光文社古典新訳文庫からプラトン研究者の納富信留によるプラトンの『ソクラテスの弁明』の新訳が刊行されたので、久しぶりに読んでみた。ちょうどなにもかも一からやり直したいと思っていたところだったから、いい機会だったと思う。
- 作者: プラトン,納富信留
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2012/09/12
- メディア: 文庫
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哲学入門からやり直し
以前に『弁明』を通読したのは何年まえだったかもう思い出せないが、もしかすると学生時代だったかもしれない。そのときは、ソクラテスというやたらと偉そうなじじいが、毒にも薬にもならない説教を自信満々にまくし立てるだけのろくでもない本という印象しかなかった。このときのソクラテスへの反感のせいで、私はギリシャ哲学そのものを軽蔑するようになり、その後同じプラトンの『メノン』に衝撃を受けて認識を改めるまで、私は長らくプラトンを敬遠し続けることとなってしまった。
今回読み直してみて新たな発見がなかったわけではない。だが、最初に読んだときの印象が大きく変わることはなかった。逆に、以前には見落としていた細かいところまで目が行きとどくようになったせいで、まえよりもソクラテスに対する印象は悪くなったかもしれない。『弁明』におけるソクラテスの主張には一貫性も整合性もなく、ただその場限りの言い逃れを繰り返すばかりであり、他の対話篇と比較しても、とりわけできのいい作品とは言えない。
こうした理由から、私はプラトンの『ソクラテスの弁明』は、デカルトの『方法序説』と同じく、はじめて哲学の古典を読む人には絶対に薦めてはいけない本だと思っている。どちらもたいしておもしろくない上にやたらと説教臭く、入門書としては最悪である。こんな本を最初に読んでしまったせいで、哲学の魅力と出会い損ねたばかりでなく、哲学の世界に立ち入ることそのものをやめてしまった人は少なくないのではないかとさえ思う。
これからはじめてプラトンの対話篇を読んでみようという人には、『メノン』か『エウテュプロン』を最初に読むことを強くお薦めする。どちらも短い作品だが、私たちの価値観を根底から揺さぶる鋭い洞察に満ちている。この二つの対話篇の著者であるという事実をもって、他の作品のできがどんなに悪かろうと、プラトンに対する私の敬意は微動だにしない。
ところで、この文庫のオビでは『弁明』が「プラトン対話篇の最高傑作」だなどと謳われているが、これは本気なのだろうか? 言うまでもないことだが、『弁明』が最高傑作だとすれば、それ以外の対話篇はすべてこれよりもできが悪いということになる。ということは、最初期の作品である『弁明』以降のプラトンの試行錯誤はほとんど有意義な成果を上げることはできず、けっきょくのところこの出発点のまわりで足踏みしていたにすぎないということになってしまうだろうが、ほんとうに納富はそう考えているのだろうか? もし、そんな大それたことを主張するつもりはなかったのなら、どうしてオビに「最高傑作」などと書いたのだろうか?
