平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

千葉雅也の問題作――千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読む1

 紀伊國屋書店が主催する「紀伊國屋じんぶん大賞2013――読者と選ぶ人文書ベスト30」の大賞を受賞した哲学者の千葉雅也のデビュー作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)を読んだ。
 

 
 この本は昨年2013年に刊行されたときに購入し、年内には読み終えていたのだが、うまく感想を整理することができなくて、書評を書くのがずいぶんと遅くなってしまった。やる気が起こらなかったせいもある。一昨年くらいから哲学そのものに限界を感じていて、本書も「こんなものを読んでいてなんになるのだろう」と思いながら読んでいた。とはいえ、いままでずっと続けていた学問を放棄するというのは、それはそれで勇気がいることである。いまのところ私にはそのふんぎりがつかない。だからおそらく、しばらくはこんな調子でダラダラとこの手の本の感想を書き続けることになるだろう。皮肉な話だが、その意味で本書の「切断の哲学」というテーマには興味を引かれた。
 
 とにかく難解な本だった。難解さの程度で言えば、ドゥルーズドゥルーズ=ガタリデリダの本を読むのとそれほど変わらないと思う。私はもともと本を読むのが異常に遅いのだけれども、この本の場合、読み終えるのに一月もかかった。ここまで時間がかかったのは、日本人の書いた哲学書では東浩紀の『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社)以来である。断言してもいいが、この本をわかりやすかったとか、一気に読み終えたとかと評している人は、絶対に内容を理解できていない。そもそも、一度読みとおしたくらいで理解できるような論考ではない。私自身、正直言ってよくわからなかった部分がほとんどだ。この記事を書くのに時間がかかったのはそのせいである。
 
 オビには「待望のドゥルーズ入門」とあるが、とんでもない話だ。この論考はドゥルーズの哲学を乗り越えてさらにその先に行くための試みであり、まちがいなく現代哲学の最先端に位置する世界レベルのドゥルーズ研究書である。その意味で、本書は入口ではなく出口である。ドゥルーズの哲学の入門書なら、國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)のほうがまだいいだろう。以前に酷評した手前、國分の本を入門に薦めるのは気が進まないけれども、ドゥルーズの本をこれまでほとんど読んだことがない人がいきなり千葉の本を読むのは無謀としか言いようがないので、そういう方は千葉の本を読むまえに絶対に國分の本を読んでおいたほうがいい。千葉と國分はいずれも現代日本を代表するドゥルーズ研究者だし、両者の論考を読み比べれば必ずなにか得るものがあるだろう。
 
 と、エラそうに評してみたものの、先ほど書いたとおり、残念ながら私はこの本の議論にはほとんどついていけなかった。というわけで、以下の読解は、私が本書のどこがどうわからなかったかの長い解説になるだろう。わからないなりにも要点整理としてはそれなりのものになっているだろうとは思うので、例によってずいぶんと長い記事だが、最後までおつきあいいただければ幸いである。
 
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

 

非意味的切断について

 
 千葉雅也の『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読み解く上で第一におさえておかなければならないキーワードは、非意味的切断である。これは、本書のメインテーマであるドゥルーズの「動きすぎてはいけない」という箴言が戒めるところの「動きすぎ」を抑制する役割を果たすと思われる非常に重要な原理だ。この最重要キーワードをきちんと理解できていないと、本書のほぼすべての議論が理解不能になると言っても過言ではない。だが、すでに出ている書評を読んだ限りでは、このキーワードがまともに理解されているとは到底思えない。とはいえ、いくつかのインタビューや対談を読んだ印象では、千葉自身、誤解されているのを承知の上でわざと放置しているようにも見える。
 
 もうすでに広く誤解されているが、千葉の言う非意味的切断とは、絶え間なく流れ込んでくる情報の洪水や、SNSによって際限なく広がっていく人間関係のネットワークから距離をとるために、インターネットやフェイスブックツイッターのやりすぎには注意しようというたぐいのメディア・リテラシーの技術のことではない。少なくとも本書の前半の議論を読む限り、非意味的切断とは、「快適な生活のため」や「無駄をなくすため」というような、なんらかの有意義な目的のためになにかを切断することではない。それでは有意味的切断になってしまう。
 
 では、非意味的切断とはなにか? 千葉自身の説明を読んでみよう。
 

 すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性finitude」のために、あちこちを乱走している切断である。特異な有限性のために偶発する非意味的切断は、「すぐれてクリティカルな体験」に劣らず、何らかの「本能」や「共同幻想」とされるものを、ズタズタに破砕する。*1

