平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

哲学を捨てる勇気――國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を読む2

 前回は、哲学者の國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)第Ⅲ章までのドゥルーズ論を読んできたので、今回は第Ⅳ章以降のドゥルーズ=ガタリ論を読んでいくことにしよう。
 

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

 
 今回もずいぶん更新に時間がかかってしまった。時間がかかった理由は、書いているうちにだんだんどうでもよくなってきて、途中で何度も放り出しそうになったからである。考えれば考えるほど、國分の解説がドゥルーズの哲学の理解としておかしかろうが、それ以前にものの考え方としておかしかろうが、どうでもいいことじゃないかという気がしてくる。だいたいの読者はそんなことには気づかずに、勝手になにかをやる気になったり、勇気をもらったりしているのだから、そういう人たちがこの本を読んでなにか有意義な仕事に取りかかるのなら、本書は十分に意義のある仕事だったと言えるだろう。ただ、私にとってはそうではなかったというだけのことだ。
 
 これを書いているあいだ、「こんなことを考えている暇があるなら、もっと有意義なことに時間を使ったほうがいいんじゃないか」という疑問がずっと頭から離れなかった。本書で國分がしていることは、けっきょくのところ問題を的確に把握するための準備でしかない。そしてここで私がしているのは、その準備が不十分だとひたすらケチをつけることだけだ。こんなことをしていてもいかなる問題についての考察も深まらないし、いつまで経ってもなにもできない。誤解のないように断っておくけれども、記事のタイトルにした「哲学を捨てる勇気」とは、國分の『ドゥルーズの哲学原理』に対する論評ではない。いま私に必要だと感じているものである。
 
 それでも、どう読むのが正しいのか自分の頭で考えて判断したいという気がある人は、以下の議論につきあってほしい。せっかく書いた記事だし、読んでもらえれば私も嬉しい。私としてはけっこういいところを突いていると思うのだが、どうだろうか?
 

「二人で書く」という実験とはなんの方法か

 
ドゥルーズの哲学原理』を読み進めながら、私は章と章のあいだの議論のつながりがわかりにくさにしばしばてこずらされた。個々の章をそれぞれ独立した論考として読めばおもしろく読めるのだが、それが以前の章や以降の章の議論とどう関係しているのかを考え出すと、とたんにわからなくなるのだ。
 
 だから、國分によるドゥルーズ=ガタリ論がはじまる第Ⅳ章の冒頭でも、さっそく私は躓くことになってしまった。わからなかったのは、ドゥルーズガタリとともに行った「二人で書く」という実験の説明である。
 

 ドゥルーズは「ガタリの思想」の外側にいて、それを観察者として眺め、報告しているのではない。自由間接話法を用いて哲学者を論じていた時のように、語っているドゥルーズは語られる側にあるガタリに生成変化している。だからこそ、まさしく二人が言っていたように、「私」と言うか言わないかは、もはや全く重要ではないのだ。どこをドゥルーズが、どこをガタリが書いたのか、という臆測は全く意味がない。こう見ていくと、「二人で書く」という実験はドゥルーズのそれまでの方法をより過激にすることで生み出された、と言うことができるように思われる。*1

 
 私が引っかかったのは、この「ドゥルーズのそれまでの方法をより過激に」したという「二人で書く」という実験とは、なんの方法なのかという疑問である。奇妙なことに、第Ⅳ章では、自由間接話法は「ドゥルーズの著作の方法」*2であると説明されている。ということは、たんなる本の書き方のことだろうか? 國分の解説を読む限り、「二人で書く」ことのうちの「書くこと」に関しては、ドゥルーズの方法が応用して用いられたと主張しているようにも読める。それとも、第Ⅰ章での主張にしたがい、國分は、「二人で書く」という実験は、ドゥルーズ=ガタリによる独自の思考の方法であると主張していると理解していいのだろうか? そうでなければおかしいとは思うけれども、困ったことに、はっきりそう書いてあるわけではないので判断がむずかしい。
 