たかがキャッチコピーごときにここまでムキになることはないかもしれない。だが、こうしたいい加減なもの言いをなにより軽蔑したのが、ほかならぬソクラテスであり、プラトンであったはずなのである。ソクラテスとプラトンが、本を売るための宣伝に、書いた本人もほんとうに信じているかどうか疑わしい大げさで無責任な宣伝文句を書き連ねることを許すはずがない。
こうした文章表現に対する緊張感のなさが、納富の文章を締まりのない浮ついたものにし、なにより解説における『弁明』の読解をあからさまにおかしなものにしている。
納富信留のいい加減な言語感覚
光文社古典新訳文庫版『ソクラテスの弁明』の最大の売りは、なんといっても訳者の納富信留による本文の分量を超える長大な解説である。訳者紹介によれば、納富は以前に国際プラトン学会の会長を務めたこともあるプラトン哲学の権威であり、名実ともに現代日本を代表するプラトン研究者と見てまちがいないだろう。
解説の内容は、最新の学説を視野に入れた懇切丁寧なものである。その点は好感がもてるし、通例ではいっしょに収められる『クリトン』を省いたことを補う充実した内容だったとも思う。私自身、教えられるところも多かった。だが、残念なことに、全体としての納富の説そのものには、まったく賛成できないのである。そして、やはりここでも気になったのは、納富の文章表現の浅薄さだ。
納富への反感は、カバーの裏表紙にも引用されている「訳者あとがき」に全体のまとめとして提示されたソクラテス評によって、私の我慢の限界を超えてしまった。
ソクラテスの生と死は、今でも強烈な個性をもって私たちに迫ってくる。しかし、彼は特別な人間ではない。ただ、真に人間であった。彼が示したのは、「知を愛し求める」あり方、つまり哲学者であることが、人間として生きることだ、ということであった。私たち一人ひとりも、そんなソクラテスの言葉を聞きながら――プラトンが書き記した言葉を読みながら――人間として生きることを、学んでいくのであろう。*1
率直に言って、私はなにより厳密な論証を重んじなければならないはずの哲学研究者が、このような文章を平気で書けてしまうこと自体が信じられない。どう考えても、このソクラテス評は厳密な根拠に裏づけられた確固たる主張ではなく、明らかに過剰な思い入れと勢いにまかせて書かれたできの悪いポエムのようなものである。ただ、「私はソクラテスを見事に評した!」という納富の満足感だけははっきりと伝わってくる。カバーの裏表紙に宣伝文句として掲げているくらいだから、相当自信があったのだろう。こうしたいわゆる「熱い」文章を、「真摯な心のあらわれ」としてもてはやしてきたこの国の生ぬるい心情主義そのものに、私は耐えがたい不潔感を覚えるのだ。
ところで、ここで納富は、誤解の余地なく「哲学者にあらずんば人にあらず」という恐るべき主張をしている。納富の言葉をそのまま受け取るなら、哲学をしていない人間は人間失格であるか、偽物の人間であるか、あるいはそもそも人間ではないかのいずれかである。もちろん、常識で考えて、私は納富が本気でそんなことを言おうとしているとは思わない。おそらく、これは人生における哲学の重要性を強調したいがためのいささか行きすぎた表現にすぎないだろう。だからこそ、言葉どおりの意味をそのとおり受け取られては困るのだ。だが、ほかならぬ哲学者が、言葉どおりの意味を正確に理解されては困るような文章を書いていいのだろうか?
納富のソクラテス評は、「誤解」を免れるために、読者の好意と、「良識ある大人が「哲学者でなければ人間ではない」などと本気で言うはずがない」という一般常識の助けを必要としている。しかし、哲学者ならば、欠陥を読者の好意によって大目に見てもらったり、常識に補ってもらったりしなければならないような文章を書いてはならない。哲学者ならば、充分な根拠を示して哲学の重要性を論証しなければならないはずだ。
大前提を確認するなら、そもそも哲学者は、常識にも、慣習にも、伝統にも、信仰にも、権威にも頼ってはならない。それらがそれ自体としてなんらかの主張を正当化する根拠となりうることを否定することから哲学ははじまる。ある決まりごとが慣習や伝統であるという事実だけを根拠にそれを正しいと認めることができるのなら、「なぜそれが正しいのか」という問いが生じることはありえない。それらを盲信し、そこに埋没している者には、決して哲学をすることはできないのだ。
常識も、慣習も、伝統も、信仰も、権威も、すべてなんらかの証拠によってその正当性が証明されなければならないものであり、それらに確かな根拠があるかどうかを点検することこそが、ほかならぬ哲学の役割である。その役割を果たすべき哲学者が、たとえ無意識にであっても、常識に頼ろうとするのは本末転倒であり、倒錯である。
『弁明』を読む私たちは、ソクラテスは評判どおりの評価に値するかどうかを、この対話篇を読んで確かめなければならない。ソクラテスとプラトンの権威の根拠はプラトンの対話篇をはじめとする書き残された書物のなかにしかない。それを見つけるのは読者の仕事であり、それこそが自分の頭で考え、判断するということである。そのためには、納富の思い入れ過剰なソクラテス評は、邪魔になることはあっても、決して助けにはならないように思われる。
ソクラテスの人生と哲学
私たちが『弁明』に要求すべきソクラテスとプラトンの権威の根拠とは、どのようなものだろうか?