 
 つまり、非意味的切断とは、意図してなにかを切るという行為のことではなく、なんらかの行為や出来事の予期せぬ結果として、あるいは各人の能力の限界によって、意図せずなにかが切れるという事態のことであるらしい。それは偶然に起こることなのだから、そこに人間の意志や意図が関与する余地はない。人間の行為は非意味的切断に関与しないこともないが、非意味的切断はなんらかの行為が失敗ないし停止することによって生じる剰余や間隙のようなものだから、非意味的切断を引き起こすことをめざして行為することはやはりできない。ちょうど国分功一郎が『ドゥルーズの哲学原理』で言っているのと同じ意味で、「失敗をめざすことはできない」からだ。「失敗を目指すことはできない。失敗は、目指した途端、失敗ではなくなるからである」。*2非意味的切断は、それがめざされたとたんに有意味的切断に変貌してしまう。
 
 それでは、非意味的切断にはどのような意義があるのだろうか? いや、非意味的切断の意義というのはおかしいので、それにはどのような効用が期待できるのかと言い直すべきだろうか? とはいえ、そもそも非意味的切断とは、効用があるかどうかとは無関係に、とにかくただなにかが意味もなく切れるという事態のことを言っているのだから、私のこの問いそのものが見当ちがいのような気もする。いずれにせよ、このあたりからもうすでに私の理解は覚束ないものとなっていく。
 
 それはともかく、千葉の説明の続きを読もう。
 

 或る時点のTwitterのタイムラインに切りとられた不完全な情報によってふるまいを左右されかねない――掘り下げて調べる気力すらなく――といった痴態。あるいは、SNSのメッセージをひとつ見逃していて――疲労のために――、或る会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になること。意志的な選択でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる。ポジティブに言って、私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。モダンでハードな主体性からも、ポストモダンでソフトな管理からも逃れる中間地帯、いや、中間痴態を肯定するのである。*3

 
 これは本書全体のめざす目標を示したスローガンであり、これ以降の議論はおおざっぱに言ってこれはどういうことかということについての長い注釈である。だが、にもかかわらず、これは極めて難解な文章であり、正直言って私にはほとんど歯が立たない。
 
 まず素朴な疑問として、ここで千葉の勧める「中間痴態の肯定」は、準備もなく、反省もなく、ただ状況に流されるままに行動することとなにがちがうのだろう? 事実、たしかに私たちは、限られた、おそらくは不十分な情報をもとになにかを決定したり、選択したりしている。それはうまくいくこともあるし、失敗することもあるだろう。ここで千葉が言うところの痴態とは、その言葉のとおり、通常私たちがそうならないように気をつけている失敗や災難のことである。こうしたトラブルは、どんなに用心していても思いもよらないタイミングで私たちを襲ってくる。私の場合日常茶飯事だ。それを肯定するとはどういうことなのだろう? そういうものだと思って満足しろということだろうか?
 
 もちろん、常識で考えて、千葉がそんなバカなことを主張しているはずはないだろうとは思う。だが、少なくとも千葉の議論は、「情報不足で失敗しないように、より幅広い視野をもたなければならない」というたぐいの、常識に則った方向には進まない。
 
 千葉が挙げている例にならって言えば、ほかにもたとえば、ついうっかり録画するのを忘れて楽しみにしていたテレビ番組を見逃すとか、評判のパン屋に行ったら食べたかったクロワッサンがすでに売り切れていて買えないとか、朝寝坊をして飛行機に乗り遅れたせいで計画していた旅行に行けなくなるとかいったことも非意味的切断の事例に含まれるだろう。さらに、千葉の身体や精神の障害も非意味的切断の原因になるという主張をふまえて深刻な例を挙げれば、交通事故の後遺症で歩くことができなくなったり、病気で失明したりすることも非意味的切断の事例に含まれるはずだ。
 
 無論、こうしたトラブルは私たちにとってできるだけ避けたい事態だろう。むしろ、そうならないようにするためにこそ、私たちは常日頃時間をかけて様々な備えをするのではないだろうか? にもかかわらず、千葉はこうした痴態を肯定し、善用するのだと言う。それはいったいどういうことなのだろう? いや、これではいつまでたってもどうどうめぐりになるので問いを変えよう。非意味的切断の肯定ないし善用とは、いったいどうすることなのだろうか? 千葉の本を読んだ私たちはいったいなにをすればいいのだろうか? そもそもそれ以前に、私たちはなにかをしようとするべきなのだろうか?
 
