平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ひどい翻訳の見本――ボードレール『悪の華』堀口大學訳「信天翁(あほうどり)」全文解説

 シャルル・ボードレール生誕200周年を機に『悪の華1861年版)』の韻文訳に取りかかり、前回「アホウドリ」の新訳のために改めて「L’ALBATROS」の原文を読み直した。この詩は初版の1857年版には収録されていないため、しっかりとすみずみまで読んだのは今回がはじめてである。
 

 
 新訳にあたっては、参考にするため既存の邦訳も精読することになる。すると、どうしても過去の翻訳にある間違いや欠陥が目についてしまう。私自身の旧訳でもそうなのだ。以前にも書いたことだが、誤訳はどんな翻訳にもある。だから、以前に書いた記事でも、たんなるミスを執拗に非難したりはしないようにしてきたつもりだ。
 
 しかしながら、悪質な翻訳が存在することも事実だ。堀口大學訳の『悪の華』である。堀口訳には、ただの誤訳とはとても言えない原詩の改竄や、勝手な脚色が無数に存在することは、以前からさんざん書いてきたとおりだ。
 


 
 とはいえ、これまでざっくりした試算を提示したことはあったけれども、堀口大學訳の詩作品1篇あたりに、いったいいくつ誤訳があるのかきちんと数えてみたことはなかった。いい機会なので、今回は堀口訳の「信天翁」の全文をすみずみまでチェックしてみることにしよう。
 
 先に結論を言えば、堀口大學の「信天翁」には、たった16行しかない詩行のうち13行に欠陥がある(箇所で言えばもっとある)。ひどいのはわかっていたが、正直ここまでとは思わなかった。この欠陥には、先ほどの原詩の改竄や勝手な脚色に加え、語句の訳し忘れも多かった。だが、後述するように、私は語句の欠落は訳し忘れではなく、無理やり七五調の訳文にするために堀口がわざと削ったのではないかと疑っている。これは到底翻訳と呼べるようなものではない。堀口大學の「信天翁」を読んでも、決してボードレールの「L’ALBATROS」を読んだことにはならない。
 
 点数をつけるなら0点と言いたいところだが、これほどひどい「翻訳」でもあらすじくらいはわかるので、100点満点中の30点くらいだろうか。もちろん、これがフランス語の長文読解テストの答案だとすれば、単位などもらえるわけがない。私の見る限り、この詩にボードレールが凝らしていた趣向は、ものの見事にすべて殺されてしまっている。
 
悪の華』の既存の邦訳の引用にあたっては、新潮文庫堀口大學訳を堀口訳、岩波文庫鈴木信太郎訳を鈴木訳、集英社文庫安藤元雄訳を安藤訳、ちくま文庫阿部良雄訳を阿部訳と略記する。それでは、どこがどうおかしいのか全部説明しよう。
 

最初のシーンからいきなりおかしい

 
 第1連から順番に読んでいこう。

しばしばよ、なぐさめに、船人ら、
信天翁生捕るよ、
潮路の船に追いすがる
のどけき旅の道づれの海の巨鳥。
(堀口訳,p.33)

Souvent, pour s’amuser, les hommes d’équipage
Prennent des albatros, vastes oiseaux des mers,
Qui suivent, indolents compagnons de voyage,
Le navire glissant sur les gouffres amers.

Les Fleurs du mal/1861/L’Albatros - Wikisource

 
 引用ではルビを省略しているためわからないが、ひらがな書きにしてみると、堀口訳は七五調になっていることがよくわかる。
 

しばしばよ、なぐさめに、ふなびとら、
あほうどり いけどるよ、
しおじのふねに おいすがる
のどけきたびの みちづれの うみのおおどり。

 
 こうして見ると、堀口訳の特徴である語尾の「よ」の多用は、七五調のリズムを取るための「拍子」だということがわかる。文字どおりの「堀口節」である。「L’ALBATROS」がしばしば『悪の華』を代表する詩とみなされているように、この「信天翁」も堀口大學の『悪の華』を代表する作品とみなして差し支えないだろう。
 
 もちろん、うまくできているなら七五調に訳すこと自体にはなんの問題もない。だが、残念ながらこの翻訳はそうではない。最初の2行はいいとして、3行めの「潮路の船に」に対応する原文「Le navire glissant sur les gouffres amers」を語順どおり確認すると、これはLe navire(船)、glissant(滑る)、sur(上を)、les gouffres(淵/渦潮)、amers(苦い)となる。ここは改変と判定すべきか抄訳と判定すべきか迷うところだ。
 