それを私なりに粗描するならば、ソクラテスとプラトンの権威の根拠とは、それがあるからこそ、私たちにはプラトンの対話篇を読むことが必要であり、またそれを活用することによってはじめて、私たちはそれ以外の方法ではできないような方法でみずからの人生をより善いものにできる、そのようなものでなければならない。それはすなわち、ソクラテスとプラトンからしか学ぶことができない生き方や考え方であり、なによりそれが正しいことを裏づける証拠である。それがなにも提示されていないのなら、ソクラテスとプラトンの権威などまぼろしにすぎない。
では、納富は「最高傑作」だという『弁明』のなかから、なにより自分自身がそれに深く依存しているソクラテスとプラトンの権威を裏づける証拠をなにか提示できているだろうか? 納富のソクラテス評に戻れば、納富が「知を愛し求めること」が人間の条件であると言いたくなるほど大切なことをソクラテスが「示した」というのは、そのことの根拠をなにか提示したということだろうか?
だが、ここで私たちは、先の引用文に、ソクラテスは「特別な人間ではない」という不可解な記述があることに気づく。特別な人間ではない? ソクラテスが? 納富は自分がなにを言っているのかわかっているのだろうか?
『弁明』を一読すれば明らかなように、「ソクラテスのように知を愛し求めること」は「ソクラテスのように生きること」と不可分であり、ほとんど同じ意味であると言ってよい。納富は、一方でソクラテスの特別さを否定しておきながら、他方で明らかにソクラテスの生き方を読者が模範とすべきものとして称揚している。しかし、ソクラテスのように生きることはほとんどの読者にとって極めて困難なことである。それを「強烈な個性をもっているように見えるけれども、ほんとうはそれがふつうのことなのだ」と強弁したところで、納得する読者がいるとはとても思えない。
納富の「ソクラテスは特別な人間ではない」という主張は、けっきょくのところただ「真の人間」と認められるための条件を意味もなく厳しくしているだけである。だが、そもそも納富は、本気で「ソクラテスは特別な人間ではない」と考えているのだろうか? もしも、ソクラテスがふつうの人にはできないような優れたことをやり遂げたのでもなく、ふつうの人には考えつかないような優れたものの見方をしたのでもないとすれば、私たちはソクラテスからなにを学べばいいのだろう?
始末の悪いことに、おそらくここでも納富は「ソクラテスは読者が見習うべき特別な長所をなにももたない平凡な人間である」と言いたいわけではないのだろう。だとすれば、納富はどういうつもりで「ソクラテスは特別な人間ではない」などと言うのか? ここでも推測するしかないのだが、そこにはおそらく「努力すればだれもがソクラテスのように哲学することができる」というメッセージが込められているのではないかと思う。だが、そのような安易な平等思想を断乎として否定した哲学者こそが、ソクラテスであり、プラトンであったということを忘れてはならない。
ソクラテスもプラトンも、哲学は特別な資質と才能に恵まれたごく少数の人間にしかできないとはっきり述べている。『国家』における悪名高い哲学者による統治の思想は、その主張を最も強硬に打ち出したものである。この『弁明』においても、プラトンはソクラテスの生き方を描くことをつうじて、なにより知を愛し求める生を貫徹することの困難さを示していると言える。私自身も、哲学は特別な資質と能力がなければできないものだと考えているが、納富はどう考えているのだろうか?
