平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳の試み4――韻文訳「上昇(1861年版)」

上昇(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
いくつもの沼を越え、谷を越え、
いくつもの山を、森を、雲を、海を越え、
太陽の彼方、エーテルの彼方へ、
星々をきらめかせた天球の果ての彼方へ。
 
わが精神よ、おまえは機敏な動きで進む。
陶然と波間に戯れる泳ぎの名人のように、
おまえは言葉にならぬ雄々しき愉悦とともに、
深遠で計り知れぬ広がりに陽気に軌跡を刻む。
 
飛べ、この病の瘴気のよくよく遠くまで。
行け、上層の空気のなかまで身を浄めに。
そして飲め、純粋な神のリキュールのように、
澄み切った空間を満たしている明るい火まで。
 
靄に包まれた実存を圧する重石となった、
退屈も、広がる憂愁もみな背後に遠のかせて、
幸いなるかな、力強き翼を羽ばたかせて、
光射す晴朗な領野へと突き進んでゆける者は。
 
ヒバリのように思考し、朝が来るたびに、
思いのままに大空へと飛び立ってゆける者は。
――人生の上を滑空し、努力も要さずに、
花々や声なき諸事物の言語を理解しうる者は!
 
 
(2021.11.7一部改訳)

ÉLÉVATION

 
 
Au-dessus des étangs, au-dessus des vallées,
Des montagnes, des bois, des nuages, des mers,
Par delà le soleil, par delà les éthers,
Par delà les confins des sphères étoilées,
 
Mon esprit, tu te meus avec agilité,
Et, comme un bon nageur qui se pâme dans l’onde,
Tu sillonnes gaiement l’immensité profonde
Avec une indicible et mâle volupté.
 
Envole-toi bien loin de ces miasmes morbides ;
Va te purifier dans l’air supérieur,
Et bois, comme une pure et divine liqueur,
Le feu clair qui remplit les espaces limpides.
 
Derrière les ennuis et les vastes chagrins
Qui chargent de leur poids l’existence brumeuse,
Heureux celui qui peut d’une aile vigoureuse
S’élancer vers les champs lumineux et sereins ;
 
Celui dont les pensers, comme des alouettes,
Vers les cieux le matin prennent un libre essor,
— Qui plane sur la vie, et comprend sans effort
Le langage des fleurs et des choses muettes !
 
 

Les Fleurs du mal/1861/Élévation - Wikisource

 
 ボードレール悪の華』韻文訳の第4弾は「上昇」である。今回は旧訳のリニューアルで済むはずだったのが、例のごとくほとんど別物になってしまった。韻文にするのにも思いのほか手こずった。おそらくこれが本邦初の「ÉLÉVATION」の韻文訳だろうと思う。
 

 
「ÉLÉVATION」は、ボードレールの詩作品のなかでも最も明るい詩の一つである。というより、ボードレールの場合、想像力は創造の苦悩や理想の美に到達しえないことへの絶望と表裏一体のものとして表現されることが多いので、ここまでストレートな想像力讃歌はほとんど例外と言っていいだろう。ということで、訳文のほうも原詩の突き抜けた明るさと、疾走感と、躍動感を表現することに努めた。
 
 理想の韻文詩とは、曲をつけて歌いたくなるような詩である。今回の「ÉLÉVATION」の新訳は、これまでの私の韻文訳のなかでも、最もその理想に近い仕上がりになったと自負している。旧訳を刊行したときからの私の目標は、昭和歌謡以前のレベルに留まっていた『悪の華』の邦訳の日本語のセンスをJポップに追いつかせることだ。Jポップ革命以降とそれ以前の楽曲のあいだにあった残酷なまでのセンスの差を、私の新訳と既存の邦訳とのあいだにもつけてやろうという大それた野心を、私はいまも捨ててはいない。
 
「ÉLÉVATION」の原詩のほうは、すでに多くのミュージシャンが多種多様な楽曲を作り上げている。YouTubeで見つかるものだけでも、かなりバリエーションに富んでいる。今回探してみるまで、ボードレールの詩をテーマにした曲と言えば、クラシックのイメージが強かったのだが、私の認識はとっくの昔に時代遅れだったようだ。
 