 最大限甘く採点して「潮路の船に」をles gouffresまでの意訳とみなしたとしても、やはりamersは欠けていることになる。だが、このamersが重要なのだ。堀口訳の場合、続く「のどけき旅の道づれの」とあいまって、順風満帆な船旅をイメージしてしまうと思うのだが、このシーンで描かれているのは、渦潮(les gouffres)をやりすごして進む(glissant)ような「amers(苦しい)」航海である。つまり、映画で言えば最初からいきなりまったく違うシーンからはじまってしまっているのだ。
 
 おかしいのはそれだけではない。続く「のどけき旅の道づれの」の「のどけき」にあたる原語はindolentsなのだが、原文を見ればわかるとおり、この語は「旅(voyage)」ではなく「道づれ(compagnons)」を修飾する形容詞である(複数形のsに注目)。堀口訳の場合、七五調のリズムともあいまって、「のどけき」は「旅」を修飾しているようにしか読めないのではないか(ちなみに「のどけき」は漢字では「長閑けき」と表記する)。「道づれ」を修飾していると読ませたいのなら、「旅の」と「道づれ」のあいだに七五調の区切りを入れるべきではない。
 
 では、indolentとはどういう意味の形容詞なのだろうか。『プチ・ロワイヤル仏和(第4版)・和仏(第3版)辞典』には「ものぐさな/無気力な」という意味が載っているが、堀口訳以外の既存の邦訳は、鈴木信太郎は「呑氣な」(鈴木訳,p.32)、安藤元雄は「のんきな」(安藤訳,p.22)、阿部良雄は「気ままな」(阿部訳,p.39)と訳している。となると、全部誤訳だったということだろうか?
 
 念のため仏仏辞典にもあたってみよう。2006年版『LE ROBERT MICRO』によれば、「Qui évite de faire des efforts(努力しようとしないこと)」という説明とともに、類義語としてnonchalantという単語が挙げられている。こちらを仏和辞典で引くと、「無頓着な/のんきな/のんびりした」とある。よって、indolentは「ぐうたらな/やる気のない」というニュアンスの言葉であることがわかるだろう。したがって、引用部のindolentsは、「船乗りの苦労を気にかけて協力しようとしない」という意味になると解釈できる。以上をふまえるなら、鈴木訳と安藤訳はギリギリセーフだが、堀口訳と阿部訳はアウトである(おそらく阿部は「気まま」という言葉の意味を誤解している)。
 
 実は、この語をどう訳すかは「L’ALBATROS」の翻訳における最大の難問である。というのも、この語をあまりにネガティブな日本語に訳してしまうと、アホウドリが捕まるまえとあとのコントラストが弱まってしまうからだ。鈴木訳と安藤訳は、それを避けるための苦肉の策だったとも考えられる。私自身も、悩んだ末「(悪い意味での)のんびり屋の」という訳語をひねり出した。
 

語句の欠落はたんなるミスか確信犯か

 
 続いて、第2連を読んでいこう。
 

青ぞらの王者の鳥も
いま甲板に据えられて、
恥さらす姿も哀れ、両脇に、
白妙の両の翼の、邪魔げなる、櫂と似たりな。
(堀口訳,p.34)

À peine les ont-ils déposés sur les planches,
Que ces rois de l’azur, maladroits et honteux,
Laissent piteusement leurs grandes ailes blanches
Comme des avirons traîner à côté d’eux.

Les Fleurs du mal/1861/L’Albatros - Wikisource

 
 堀口訳を読んでも絶対にわからないことだが、この連の翻訳にはすべての行に語句の訳し忘れがある。原文の順に指摘すると、1行めはÀ peine(…するとすぐに)、2行めはmaladroits(不器用な)、3行めはLaissent(そのままにしておく)とgrandes(大きな)、4行めはtraîner(引きずる)が抜けている。訳文にこれだけ欠落があると、うっかりミスではなく、意図的な省略ではないかという疑念が生じてくる。
 
 私は、以上の語句は七五調にするために堀口が意図して削除したのだろうとみている。だとすれば言語道断である。よけいなことかもしれないが、堀口が削った5つの語句は、それぞれ「たちまちに(À peine)」、「不器用に(maladroits)」、「ままなるさまの(Laissent)」、「大いなる(grandes)」、「引きずりし(traîner)」とでも訳せば、七五調のリズムを崩さずに堀口訳に組み入れることができる。ちょっとやってみよう。
 

青ぞらの王者の鳥も
いま甲板に据えられてたちまちに
不器用に恥さらす姿も哀れ、両脇に、
大いなる白妙の両の翼の、引きずりしままなるさまの、櫂と似たりな。

 
 こうすれば、七五調の翻訳にするために先ほどの語句を削る必要はまったくないことがわかる。とはいえ、À peineとLaissentを訳していない訳者はほかにもいるので、その点については堀口ばかりを責めるわけにはいかない。
 