 それに加えて、國分は一貫して「二人で書く」という「方法」ではなく、「二人で書く」という「実験」という表現を採用している。これは明らかに意図したものだろう。そして、この「二人で書く」という実験は、一方ではドゥルーズの思考の方法である自由間接話法を発展させたものであるとして対比されているにもかかわらず、この「「二人で書く」という実験」という表現は、ドゥルーズ=ガタリの「私たち」を主語にして語られるあの難解至極な文体だけでなく、ドゥルーズ=ガタリの協働作業全体を指す表現として用いられている。これも明らかに意図したものだろう。だが、この区別のあいまいさは、本書の議論のつながりを理解する障害となっている。こうした文章表現上の配慮は、國分が「二人で書く」ことを方法として定式化することを避けるために行ったものではないかと思われるが、だとすれば、それはどうしてなのだろう? なにが國分を躊躇させているのだろう?
 
 ドゥルーズ=ガタリによる「二人で書く」という実験が、実際にはどのような作業であったのかは、本書でちゃんと説明されている。ドゥルーズは、ガタリに毎朝自分の考えをメモし、それを自分に送るように依頼する。ドゥルーズは送られてきたメモを読んで原稿にまとめる。そして、ドゥルーズがまとめた原稿を最後に二人で推敲して、決定稿が完成する。『アンチ・オイディプス』(1972年)はそのようにして書かれたそうだ。*3國分の説明を読むと、なにかとてつもないことが行われたような印象を受けるけれども、執筆の方法そのものに特別視しなければならないようなところはなにもない。ただガタリのアイディアをドゥルーズが整理して文章にまとめただけだ。最後にちゃんと二人で確認しながら推敲し、二人ともでき上がった本の内容に納得しているのだから、この本を二人で書いたと言うのはあたりまえである。「二人で書く」ということの意味は、それ以上でもそれ以下でもないと私は考える。
 
 もちろん、それだけで十分すごいことだ。たとえば、國分に宇野常寛と同じことをしてくれと言ってもたぶん無理だろう。東浩紀はもっとダメだ。問題外だ。いや、ひょっとすると千葉雅也とならなんとかなるかもしれない。冗談はいい加減にして話を戻そう。
 
 言うまでもなく、私は「二人で書く」という実験が思考の方法であるとはまったく思わない。なぜなら、「二人で書く」ことについても、自由間接話法について言ったのとまったく同じことが言えるからだ。すなわち、ドゥルーズガタリと思考のイメージを共有できていたからこそ、あるいはガタリに生成変化できていたからこそ「二人で書く」ことができたのであり、「二人で書く」ことはドゥルーズガタリの思考のイメージに到達するための方法でも、ドゥルーズガタリに生成変化するための方法でもない。事実、國分も引用部で「二人で書く」ことはドゥルーズガタリに生成変化するための方法だとは書いていない。そう考えているのかもしれないが、はっきりそう書いてはいない。だからよけいにわからなくなるのだ。
 
 もう一度くり返そう。「二人で書く」という実験とは、なんの方法なのだろうか? 「二人で書く」ということに、ドゥルーズガタリの、ガタリドゥルーズの考えを参考にしてみずからの考えを発展させたという以上の意味があるのだろうか? 國分の説明にそれ以上の含意がほのめかされているのは明らかだろう。そうでなければわざわざ「エクリチュールの実験」*4などという言い方はしない。エクリチュールとは書き言葉のことだが、その書き言葉の実験というなにか特殊な書き方をすることによって、ふつうの書き方をしたとき以上の特別な効果がつけ加わったとでも言うのだろうか? だとすれば、それはなんなのか? 私がわからないのはそこなのだ。そしてここでも、「二人で書く」という実験なるものが、なんらかの特殊な文章の書き方のみを意味するのか、それともドゥルーズ=ガタリの協働作業全体を意味するのかがあいまいなことが、理解の妨げとなっている。
 
 先ほど見た「二人で書く」作業のなかで、ドゥルーズ=ガタリの思考の方法と呼べるものがあるとすれば、それはお互いの書いたものをよく読むことと、その内容について二人で十分に話しあうことくらいだろう。もちろん、二人の協働作業全体を思考の方法であると強弁することはできるけれども、それでは思考の方法についてなにも明らかにしたことにはならない。しつこいようだがもう一度くり返そう。「二人で書く」という実験とは、それ以上のなにか特別なことをすることなのだろうか?
 