もちろん、哲学もスポーツや芸術と同じように、だれでも教えられればお遊び程度のまねごとならできるようになるかもしれない。だが、やはり哲学もスポーツや芸術と同じように、だれでもうまくできるようになれるわけではないのだ。とはいえ、ほんとうに哲学に人の生の価値を決定づけるほどの重要性があるのだとすれば、やはりできるだけ多くの人が上手に哲学をできるようになるに越したことはないだろう。そのために必要なのは、根拠の乏しい無責任な励ましの言葉などではなく、上手に哲学ができるようになるために役に立つアドバイスである。
そこでもう一度先に引用した納富のソクラテス評を読んでみよう。このような人物評が、私たちが上手に哲学をすることができるようになるための役に立つだろうか? そのために必要なのは、ソクラテスを聖者として崇拝することでも、愚者として軽蔑することでもない。そもそも、全体としてのソクラテスという人物の評価など、まったくもってどうでもいいことではないか。大切なのは、ソクラテスの生き方や考え方に、私たちが参考にし、役立てることができるものがあるかどうかである。
「不知の自覚」をどう理解するか
やたらと長い前置きを終えて、ここでようやく私たちは、納富が解説するソクラテスの思想の内容に立ち入ることができる。納富による『弁明』の解説の中心となっているのは、ソクラテスがソフィストたちとの対話をつうじて得た「不知の自覚」である。
私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。*2
この記述の理解について、納富は広く流布している「無知の知」という解釈を誤解として斥け、それに代わってかねてからの持論である「不知の自覚」という解釈を提示している。とはいえ、こんな説明ではそれを区別することになんの意味があるのかまるでわからないだろう。納富自身の説明を見てみよう。
くり返すが、ここで大切なのは、ソクラテスが「知らないと思っている」という慎重な言い方をしていて、日本で流布する「無知の知」(無知を知っている)といった表現は用いていない点である(二一B、二三Bへの注を参照)。ソクラテスはそんな特別な知者として、人類の「教師」などと崇められる人物ではなく――彼は自分が「教師」であることをくりかえし否定している――あくまで人間が知恵という点でどのように謙虚であるべきか、を代表して示している。そこで初めて、哲学が始まるからである。*3
納富は、「無知の知」ではソクラテスはまだなにか特別なことを「知っている」ことになるからまちがいであり、ソクラテスはただ知らないことをそのとおり「知らない」と認める謙虚な態度を示しただけだと言いたいらしい。私は、ソクラテスは「無知を知っている」と言ったと誤解されたことだけが原因で特別な知者とみなされるようになったわけではないし、後述するように、「無知の知」をソクラテス独特の思想とみなすことはまちがいではないと考える。それはともかく、納富によれば、ソクラテスが「知らない」ということを「知っている」ではなくあえて「思っている」と言った背景には、知に対する謙虚さを表現するための慎重な配慮があったというのだ。
ここで重要なのは、「知る」という認識状態が「思う」という認識状態から明確に区別される点である。私たちの日常では、なんとなくそう思ったり、それなりの確信があったりする時にも、「知っている」という認定をすることがある。しかし、厳密に言えば、「知る」とは、明確な根拠をもって真理を把握しているあり方を指し、「知っている者」は、その内容や原因を体系的に説明できなければならない。*4
この説明は、ソクラテスの言うところの「知識」の定義としては確かに正しい。だがこれは、問題の箇所でソクラテスが意図して「知っている」ではなく「思っている」という表現を選んだ理由の説明として正しいかどうかは極めて疑わしい。
仮に、納富の言うように、問題の箇所でソクラテスが「知っている」ではなく「思っている」という表現を選んだのは、「知らない」ということを「知っている」と言えるほどにはそのことに対して充分な確信がもてなかったからだとしてみよう。だが、ここで考えてみるべきなのは、「知らない」ということに充分な確信がもてない状態とは、どういう状態のことを意味するのかということである。