動かないアホウドリはモノマネのしようがない

 
 もっとも、堀口訳の第2連4行めの「邪魔げなる」はtraînerの意訳ととれなくもない。しかし、第3連とのつながりを考慮すれば、この語を堀口のように意訳するべきでないことは明白である。ということで、第3連の解説に移ろう。
 

天翔けるこの旅人の、ああ、さても、さま変れるよ!
麗わしかりしこの鳥の、ああ、なんと、醜くも、おかしきことよ!
一にんは、パイプもて、嘴こづき、
他は真似つ、足なえの片輪の鳥を!
(堀口訳,p.34)

Ce voyageur ailé, comme il est gauche et veule !
Lui, naguère si beau, qu’il est comique et laid !
L’un agace son bec avec un brûle-gueule,
L’autre mime, en boitant, l’infirme qui volait !

Les Fleurs du mal/1861/L’Albatros - Wikisource

 
 第2連のtraînerとの関係で重要なのは4行めの「L’autre mime, en boitant」である。堀口訳ではきちんと訳されていないが、ここは「別の人は(L’autre)、足を引きずるようにして歩いて(en boitant)、(アホウドリの)真似をする(mime)」という意味だ。前回解説したとおり、ここで船人がどんなふうに歩いてアホウドリを真似したかを想像するためのキーワードとなるのが、第2連のtraîner(引きずる)なのである。
 
 ちなみに、現実のアホウドリが地上を歩くときは当然羽をたたんでいるので、翼を引きずって歩くことはまずない。したがって、この連で描かれるアホウドリの醜態は、ボードレールの想像の産物であり、詩人の戯画として描かれた姿にほかならないと私は解釈している。つまり、アホウドリの生態を知っていても、「L’autre」がどんな歩き方をしたかを想像することは不可能なのだ。だからこそ、ここでアホウドリがどのような身ぶりをしたのかは、的確に訳されていなければならない。
 
 にもかかわらず、堀口訳の第2連で描かれたアホウドリは、なんと動いてすらいないではないか。これでは、たとえ堀口訳の第3連で船人がちゃんと足を引きずるようにして歩いていたとしても、それがなぜアホウドリの真似をしていることになるのか理解不能である。だから訳されていない、ということなのだろう。
 
 第2連で、大きな翼をオールのように両脇に引きずったまま歩くアホウドリを、第3連の船人がどんなふうにモノマネして歩いたと考えられるかは、前回の「アホウドリ」の解説のとおりである。堀口は、第2連の不適切な意訳をごまかすために第3連でも不適切な意訳を重ね、ボードレールが凝らした、たいして複雑でもない趣向をものの見事に台なしにしてしまっている。これをただのミスとみなすことは到底できない。
 

無理やり七五調にしようとしたことによる失敗の数々

 
 第3連の堀口訳で目立つのは、無理やり七五調にしようとしたことによる失敗である。
 
 前回のおさらいだが、堀口訳の1行めと2行めにある「ああ、」は原文には存在しない。これは意訳でも説明の挿入でもない、たんなる脚色であり、翻訳では絶対にやってはいけないことである。そしておそらく、堀口がそこに「ああ、」を加えた理由も、それぞれ続く「さても」と「なんと」とあわせて五音にするためだろうと思われる。
 
 原文1行めの「il est gauche et veule !(不格好で自堕落に!)」が「さま変れるよ!」などと訳されている理由も、そこに着目してはじめて理解できる。きっと七音にしたかったのだろう。だが、こうした身勝手な原文の改変も、翻訳では絶対にやってはいけないことである。
 
 無理に五音か七音にしようとしておかしな訳文になっているところはまだある。3行めのL’unが「一人(ひとり)は」ではなく「一(いち)にんは」と訳されているのはそのためだし、続く4行めのL’autre mimeが「他(た)は真似つ」と訳されているのもそうだろう。だが、堀口訳の対比では、L’unとL’autreはそれぞれ「船人らのうちの一人」と「L’un以外の船人全員」という意味になってしまう。五音に気づかなければ、ひょっとして日本語まで不自由だったのかと疑うところだった。言うまでもないことだが、L’autreは「L’unとは別の船人」という意味である。
 
 そして、この連の翻訳にも語句の欠落は存在する。2行めのsi(あんなに)と4行めのqui volait(飛んでいた)がそうである(2行めのnaguère(先ほどまで)はギリギリセーフ)。これほど語句の欠落が続けば、もはや意図的な省略を疑うほかないだろう。その理由も、たんなる堀口の好みではないとすれば、七五調にするための調整以外には考えられない。
 