 特にいいと思った楽曲を3曲紹介しておこう。それぞれ曲調が異なるので、ぜひ聴き比べてみてほしい。
 

Élévation - Les Fleurs du Mal - Charles Baudelaire - YouTube

Max M - "Elévation" Live séssion au Blue Star Studio - YouTube

♩♩ELEVATION - Charles Baudelaire (Les fleurs du mal) - YouTube

 
 曲の壮大さでは1曲めが群を抜いている。2曲めのロックバージョンもシブくキマっていて驚かされた。1番原詩のイメージに近いのは3曲めではないかと思う。おもしろいのが、1曲めと3曲めがともに原詩の第1連をサビとしてリフレインさせていることだ。私は第1連は単純に天界へ上昇するための助走ととらえていたので、この解釈は非常に新鮮だった。それと2曲めのタイトルの使い方(笑)。そう来るか。その発想はなかった。
 
 1つだけ気になったのが、1曲めも3曲めも、第5連の最後の単語を歌い終わったところでスパッと終わっていることだ。これは最後の単語が「muettes(口のきけない/無言の)」であることを意識した演出なのだろうが、原詩では「花々と(des fleurs et)声なき諸事物の(des choses muettes)言語を(Le langage)努力もなしに(sans effort)理解する(comprend)」と言っていることを考えれば、BUCK-TICKの「New World」のように、歌が終わったあとに演奏だけで盛大に盛り上がって終わるようなアウトロがあってもいいのではないかと思う。
 
 洋楽の歌詞を日本語に翻訳して歌うように、翻訳もこうした楽曲に歌詞を乗せることをイメージして訳すと、また違った形になるのかもしれない。
 

Jポップは韻律のお手本の宝庫

 
 翻訳の参考としては、原詩にそのまま曲をつけた楽曲よりも、原詩と共通するテーマを歌っているJポップのほうが参考になる。その意味で、「上昇」を翻訳する際にイメージしていた楽曲はいくつかある。こちらも3曲紹介しよう。
 
 1曲めは、BUCK-TICKの「New World」だ。大宇宙を突き抜けていく流星のイメージが、ボードレールの「ÉLÉVATION」と重なる。
 

BUCK-TICK / 「New World」ミュージックビデオ - YouTube

 
 サビでは、シンプルで力強いフレーズを、脚韻を踏みながらこれでもかとたたみかけたあと、最後のメッセージだけあえて脚韻を外すことによって際立たせている。サビに入るまで無限の闇のなかを寄る辺なくたゆたうだけだった「君」が、たたみかけられる「イ」音の脚韻に乗って宇宙の果てまで疾走していく。
 
 2曲めは、L'Arc~en~Cielの「HONEY」だ。よく指摘されていることだが、hydeの歌詞には「自由に空を飛びたい」という夢を歌ったものが多い。私は頭韻をイメージするときいつもこの曲のサビが頭に浮かぶ。
 

L'Arc~en~Ciel「HONEY」-Music Clip- [L'Arc~en~Ciel Selected 10] - YouTube

 
 冒頭で3回連続する「カ」音の頭韻は、サビで仕切り直された曲の疾走の起爆剤となっている。この鮮烈な頭韻の効果は、頭韻を踏んでいないBメロのサビと比較すれば一目瞭然だ。その意味でも、「HONEY」は頭韻の活用法の模範例であると言える。
 
 3曲めは、millennium paradeの「U」だ。こちらの曲も、疾走感と、「想像力によって現実とは異なる世界に抜け出したい」というテーマに、ボードレールの「ÉLÉVATION」との共通性がある。
 

millennium parade - U - YouTube

 
 イントロに続いてはじまるサビの冒頭から、いきなり強烈に印象的なフレーズを脚韻を踏みながら圧倒的な歌唱力に乗せてくり出し、一気に楽曲の世界観に引きずり込む。私は最初の一撃でノックアウトされた(笑)。そして、続くメッセージはあえて脚韻を外して強調するが、同じ旋律をリフレインすることによって外したフレーズ同士も脚韻を踏ませて、韻文詩として完成させる。100点満点、いや、それ以上だ!
 