少し頭を使えばわかることだが、「知らない」ということに充分な確信がもてない状態とは、ひょっとすると知っているかもしれない状態のことである。たとえば、ソクラテスとはどのような人物か知らないと思っている人物が、じつはソクラテスその人と親しくつきあっていながら、自分がつきあっている相手がソクラテスという名であることを知らないということはあるかもしれない。そのとき、その人は、「ソクラテスとはだれのことか知らないが、ひょっとすると知人のあの男かもしれない」と思うだろう。
では、問題の箇所で、ソクラテスはちょうどこのような意味で「立派で善いこと」について「知らないと思っている」と語っているのだろうか? 私にはとてもそのような含意があるとは思えない。そして奇妙なことに、納富自身もこの箇所にそのような含意を読み取るべきだと主張しているわけではないようだ。一つまえに引用した納富の説明によれば、ここでソクラテスが「知っている」ではなく「思っている」という表現を選んだのは、「思っている」と言ったほうがよりはっきりと「特別な知」をもっていることを否定できると考えたからだということになるのかもしれない。だが、それもまたあまりにも飛躍した無理のある解釈であることにちがいはない。
人の解釈にケチをつけてばかりではアンフェアだろうから私の解釈も述べておくと、ソクラテスがここで「知らないと知っている」ではなく「知らないと思っている」と言っている理由は、「知らないと思っている」のほうが日常語として自然だからである。「知らないと知っている」という言い方には、どこか気取った、哲学者ぶった感じがしないだろうか? ソクラテスの時代にそのようなインテリ口調があったかどうかは知らないが、いずれにせよ、「知らないと知っている」という言い方は日常ではあまりしないものだろう。
したがって、ソクラテスはただ普段どおりに話しているだけであり、そこになにか特別な意味を込めるための言葉の選択が行なわれているという考えそのものがまちがっているのである。
ソクラテス裁判の背景
いずれにしても、ソクラテスがみずからが知者であることを否定しようとしていたことは確かである。では、なぜソクラテスはそれを否定したかったのだろうか?
それは、人に教えることができるような特別な知識をなに一つもたないことを示すことによって、自分が人になにかを教えていたことそのものを否定するためである。そうすればソクラテスは、「自分は知らないことをほかの人に聞いてまわっていただけだ」と主張することができるし、現に『弁明』の最初のほうではそう主張している。忘れてはならないのは、「不知の自覚」の表明は、「若者を堕落させている」という告発に対する抗弁の一部なのだという事実である。
納富は、ソクラテスが自分が教師であることを否定していたのは謙虚さのあらわれであるかのように説明しているが、ソクラテスが自分はなにも教えていないと強弁するのは、ソクラテスの弟子と目されていた反逆者のアルキビアデスや独裁者のクリティアスといった人物の不始末に対する責任逃れでしかない。『弁明』のなかでそうした人物の名が挙げられているわけではないけれども、ソクラテス裁判にそのような背景があることは通説であり、そのことは納富も認めている。
そういった者のだれかが善良になろうがなるまいが、私は正当に責任を引き受けることはできませんし、そのだれにも、いままでけっして教育を引き受けて何一つ教えを授けたこともありません。*5
ここでソクラテスは、誤解の余地なく「自分が対話していた相手がどうなろうと知ったことでない」と言っている。くどいようだが、これが謙虚な人間のもの言いだろうか? もっとも、この放言から判断する限り、ソクラテスが教師失格であることは確かだろう。にもかかわらず、他方でソクラテスは、自分がアテナイでしていたことを「魂を最善にするように配慮するより前に、それより激しく肉体や金銭に配慮することがないようにと説得すること」*6であると説明してもいる。しかもそのとき、「金銭から徳は生じないが、徳にもとづいて金銭や他のものはすべて、個人的にも公共的にも、人間にとって善きものとなるのだ」*7と言っていたというのだ。これはどういうことだろうか?
