垢な香り」、後者を「堕落の香り」と呼ぶことにして、この二種類の香りが例示されていることの意味を考えてみたい。
 
 前者の無垢な香りの性質を表す「瑞々しい(frais)」、「甘い(Doux)」、「緑色(verts)」という形容詞は、心地よいもの、未成熟なもの、無害なものを表すという点で共通している。それは、それぞれの形容詞が付されている「幼い子供」、「オーボエ」、「牧草地」にもそのまま当てはめることが可能だ。
 
 それらのイメージは、そのそれぞれへと展開しうる一つの共通の感覚を媒介することによって喚起されたものである。ゆえに、例示された個々のイメージはまた「牧草地で幼い子供がオーボエを吹く姿」という一つの像へと矛盾なく収斂させることもできる。ここで描かれている感覚は、『現代生活の画家』において論じられている「無垢な子供の感覚」を連想させる。
 

子どもは全てを新しさの中に見る。そして子どもは常に陶酔している。我々がインスピレーションと呼んでいるものに何よりも近いのが、子どもが形と色の中に味わう喜びなのである。

『現代生活の画家』第03章「世界人、群集の人、そして子どもである芸術家」 – Invitation@Baudelaire

 
 このように、無垢な香りは、香りから受け取る感覚を媒介にしたイメージの広がりを象徴していると解釈することができる。それは無垢な香りが共感覚の例であるとみなされている理由でもある。では、それに対して後者の堕落の香りのほうはどうだろうか。
 
 堕落の香りを形容する「堕落した(corrompus)」、「豊かな(riches)」、「勝ち誇った(triomphants)」という三つの形容詞は、無垢な香りと同じように、堕落の香りのもつ性質を表しているのだろうか。richesはともかく、ほかの二つをそう解釈するのは不可能だろう。だが、香りがそれ自体として堕落したり勝ち誇ったりすることはありえないが、私たちがある香りからそのような印象を受けることは確かにある。
 
 香りから「堕落し、豊満し、勝ち誇った」印象を受けるような場面は少々イメージしにくいかもしれないが、ゴージャスに着飾ったお金持ちのご婦人が、たっぷり香水をつけて通りをわがもの顔で闊歩する姿を思い浮かべるとわかりやすいだろう。それによってある香りは「上流階級の貴婦人」のシンボルとなるのだ。この解釈をとるなら、堕落の香りを形容する三つの語は、香りの性質ではなくイメージを表現していることになる。どうでもいいことだが、ボードレールが特定の愛人をイメージしていた可能性はある。
 
 このように、その香りを身にまとう人の属性がその香りのもつ意味に付け加わることにより、香りから受ける印象そのものが変質してしまうことがある。現代思想風に言えば、香りが記号となることで、その意味もまた変化するということだ。無垢な香りとは逆に、イメージを媒介することによって、香りそれ自体からは本来感じるはずのない感覚が喚起されるのだ。また、こうしたイメージを媒介することによってはじめて、三つの形容詞のあいだの共通性が認識できるようになる。
 
 無垢な香りとの対比で言えば、堕落の香りは、香りに添加されたイメージを媒介した感覚の広がりを象徴していると解釈することができる。堕落の香りとは、イメージを媒介したコレスポンダンスの例なのだ。こう解釈することによってはじめて「無限の諸事物にも等しく膨れ上がる(Ayant l’expansion des choses infinies)」という詩行の意味するところも理解できるだろう。「無限の諸事物(des choses infinies)」のイメージを媒介することによって、香りが喚起する感覚もまた無限に拡張しうる。そのことによって、堕落の香りは「精神と諸感覚(de l’esprit et des sens)」の昂りを高らかに歌い上げるのだ。
 
 以上のように、感覚を媒介したイメージの展開とイメージを媒介した感覚の拡張というコレスポンダンスの二つの様相を示すためにこそ、二種類の香りを例示する必要があったのだと私は考える。
 

四つの香料が象徴するもの

 
 この新訳では「堕落した」と訳しているcorrompusという形容詞は、実は既存の邦訳のほとんどで「腐った」と訳されている。いつもの4冊では、堀口大學は「敗頽の」*1鈴木信太郎は「腐れし」*2安藤元雄は「腐った」*3阿部良雄は「腐敗して」*4と訳しているが、今回ばかりは堀口の解釈が正しいと私は考えている。
 
 まずは仏和辞典を確認しよう。『プチ・ロワイヤル仏和(第4版)・和仏(第3版)辞典』によると、corrompuは第一には「堕落した」という意味で使われる単語であり、そこから「買収された」、「質が損なわれた」という意味が派生している。この形容詞の名詞形であるcorruptionは「堕落」と「買収」を意味する。しかしながら、古くは食べ物などが腐敗するという意味でも使われていたとあり、辞書の定義のみによってほかの訳者の解釈を斥けることはできない。
 
 ただし、食べ物などの腐敗を表現するときの形容詞はpourriのほうが一般的であり、その名詞形のpourritureは「腐敗」を意味する。「腐敗臭」は「odeur de pourriture」である。こうした区別にはよらずに、あえてcorrompuを「腐った臭い」や「質が劣化した臭い」と解釈するには、それなりの必然性がなければならないだろう。
 