 使われているテクニックはBUCK-TICKの「New World」とほぼ同じだが、逆にそのことが韻律の効果の普遍性を表していると言えるだろう。正直、この曲は、久しぶりに最近のアーティストの曲にどハマりできたことが嬉しくて紹介したかっただけなのだが、こんな思わぬ発見があって驚いている。
 
 こうした韻律の与える印象に注目すれば、「上昇」の第1連をサビとみなす解釈は、確かに「あり」かもしれない。
 

韻文としての完成度と翻訳としての完成度のどちらを取るか

 
 韻律がもたらす効果を見定めた上で、それをここぞという箇所の翻訳に取り入れることは、まさに翻訳家の腕の見せどころである。とはいえ、ひらめいたアイディアをなんでもそのまま訳文に反映していいかというと、そうはいかないのが翻訳の難しいところだ。
 
 今回の「上昇」でも、韻文としての完成度を追求しようとするなら、たとえば第3連の「雄々しき愉悦(mâle volupté)」のvolupté(愉悦)を「快感」に変えるとか、「陽気に軌跡を刻む(sillonnes gaiement)」のgaiement(陽気に)を「欣然(きんぜん)と」に変えるとか、まだ打てる手はあった。だが、そうしてしまうと、「読者に」の「陽気に帰ってくる(rentrons gaiement*1)」や、「祝福」の「聖なる愉悦(saintes voluptés*2)」との統一性がなくなってしまうので、泣く泣く諦めることにした。
 
 当然のことかもしれないが、私の新訳では、同じ単語には可能な限り同じ訳語をあてるようにしている。「読者に」の解説にも書いたとおり、この新訳はもともとスタンダードな翻訳をめざしてはじめたものだからだ。
 
「スタンダードな翻訳」とは、原文に書いてあるとおりに訳してある翻訳のことである。原文に書いてあるとおりに訳すには、基本的に同じ単語は同じ日本語に訳されていなければおかしい。もちろん、たとえばフランス語には名詞の前につくか後ろにつくかで意味が変わる形容詞もあるので、訳し分けなければならない理由があるなら話は別だ。だが、「韻文に訳すこと」は、私は現時点では「訳し分けなければならない理由」に含めていいとは考えていない。
 
 では、先ほど例示した箇所をほかの訳者がどう訳しているか見てみよう。引用に際しては、「読者に」の「陽気に帰ってくる(rentrons gaiement)」を①、「上昇」の「陽気に軌跡を刻む(sillonnes gaiement)」を②、「祝福」の「聖なる愉悦(saintes voluptés)」を③、「上昇」の「雄々しき愉悦(mâle volupté)」を④とする。
 
悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。文芸社刊の私の旧訳は平岡旧訳と略記する。
 

堀口訳 ①「いい気になって、(中略)引返す」(p.23) ②「嘻々として、(中略)経めぐるよ」(p.35) ③「聖なる歓喜」(p.32) ④「男々しさの快楽」(p.35)
 
鈴木訳 ①「浮き浮きと(中略)舞戻る」(p.19) ②「長々と迹を印して 欣然と飛ぶ」(p.34) ③「神聖な逸樂」(p.29) ④「男性的の(改行)歡樂」(p.34)
 
安藤訳 ①「意気揚々と立ち戻る」(p.11) ②「楽しげに澪を引き」(p.24) ③「聖なるよろこび」(p.20) ④「男らしい快楽」(p.24)
 
阿部訳 ①「浮き浮きと、(中略)舞いもどる」(p.29) ②「心晴れ晴れと、(中略)ひと筋の尾を引く」(p.40) ③「神聖なる逸楽」(p.37) ④「雄々しい逸楽」(p.41)

 
 こうして並べてみると、「開けてはいけない箱を開けてしまった」感が大きい。明白な誤訳は堀口訳の「いい気になって」だけとはいえ、訳語が統一されているのが阿部訳の「逸楽」だけというのは、あまりにも自由奔放すぎるのではないか。私の見る限り、既存の邦訳のなかで訳語の統一を意識していたことが窺えるのは阿部良雄訳だけだ。
 
 仏和辞典も確認しておこう。『プチ・ロワイヤル仏和(第4版)・和仏(第3版)辞典』によれば、gaiementは「陽気に/快活に/楽しげに」、voluptéは「逸楽/快楽/性的快楽」という意味で使われる語である。voluptéのほうは文語であり、硬めの日本語に訳す必要があるため、私は「愉悦」という語をあてることにした。
 