まず確認しておかなければならないのは、ソクラテスは対話した相手にただ自分の考えを述べていただけではなく、説得を試みていたと言っていることである。もちろん、ただ話していたのでも、意見交換をしていたのでもない。言うまでもなく、説得とは、相手に善い行いをするように勧めたり、悪い行いをしないように戒めたりすることだが、そのためには、その人に善い行いを思いとどまらせたり、悪い行いをうながしたりしているまちがった考えを改めさせようとすることが必要不可欠だろう。
だが、ソクラテスの「自分はだれにも教えを授けてはいない」という言い分を信じるなら、ソクラテスは相手になにが善いことでなにが悪いことなのかさえ教えることなく「説得」を試みていたということになる。そんなことがほんとうに可能だろうか? というより、そもそもそれは説得と呼べるようなものだろうか? だが、この点については、私にはソクラテスがその場限りの言い逃れを繰り返したせいで主張が支離滅裂になり、収拾がつかなくなっただけだとしか思えない。こうしたあからさまに両立しがたい主張のあいだのつじつまをあわせるために知恵をしぼることになんの意味があるだろうか?
こんなところでソクラテスを糾弾することに夢中になって、私たちは本来の目的を見失ってはならない。私たちがしなければならないことは、この『弁明』からなにを学びうるかを見極めることである。
善についてソクラテスはほんとうになにも知らないか
ところで、ソクラテスの「善についてなに一つ知らない」という証言は、「自分には善悪を判別する能力がない」という告白なのだろうか?
奇妙なことに、そう解釈するプラトン研究者は一人もいないようだが、「それについて知らなければ、それについて判断することもできない」と考えるのはむしろ当然である。とはいえ、そう受け取る人がいないのも無理はない。なぜなら、ソクラテスはみずから知らないと言っていたはずの善について雄弁に語っているからだ。
「徳について、また私が対話しながら私自身と他の人々を吟味しているのを皆さんが聞いているような他の事柄について、毎日議論をすること、これはまさに人間にとって最大の善きことなのです。そして、吟味のない生は人間にとって生きるに値しないものです」*8
「知を愛し求めることが人間にとっての最大の善である」という愚劣な思想は、ソクラテスに端を発し、プラトンとアリストテレスに受け継がれ、その後もスピノザとヘーゲルがそれぞれの仕方で肯定し、二十世紀のハイデガーにまで継承されることになった哲学者の最悪の思いつきである。単純に考えて、「善を実現すること」でも「善を獲得すること」でもなく、それがなんであるか「知ること」でさえなく、ただ「善を知ろうとすること」こそが最大の善であるなどというのは、馬鹿げた考えである。けっきょくのところそれは、それよりもましなことをなに一つ見出せなかった連中の逃げ道でしかない。
それはさておき、『弁明』のいたるところで、ソクラテスは立派なふるまいや恥ずべきふるまいとはなにかを饒舌に語っている。こうした善悪についてのソクラテスの見解は、善の知識ではないとすればなんなのだろうか? 講談社学術文庫版『ソクラテスの弁明・クリトン』の「『ソクラテスの弁明』解題」によれば、それがなんであるかについてプラトン研究者のあいだでも議論があるらしい。そこで挙げられている研究者の意見をいくつか紹介すると、善についてのソクラテスの見解は、アーウィンによれば「知識を欠いた正しい信念」であり、ヴラストスによれば「弱い意味における知識」であり、レッシャーによれば「個々の行為の道徳上の性質についての知識」だそうである。*9
このように、研究者の多くはソクラテスが善の内容について自分なりの見解をもっていることを否定してはいない。少なくとも、ソクラテスが知りもしないことをいい加減な思い込みによって語っていると考えている研究者はいないようだ。だが、信じがたいことに納富は、こうした議論をすべて無視して、あくまで「ソクラテスは善についてなにも知らない」と言い張るのだ。