 とはいえ、「照応」のcorrompuを「腐った臭い」と解釈するのは、自明のことのようにも思える。なにしろ、ほかならぬ香りを形容しているのだから。また、無垢な香りのfrais(英語のfresh)との対比からも、そう訳したくなる気持ちはよくわかる。よって、後者の香りを形容する三つの語は、私が解釈するように香りのイメージではなく、corrompusは性質、richesは量や濃厚さ、triomphantsはイメージという、それぞれ別のものを形容しているという解釈も可能だろうし、きっとほかの訳者はそう解釈したのだろう。だが、そうなると、この香りがコレスポンダンスとどう関係があるのかがわからなくなってしまう。
 
 ここで注目すべきなのが、堕落の香りの例として挙げられている、龍涎香(l’ambre)、麝香(le musc)、安息香(le benjoin)、薫香(l’encens)という四つの香料だ。これらはいずれも貴族の嗜好品か宗教儀式用品であり、これらの香りが「腐った臭い」に似ているなどということはありえない。これらの香料は、それぞれが担っているシンボルとしての意味のほかに、corrompusを「腐敗臭」と誤解されることを避けるための念押しとしての役割も果たしていると言えるだろう。
 
 いましがたふれたとおり、龍涎香、麝香、安息香、薫香が象徴しているのは、第一には貴族たちの贅沢や(corrompus)、富や(riches)、権勢の誇示(triomphants)である。堕落の香りとは、腐敗した特権階級が嗜む甘美な蜜の香りなのだ。
 

シンボルたちの森林のさらに奥へ

 
 香りがなにかを象徴するという思想は、古くからある普遍のテーマだ。
 
 有名ブランドの香水の名前にも、CHANELの「ÉGOÏSTE」や、DIORの「POISON」や、DANAの「TABU」のように、イメージをコンセプトとしたものが少なくない。ちなみに、BYREDOというブランドからは「BAUDELAIRE」という名前の香水も出ている。
 




 
 思い浮かんだものを適当に挙げたつもりだったのだが、成分を見てみると、「照応」に登場する四つの香料、龍涎香(アンバーグリス)、麝香(ムスク)、安息香(ベンゾイン)、薫香(インセンス)が、いまも現役で活躍し続けていることがわかる。
 
 それぞれ紹介していくと、「ÉGOÏSTE」にはアンバー、「POISON」にはムスク、「TABU」にはアンバーとムスクとベンゾイン、「BAUDELAIRE」にはインセンスが含まれている。ただし、アンバーグリスとムスクは非常に希少価値の高い最高級品だそうで、成分表示にあるアンバーとムスクは天然のものではなく合成香料の可能性が高い。また、インセンスは特定の香料の名称ではなくお香の総称らしい。
 
 四つの香料については、下記のページが参考になる。
 




 
 紹介した四つの香水のなかで、「照応」の堕落の香りに一番近いのは、言うまでもなく「TABU」だろう。それにしても、堕落の香りに最も近い香水の名が「禁忌」だとは! この香水はミステリアスな雰囲気の甘い香りなので、私の印象としても堕落の香りのイメージに合っている。ということは、「照応」の無垢な香りと堕落の香りは、ニュアンスは異なるけれども、どちらも甘い香りであると考えて間違いなさそうだ。こうして登場する香りがイメージできるようになると、作品自体の印象もまた違ったものになるだろう。
 
 堕落の香りの四つの香料のうち、龍涎香は媚薬として使用されていた歴史がある。麝香も女性が男をその気にさせるために用いる香りであり、これらの二つの香料は明確に性の欲望を象徴している。一方、続く安息香と薫香は宗教儀式の象徴であり、それらには魂を浄化する作用があると信じられていたことを考えると、この香料の配列は、荒ぶる感覚を崇高なものへと昇華させることを暗示していると読めなくもない。となると、これは堕落からの救済だろうか。それとも相反するものの調和だろうか。
 
 あるいは、龍涎香と麝香を感覚性=肉体性のシンボル、安息香と薫香を霊性=精神性のシンボルと見立てるなら、そのまま最終行の「精神と諸感覚の昂りを歌い上げる」にきれいにつながる。この解釈をとるならば、堕落の香りの四つの香料は、コレスポンダンスにおける宇宙の統一性の完成を象徴していることになるだろう。
 
 おまけに軽くトリビアを披露して終わるはずが、深読みが止まらなくなってしまった。とはいえ、これこそが象徴主義文学を読み解く醍醐味なので、そのおもしろさが少しでもお伝えできていれば幸いである。
 

*1:ボードレール悪の華堀口大學訳,新潮文庫,2002年改版,p.37

*2:ボオドレール『悪の華鈴木信太郎訳,岩波文庫,1961年,p.37

*3:ボードレール悪の華安藤元雄訳,集英社文庫,1991年,p.26

*4:シャルル・ボードレールボードレール全詩集Ⅰ』阿部良雄訳,ちくま文庫,1998年,p.42