 キリがないので、「二人で書く」ことについてはこれくらいにして次の話題に移ろう。次に考える問題のほうが大事だ。
 

分裂分析は「失敗を目指す」実践の理論を乗り越えたか

 
 國分は、ドゥルーズ=ガタリが提唱する分裂分析という実践の理論によって、ドゥルーズの「失敗を目指す」実践の理論は乗り越えられたと考えているようなのだが、どうしてそんな考えになるのか、私にはさっぱりわからない。というのも、私の考えでは、分裂分析によって思考の偶然性の問題は1ミリも乗り越えられてなどいないからだ。そもそも、分裂分析は、思考の偶然性の問題を解決しようとすらしていないように私には思える。
 

 ドゥルーズは自らの哲学の何らかの限界に気がついていた。だからこそ、その限界を打ち破るために、一つの実験、ほとんど賭けと言ってよいような実験に打って出た。それが一九六九年から開始されたフェリックス・ガタリとの協働作業だったのではないか? ドゥルーズと全く資質を異にするガタリという書き手を通じて、ドゥルーズは自らの哲学スタイルの刷新を目指したのではないだろうか?*5

 
 細かいことだが気になるので書いておくと、ここで國分の言う「哲学スタイルの刷新を目指す」ことと、國分が不可能だという「再認の失敗を目指す」ことは、なにがちがうのだろう? 私にはそのちがいがわからない。まあいい、いやよくはないが、話を進めよう。
 
 國分は、ドゥルーズ=ガタリの提唱する分裂分析の意義を、次のようにまとめている。
 

 ドゥルーズ=ガタリは、たとえばドゥルーズが単独で書いた著作の中で示していたタイプの実践、「失敗を目指す」ようなタイプの実践を提唱しない。つまり、あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない。ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。そこから、自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。*6

 
 さて、この箇所に到達するまでに「思考の偶然性」についての解説を忘れてしまわなかった読者なら、ここで言う「精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析すること」ができるようになるためには、まさにそれを強制するシーニュとの「偶然の出会い」が必要になるのではないかと考えないだろうか? ドゥルーズの超越論的経験論が発生を問題にするのなら、当然ここでもそれが問われてしかるべきではないだろうか?
 
 おおよそありえないことではあるが、もしもシーニュとの偶然の出会いによる強制が必要ないとすれば、分裂分析はどのようにしてできるようになるのだろう? なにをきっかけにして習慣化された思考を打ち破るのだろう? いや、それ以前に、そもそも「この問題には分裂分析によるアプローチが必要だ」という判断は、どのようにして生じるのだろう? 本書には一言もその説明がない。私も一生懸命探したのだが、ほんとうにない。もちろん私の見落としだったならお詫びして訂正するけれども、たぶんどんなに探してもないと思う。なぜなら、そんな方法はもともと存在しないからだ。人間の思考のしくみを無視した思考の方法など、存在するわけがない。
 
 分裂分析は、なるほど、社会現象の分析の仕方を教えているように見える。だが、それはただそう見えるだけだ。分裂分析というものが可能であるためには、社会に起こる無数の出来事のうち、どれがこの理論の事例にあたるのかをまず判断できなければならないだろう。それができなければ分析のはじめようがない。そして、うまく対象となる事例を見つけられたとして、それはどのような権力装置であり、そこにはどのようなダイヤグラムが作動していて、それはどのような欲望のアレンジメントに支えられているのかを、私たちはどうやって判断したらいいのだろう? いや、それ以前に、ある社会現象を構成する要素のうち、どれが権力装置で、どれダイヤグラムで、どれが欲望のアレンジメントなのかを、私たちはどうやって区別したらいいのだろう?
 