ボードレールの文体を求めて

 
 今回例示した箇所では大きな問題はなさそうだが、概念を厳密に定義しながら訳していかないと、原文の微妙なニュアンスを取りこぼしてしまう恐れがある。
 
 先ほどの引用では、副詞のgaiementの訳語の多様さが際立っている。しかし、たとえば同じテキストにjoyeusement(喜んで)やplaisamment(愉快に)やagréablement(気持ちよく)といった意味の近い副詞が出てきた場合、それらをいかに訳し分けるかという問題が生じる。
 
 無論、異なる単語が用いられている以上は別々の訳語をあてなければならない。しかし、長文の場合に、一度それぞれの単語に割り当てた訳語が途中で入れ替わったりしてはおかしいので、この割り当ても慎重に検討する必要がある。翻訳者は、こうした類義語の訳し分けもつねに意識しながら翻訳を進めなければならない。
 
 このレベルの厳密さに基づいて判定するなら、堀口訳の「嘻々として」はjoyeusementとの区別が、阿部訳の「心晴れ晴れと」はsereinement(晴朗に)との区別が怪しくなるため、避けたほうがいいことになるだろう。実は阿部訳の場合、「祝福」のなかに「〈詩人〉は心も晴れ晴れと」(阿部訳,p.37)という表現が出てくる。そこは原文では「Le Poëte serein」*3となっており、sereinはsereinementの形容詞形だから、なんとほんとうに区別できていないのだ。
 
 sereinは「上昇」にも出てくる。参考までにそちらの訳語比較もしておこう。引用にあたっては、「祝福」の「晴朗なる詩人(Le Poëte serein)」を⑤、「上昇」の「光射す晴朗な領野(les champs lumineux et sereins)」を⑥とする。
 

堀口訳 ⑤「澄んだ心の「詩人」」(p.31) ⑥「光明と静謐のかの天空」(p.36)
 
鈴木訳 ⑤「淸純な詩人」(p.29) ⑥「光彩の陸離たれども(改行)澄み渡る境地」(p.35)
 
安藤訳 ⑤「「詩人」は心静かに」(p.19) ⑥「輝かしく晴れわたる野づら」(p.25)
 
阿部訳 ⑤「〈詩人〉は心も晴れ晴れと」(p.37) ⑥「かがやかしく晴れ晴れとひろがる境地」(p.41)

 
 こちらもしっかり辞書を確認しておこう。前掲の仏和辞典によれば、sereinには「平静な/心静かな」と「(天候が)澄んで静かな/晴朗な」という2つの用法が載っている。いずれの用法においても「静かなこと/騒々しくないこと」という意味は共通しているので、gaiementやその形容詞形であるgai(陽気な/快活な)とはそれほど意味の近い言葉でもないことがわかる。日本語では「気分が明るいこと」と「天気が晴れていること」を両方とも「晴れやか」と表現できるため、意味が近いと錯覚しているにすぎないのだ。こうした比喩がもとになった慣用表現は、そもそも翻訳に使用できるかどうかも含めて、使用には慎重な検討が必要である。
 
 上に引用した既訳には誤訳とまで言えるものはないが(堀口の「天空」は微妙だが)、類義語との訳し分けを考慮するなら、やはり問題なしとは言いがたい。理想の翻訳とは、そのまま再度原文に翻訳できる文章であると考えれば、ほかの単語と混同されることなく的確にsereinに訳し直すことができる訳語が選ばれているものは、もしかするとないかもしれない。
 
 人のことばかり悪く言うのはアンフェアなので、恥を忍んで私自身の旧訳も挙げておくことにしよう。一言だけ弁解させていただくなら、幸い誤訳はなかったようだ。
 

平岡旧訳 ①「嬉々として(中略)舞い戻る」(p.13) ②「楽しげに翔けまわる」(p.26) ③「神聖なる逸楽」(p.22) ④「雄々しき愉悦」(p.26) ⑤「詩人は心も晴れやかに」(p.22) ⑥「光り輝く安息の境地」(p.26)

 
 こうなってしまった原因は、言うまでもなく行き当たりばったりに訳していたからだ。これを避けるには、地道に単語帳を作っていくしかない。今回私は、Excelで訳語リストを作成しながら翻訳を進めている。ゆくゆくは、リストを確認しさえすればなにも考えなくても訳文ができ上がるようになる予定なのだが、ほんとうにそううまくいくかどうかは、今後の積み重ね次第である。
 
 この地道な作業によってしか、ボードレールの文体というものに近づくことはできないと私は考えている。