ソクラテスになにか特別な「知恵」があると考えてはならない。いわば、人間すべてがゼロの地平にいる中で、自分がゼロであることに気づいているだけマシである――ただし、そのマシさは重要である――と理解しなければならない。これが「人間的な知恵」という、皮肉な表現の真意である。*10
ここで「人間的な知恵」とも呼ばれているソクラテスの「不知の自覚」を、納富は決して「特別な知恵」ではないと強く主張しているが、このソクラテスの「知恵」は、『弁明』におけるソクラテスの中心思想として存分に活用されている。
死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。*11
死を恐れることを非難するこのソクラテスの有名な主張は、決してありふれた考え方ではなく、ソクラテス独特の思想であると言ってよい。そして言うまでもなく、ソクラテスのこの死に対する考え方は、一般に「無知の知」として知られているソクラテスの思想の一部をなしている。
このソクラテスの言明は、「死を恐れるのは愚かなことである」という事実の確認ばかりでなく、「ゆえに死を恐れてはならない」というアテナイの民衆に対する実践上の指令をも含んでいる。この実践上の指令は、たとえソクラテス自身がその意図を否定したとしても打ち消すことができないものであることは、言わば現代言語哲学の常識である。
このような教えを説いたことをもって、ソクラテスを「特別な知者」とみなしてはいけない理由がなにかあるだろうか? 法廷において、ソクラテスはこの「不知の自覚」を得意げにひけらかして聴衆を挑発しているようにさえ見える。事実、「私は、人間の誰一人に対しても進んで不正を行ってはいないと信じています」*12とまで言い切るソクラテスの自信満々の態度ほど謙虚さからほど遠いものはない。ソクラテスは「人間が知恵という点でどのように謙虚であるべきか」を代表して示したなどという納富の主張は、『弁明』のほとんどの記述を無視しなければ到底成り立たないだろう。
自分のなかでできあがったソクラテスのイメージにあわない文章はことごとく無視しているとしか思えない納富の暴論も、専門家のあいだでだけは通用するソクラテスの考える「知識」と「知識に準ずるもの」を区別する議論を突きつめていけば、もしかすると擁護することができるのかもしれない。しかし、そのような、どこまでもソクラテスが正しいことを前提とした上で、個々の発言のあいだのつじつまを強引にあわせようとしているにすぎない議論から、私たちはなにかを学びうるだろうか? そもそもこの議論自体が、ソクラテスの「善についてなに一つ知らない」という言葉を真に受けさえしなければまったく必要のないものだというのに? 私たちは詭弁を弄してうまく言い逃れができるようになるために哲学を学んでいるのではないのだ。
だが、けっきょくのところ、ソクラテスがどういうつもりで善について語っているかなどまったくどうでもいいことだ。重要なのは、善についてのソクラテスの見解に確かな根拠があるかどうかだけである。さらに言えば、私たちは「どのような証拠を示されればソクラテスの考えが正しいと認めるのか?」ということも一度よく考えてみる必要があるだろう。それがなんであるかを示すことは、ひょっとすると、ソクラテスとプラトンの言う「善そのもの」を示すのと同じくらいむずかしいことかもしれない。
さて、もしここまで長々とおつきあいくださった方がいらっしゃるとすれば、ここまで読んできて、『ソクラテスの弁明』からなにか役に立ちそうなものの考え方や生き方の知恵を見つけることができただろうか? それが見あたらないからといって私を責めないでほしい。私はこの書評の冒頭で、はっきりと『弁明』は「ソクラテスというやたらと偉そうなじじいが、毒にも薬にもならない説教を自信満々にまくし立てるだけのろくでもない本」だと書いていたはずだ。
もっとも、そのことをちゃんと自分で確認することには、少なからず意味があるというくらいのことは言えるかもしれないが。
文献案内
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