 私は上の段落において太字で強調した要素が把握できるようになるためには、すべてシーニュによる強制の助けが必要になるだろうと考える。それらはすべて、個々の社会問題のなかから発見されなければならないのだ。それらを発見するのは、純粋に見ること、見つけることの水準に属する能力である。ゆえに、それは方法として一般化できない。見つける方法は、見つけられるものが発見されることによってはじめて成立するのである。
 

ドゥルーズの習得の理論と分裂分析

 
 ところで、國分の言う「哲学スタイルの刷新」や「乗り越え」とはどういう意味なのだろう? ふつうに考えれば、それはまちがっているところや矛盾しているところを修正したり、不十分なところや欠落しているところを補ったりすることだろう。そして、ふつうの人は、あとから自分の考えの誤りに気づいたなら、その誤りを訂正するはずだ。
 
「彼自身は全く変わらなかった。ドゥルーズガタリと仕事をする時にだけ、欲望のアレンジメントについて語るのである。そして、再び一人で仕事をする時には、いつものような超越論的経験論の哲学者ジル・ドゥルーズに戻ってしまう」*7とまで書く國分ならばわかっているはずだが、ドゥルーズガタリとの協働作業以後も自身の思考の理論を放棄していない。ということは、國分の言う「ドゥルーズの哲学の限界」は、ガタリとの協働作業以後もあいかわらず保持され続けていたことになる。ではどうして、ドゥルーズガタリとの協働作業を経たあとも、自身の思考の理論を修正しなかったのだろうか? 修正する必要はないと考えていたとすれば、ドゥルーズの思想とドゥルーズ=ガタリの思想は両立するのだろうか? 國分のストーリーに欠けているのはこの問いである。
 
 私の考えでは、國分の言う「ドゥルーズの哲学の限界」とは、思考という現象を理解する様相を國分が適切に区別できていないことによる錯覚にすぎない。思考を含めた人間の行為には、人間の身体の活動という見方と、自然現象の一部という見方の、二つの相がある。これら二つの様相は、それを理解する視点の水準が異なっているだけで、矛盾なく両立している。人間の行為は、人間が「すること」であると同時に、自然法則によって「起こること」である。だから当然、思考もまた自然法則によって「起こること」だが、私たちはふつうそれを自分が「していること」として実感している。同様に、「起こそうとすること」も「起こること」として生じる。「思考しようとすること」は自然の摂理によって「起こること」だが、それは人間に「できること」である。そこになんら矛盾はない。
 
 國分の誤解の原因は、ドゥルーズが「起こること(出来事)」の相で説明していることを、「すること(行為)」の相で理解していることにある。たしかに、出来事の相は行為の相を限界づけてはいるけれども、それは必ずしも行為の相の不自由と同じではない。おそらくドゥルーズ自身は、國分が欠陥を指摘した理論、すなわち思考という現象の構造を説明する理論によって、各人の思考の実践が制限されるとは考えていないだろう。
 
 國分が出来事の相と行為の相を混同していることによる混乱は、たとえば次のような記述に如実に表れている。
 

 ものを考えようと思って考え始めることなどできないし、そうして始まった「思考」など、たかが知れている。思考はそれを強制するシーニュとの出会いがあって初めて発動する。けれども、だからといって、待っていれば思考を強制するシーニュとの出会いが訪れるわけではない。シーニュは読み取られねばならず、またその読み取り方は習得されねばならない。したがって、思考を偶然の出会いによって強制されるものと捉える理論は、出会いそのものを組織するための習得の理論、学びの理論と切り離せない。*8