翻訳に翻訳者の感想を書き込んではいけない

 
 第3連の堀口訳で問題ないのは3行めだけだった。ここまで問題ない行はたった3行しかなかったが、最後の第4連はどうだろうか。
 

詩人も、哀れ似たりな、この空の王者の鳥と、
時を得て嵐とあそび、猟夫が矢玉あざけるも
罵詈満つる俗世の地に下り立てば
仇しやな、巨人の翼、人の世の行路の邪魔よ。
(堀口訳,p.34)

Le Poëte est semblable au prince des nuées
Qui hante la tempête et se rit de l’archer ;
Exilé sur le sol au milieu des huées,
Ses ailes de géant l’empêchent de marcher.

Les Fleurs du mal/1861/L’Albatros - Wikisource

 
 第4連の堀口訳で顕著なのは、原文にない語句の挿入の多さである。これも堀口訳だけを読んで気づくことは絶対に不可能だろう。順番に指摘すると、1行めの「哀れ」と「の鳥」、2行めの「時を得て」と「矢玉」、3行めの「俗世の」、4行めの「仇しやな」と「人の世の」が、原文には対応する語のない、堀口によって挿入された語句である。この語句の挿入の多さの理由も、脚色というよりは七五調にしたいという理由のほうが大きいのではないかと私はみている。
 
 こうした原文にない語句の挿入のすべてに問題があるわけではない。私自身も、これまでの新訳で、説明の挿入や、描写の補足や、ニュアンスの強調のために原文にない語句を書き加えている。もちろん、原文にない語句の挿入は、しなくても済むのならしないほうがいいに決まっている。だが、わかりやすさや、日本語としての自然さや美しさを追求しようとすれば、どうしても必要になることだと私は考えている。
 
 では、堀口訳の場合はどうだろうか。私の基準に照らして最も見過ごせないのは、1行めの「哀れ」である。これは、説明の挿入でも、描写の補足でも、ニュアンスの強調でもない、ただの堀口の感想であるとしか私には思えない。しかもこの第4連では、前半の2行の「prince des nuées(雲上の貴公子)」たるアホウドリの描写と、後半の2行の「Exilé sur le sol(地に墜ちた)」アホウドリの描写とのあいだに明確なコントラストがある。その点からも、失墜する以前のアホウドリの描写に「哀れ」という訳者の感想を書き加えることの見当違いさは明白だろう。
 
 ということは、4行めの「仇しやな」も同じ理由で不適切だということになるだろうか。不適切という評価でかまわない気もするが、この表現は、「巨人の翼(ailes de géant)」がアホウドリが歩くのを「empêchent(邪魔する)」という、描写の補足やニュアンスの強調ととらえられなくもないので、私はOKでもいいのではないかと考えている。
 
「そんなものは翻訳者が勝手に決めた基準じゃないか」と言われてしまえば、そのとおりである。それに対しては、「私自身はこの基準でやっています」と答えるほかない。堀口がどうだったかは知らないが。
 

寓意詩の翻訳に翻訳者の解釈を書き込みすぎてはいけない

 
 堀口による原文にない語句の挿入では、3行めの「俗世の」と4行めの「人の世の」にも問題がある。アホウドリ」は寓意詩として広く知られているが、シーンとしては最初から最後までアホウドリのことしか描かれていない。にもかかわらず、堀口訳の場合、これらの語句が書き加えられたせいで、3行め以降は人間の詩人のことを描写しているように読めてしまうのではないだろうか。「巨人の翼」という表現こそあるものの、ここでアホウドリが「人の世の」行路に難儀していると読むのは無理があるように思う。
 
 もちろん、ここで描かれているアホウドリの姿が、俗世間のなかで生きる詩人の姿の寓意であることは衆目の一致するところだろう。しかし、だからといって、それを暗示する寓意詩の翻訳に、ここまで踏み込んだ翻訳者の解釈を書き込んでしまうのは、無粋の極みというものではないか。堀口訳の場合、寓意を読み解くヒントどころか、答えまで書かれてしまっているに等しい。
 
 寓意詩としてのでき映えということで言えば、「空の王者の鳥」の「の鳥」もまずい。先ほどもふれたとおり、原文は「prince des nuées(雲上の貴公子)」なので、この訳はそもそも間違いなのだが、この箇所以外にも、第2連の「青ぞらの王者の鳥(rois de l’azur)」、第3連の「片輪の鳥(l’infirme)」と、3回にわたってアホウドリの比喩に原文にない「の鳥」が書き加えられている(ちなみに「の鳥」は「oiseaux des」)。七五調にするための追加であることは明白だが、3度も同じ手を使って音数を調節するというのは、文章表現のテクニックとして稚拙である。
 