 
 この引用部における相の混乱による問題点を整理してみよう。第一に、「ものを考えようと思って考え始めること」はできる。できないのは、「ものを考えようと思おうとすること」だ。前者は行為の相に、後者は出来事の相に属することがらである。第二に、「シーニュの読み取り方を習得すること」はできるが、シーニュと出会うまえにその読み取り方を習得することはできない。前者は行為の相に、後者は出来事の相に属することがらである。第三に、「出会いそのものを組織するための習得の理論」を作ることはできるが、それによって思考を強制するシーニュを確実に読み取れるようにはならない。前者は行為の相に、後者は出来事の相に属することがらである。こうしてみると、引用した國分の文章はほとんど支離滅裂だ。
 
 そして最大の誤りは、「思考を強制するシーニュとの出会いをめざすこと」を「注意深い再認の失敗をめざすこと」と読み替えた上で、それを不可能とみなしたことだ。それらはいずれも行為の相に属することがらであり、言うまでもなく、現に私たちにはそれができる。もしも國分の言うとおり、ドゥルーズがほんとうに「再認の失敗はめざせないから待つしかない」と考えていたのなら、ドゥルーズは映画館になにをしに行っていたのだろう? たんなる暇つぶしだろうか?
 
 さらに、あろうことか國分は、「失敗を待つことを求める」という欠陥によって、ドゥルーズ「出会いそのものを組織するための習得の理論」までもが受け入れがたいものになると言うのだ。次の文章における出来事の相と行為の相の混同が、以降の國分の議論を大きく誤らせた元凶である。
 

 ドゥルーズの習得の理論、それに支えられた思考の理論は、極めて実践的な価値をもつ優れた理論である。それは、まさしく我々に多くのことを教える。だが、行為や主体性の議論に延長されたとき、この理論は、実践の理論としてはどうしても受け入れ難い相貌をあらわにし始める。それは失敗を待つことを求めるからである。*9

 
 國分のシナリオによれば、ドゥルーズは「出会いそのものを組織するための習得の理論」の構築を進めていたにもかかわらず、この欠陥に気づいたためにそれらに見切りをつけて、ガタリとともにまったく異なる理論の構築をめざしたということになる。だが、それでもドゥルーズはみずからの思考の理論を訂正も撤回もしなかった。けっきょくのところ、「彼自身は全く変わらなかった」とまで國分は言う。それはなぜなのだろうか?
 
 その理由を、國分はドゥルーズ自身の哲学に対する姿勢に見ているようである。國分はそれを「出会いの偶然に賭ける」*10などというやたらとロマンティックなレトリックで評しているが、これはいくらなんでも飛躍しすぎだろう。私は、ドゥルーズが出会いの偶然性を強調するのは、発見は計画できるものでも予測できるものでもないというあたりまえの事実をただ確認するためだろうと思う。そこにそれ以上の勇敢さや潔さのようなものを読み取ろうとするのは、思い入れ過剰というものだ。この手の行きすぎた心情主義は、哲学書の理解の邪魔にしかならない。
 
 ドゥルーズの哲学の限界を指摘して以降の國分の論考において、ドゥルーズが提唱した習得の理論が顧みられることはなく、ドゥルーズ=ガタリの理論はもっぱらドゥルーズの哲学の限界とされた「失敗を目指す」実践の理論との対比のもとで論じられている。だが、ドゥルーズの習得の理論をそうかんたんに用済みにしていいのだろうか? その説明を見てみよう。
 

 シーニュを読み取る仕方は、〈同じもの〉の反復を強いること(「私と同じようにやりなさい」)では学べない。シーニュは毎度毎度新しいもの、異なったものなのだから、〈他なるもの〉、差異を含みつつ、読み取るという所作を反復できるようにならねばならない。「私と一緒にやりなさい」と言う教師は、生徒を一つの事例の中に巻き込むことで、シーニュへの応答を実際にやってみせる。そうして、生徒は自分なりの「シーニュとの出会いの空間〔espace de la rencontre avec des signes〕」を作り出す(DR,p.35/(上)七五頁)。*11