 同じような表現が何度も出てくると文章のレベルが低下する。これだけ短い詩ならなおさらだ。アホウドリが鳥だということは何度も言われなくたってみんな知っている。同じことは、先ほどの「俗世の」と「人の世の」にも、「青ぞらの王者の鳥」の「王者(rois)」と「空の王者の鳥」の「王者(prince)」にも言える。前者は、どうしても書き加えたいならどちらか1回で充分だし、後者のrois(王)とprince(王子)は別々の単語なのだから、当然別々の訳語をあてるべきである。ちなみにroisとprinceについては、なぜか阿部良雄も両方とも「王者」(阿部訳,pp.39-40)と訳している。
 
 ここまで書いたのだから、おかしいと思うことはみんな言ってしまおう。第4連2行めのhante(出没する/つきまとう)が「とあそび」と訳されているのも、第4連3行めのExilé(追放する)が「下り立てば」と訳されているのも、原語のニュアンスを無視した不適切な翻訳である。この連には語句の欠落はないようだが、第3連までにあれだけあったことを考えると、逆に不自然に感じてしまう。なにより、語句を削らなくても翻訳できるなら、なぜほかの連もそうしなかったのかという疑念はふくらむばかりだ。残念ながら、第4連も全滅である。
 
 まとめよう。全文を詳細に点検した結果、堀口大學訳の「信天翁」で問題ないと言える行は、第1連の1行めと2行め、第3連の3行めの、計3行だけである。たった16行しかない詩にもかかわらず、まともに訳されている行が3行しかないというのは問題外もいいところである。無論、箇所で言えばおかしいところはそれ以上あるが、もはや数えるまでもないだろう。
 
悪の華1861年版)』だけで127篇、裁判で有罪になって削除された6篇を加えて133篇の詩があるから、単純に×13してみても、堀口訳にはおよそ1,700箇所はおかしいところがある計算になる。恐ろしいことに、実際にはそれ以上あることは確実である。
 
 最後にもう一度くり返そう。こんなものはボードレールの翻訳ではない。堀口大學訳の『悪の華』を読んでも、決してボードレールを読んだことにはならない。
 

補遺:七五調の名訳――上田敏訳「信天翁(おきのたゆう)」

 
 ボードレールの詩の七五調の翻訳には、上田敏(びん)という偉大なる先駆者がいる。もっとも、ボードレールはこの上田の訳詩集『海潮音』(1905年)によってはじめて日本に紹介されたのだから、正しくは紹介者と呼ぶべきだろう。
 
 同書において、上田が一番最初に紹介しているボードレールの詩が「信天翁」である。つまり、「L’ALBATROS」は日本人にはじめて読まれたボードレールの詩でもあるということだ。今回、堀口批判のダシにでもしようという邪な気持ちで再読したのだが、上田訳の完成度の高さに度肝を抜かれてしまった。
 
 第1連だけ紹介しよう。続きは青空文庫で読める。
 

波路遙けき徒然の慰草と船人は、
八重の潮路の海鳥の沖の太夫を生檎りぬ、
楫の枕のよき友よ心閑けき飛鳥かな、
潮騒すべりゆく舷近くむれ集ふ。

上田敏 上田敏訳 海潮音

 
 これをひらがな書きに直すと、なにがすごいのかは一目瞭然である。
 

なみじはるけき つれづれの なぐさめぐさと ふなびとは、
やえのしおじの うみどりの おきのたゆうを いけどりぬ、
かじのまくらの よきともよ こころのどけき ひちょうかな、
おきつしおざい すべりゆく ふなばたちかく むれつどう。

 
 なんと、すべての行の音数が同じであり、かつ同じリズムになっているのだ。しかも、最初の七音はさらに三音と四音に分かれ、続く五音とあわせて三、四、五のリズムで読むことができる。恐るべきことだ。この音とリズムをそろえるという発想は、フランス韻文詩への深い造詣がなければ絶対に出てこない。無論、翻訳として問題のある箇所は多い。だが、ここまでやられてしまうと、ケチをつけるほうが無粋というものだろう。
 
 なにより、上田敏訳は詩以外のなにものでもない。凡百の散文訳ではこうはいかない。最初の翻訳にしてここまでの完成度を見せつけられたのでは、あとに続く翻訳者にとっては悪夢でしかないが、私自身もこのような翻訳をめざしていきたい。