 
 ここでぜひとも気づいていただきたいのは、この習得の理論の説明は、そっくりそのまま分裂分析にもあてはまるのではないかということだ。すなわち、分裂分析は、「あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない」、よって、「その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる」。したがって、ドゥルーズ=ガタリが提示する概念装置をあらゆる場面に「同じように」適用しようとしてはいけないのだ。分裂分析を学ぶ者は、「〈他なるもの〉、差異を含みつつ、読み取るという所作を反復できるようにならねばならない」。というか、そう理解しないと、國分のドゥルーズ=ガタリは「あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない」という解説は意味不明である。
 
 このように見るならば、分裂分析をドゥルーズの実践の理論の乗り越えとしてではなく、その発展形ととらえる道が拓かれるだろう。そこに見出されるのは断絶や転換ではなく、連続性である。それはジル・ドゥルーズの哲学による確かな基礎の上にドゥルーズ=ガタリが打ち立てた、読者のためのシーニュとの出会いの場(espace)にほかならない。
 

分裂分析の課題

 
 ドゥルーズ=ガタリが提示する分裂分析の理論が私たちに示しているのは、思考によって明らかにされるべき問題の構成要素の見取り図である。少しまえに流行った言葉で言えば、思考のフレームワークだ。
 
 ドゥルーズは、哲学とは概念を創造する学問であると言ったが、それを引き継いで言うなら、哲学とは、新しい思考のフレームワークを作り出すための学問なのだ。それによって、私たちはより的確にものごとのしくみを理解できるようになる。それは哲学にしかできない仕事である。逆に言えば、新しい思考のフレームワークを作り出す試みが行われているところには、つねに哲学が存在すると言ってもいい。
 
 無論、分裂分析の図式を知っていたからといって、うまくそれを特定の事例に具体化できるとは限らない。そして言うまでもなく、それは教えられればだれにでもできるものではない。それを適用する方法は、それを適用する事例ごとに新たに学ばれなければならないのだ。だが、その図式を知らなければ、そもそも社会問題のなかからどのような要素を読み取るべきかを判断できない。いや、できるかもしれないが、それにはその分析の図式をあらかじめ知っていた場合に比べて膨大な時間がかかるだろう。
 
 しかし、できる人がそれを実践してみせたならば、その結果を共有することはむずかしくないはずだ。となると、けっきょくのところ、重要なのは、それをできる人が「やってみせる」ことではないだろうか? というのも、分裂分析が課題とするのは、まさにいまだ分裂分析による診断がなされていない権力装置の分析にほかならないからだ。重要なのは、そうした個々の事例の診断結果の積み重ねであり、また、結果の積み重ねだけが分析の精度を向上させることができる。
 
 では、分裂分析は、これまで蓄積されてきた個々の社会問題の事例研究に、いかなる成果をつけ加えることができるのだろうか? その分析結果をふまえて、新たになにを提案できるのだろうか? そしてなにより、それは社会を変えることができるのだろうか? 分裂分析はこの問いに具体の成果をもって応えなければならない。
 
 幸いなことに、哲学者・國分功一郎は、新著『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)においてみずからこの問いへの答えを用意してくれた。
 

 
 もちろん、國分のこの新著のよし悪しは読んでみないとわからない。もしかするとまた悪く言うかもしれない。だが、私はそれ以前に、なによりこの政治哲学者の有言実行に敬意を表したい。哲学の勉強をやめてしまうかどうかの結論を出すのは、この本を読んでからでも遅くはないだろう。
 

参考文献

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 下---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 下---資本主義と分裂症 (河出文庫)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

*1:國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書,2013年,p.125

*2:同前,p.124

*3:同前,pp.123-124

*4:同前,p.124

*5:同前,p.116

*6:同前,p.222

*7:同前,p.266

*8:同前,pp.95-96

*9:同前,pp.114-115

*10:同前,p.266

*11:同前,pp.97-98