 非意味的切断ないし中間痴態が、肯定し、善用するべきものだとすれば、それは進んで引き起こそうとするべきものなのだろうか? そう主張していると理解して差し支えないと思われる箇所は、本書にはそれこそ山のようにある。なにしろ、なにかを非意味的に切断せよと主張している箇所はすべてそう解釈するほかないのだ! 先ほど、非意味的切断を意図して引き起こすことはできないと言ったが、まえもってトラブルへの対策を一切しないことによって、それを引き寄せようとすることならできるだろう。では千葉は、進んでトラブルに遭遇するために、それに対する備えを一切するなと言いたいのだろうか? だが、そんなことをしていったいなんになるのだろう? さんざんひどい目に遭うだけで終わるのがオチではないだろうか?
 
 言うまでもないと思うがいちおう断っておくと、私は千葉がそんなバカげたことを主張しているとは思っていない。では、千葉は読者にいったいどうしろと言いたいのだろうか? それがいくら読んでもさっぱりわかないのだ。しょうがないので、この問題はいったん保留にして、次の論点に移ることにしよう。
 

偶然性について

 
 千葉によると、非意味的切断による情報の有限化はまったくの偶然によって起こることである。にもかかわらず、千葉はそれを善用するのだと言う。それはいったいどうすることなのだろうか?
 
 偶然をコントロールするということだろうか? もちろんそんなことはできるわけがない。第一、コントロールできるならそれは偶然ではなく必然である。となると、穏当に考えて、これは「たまたま与えられている有限な情報の範囲内でうまくやりくりする」という程度の意味であると理解するべきだろうか? だが、そうすると、情報の有限化が「中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害」によって起こるという主張との整合性や、先ほど見た例とのバランスが取れなくなるのではないかと思う。
 
 だいたい、突然予期せぬ災難に見舞われた人が、そうかんたんにそれを有効に活用できるような態勢をとれるだろうか? とれるとすれば、そうした出来事を予期していたときだけだろう。では、先ほどとは真逆になるが、いかなるトラブルに遭遇してもだいじょうぶなように備えを怠るなということだろうか? しかし、それを「偶然的な情報の有限化を善用すること」と呼ぶのはかなり無理がある。やれやれ、またしてもお手上げか!
 
 このままでは埒が明かないので、この問題も保留にして、千葉がほかに偶然性について説明しているテクストを読んでみることにしよう。
 

 偶々であるというのは、いかなる理由もなくそうである、解釈不能=非意味的であるということに他ならない。別のしかたの関係への変化は、純粋には、理由なしで、非意味的に、想像される――この自由=空間を、種々の理由・意味づけの方式(物理的な時空もそのひとつである)から分離して肯定するのである。*4

 
 ここで、この偶然性についての説明をふまえて、かなり強引だとは思うが、思い切って千葉が肯定すると言っているのは非意味的切断そのものではなく、それがもたらすであろう「別のしかたの関係への変化」のほうであると解釈することにしてみよう。そうすると、千葉の言う中間痴態の肯定とは、非意味的切断を新たな変化のチャンスととらえてポジティブに評価しようという程度の穏当な主張となる。そう考えてみると、千葉ははじめからずっとそう主張していたようにも思える。このように、非意味的切断のある一面のみを肯定しようというのならまだ私にもわからなくはない。非意味的切断それ自体を肯定するというのは、私はどう考えても不可能ではないかと思う。
 
 とはいえ、この考えにも問題はある。それは、別のしかたへの関係への変化をそれ自体として肯定するとはどういうことかを考えてみればすぐにわかるだろう。それは、どうなるかはともかくとして、とにかく変化することそれ自体を肯定するということにほかならない。実際、引用したテクストにおいて、千葉は意味のないたんなる変化に無防備に身を曝せと言っているようにも見える。
 
 もちろん、別の箇所で千葉は、名辞輪郭形象といった、無条件・無制限の変化にブレーキをかける原理の導入を試みる議論をしてはいる。第1章「生成変化の原理」の議論を確認しておこう。
 

 生成変化論では、「女性になる」「犬になる」といった具体性を、壊しすぎないように壊そうとしている。それが、まさしく「動きすぎないこと」であり、オーバードーズを回避してのトリップである。Nへの生成変化とは、名辞「N」の内容をくりかえし粉砕し、くりかえし仮に再規定することである。すなわち、Nの「分身double」、N’を増殖させることであり、それは、「N」に関する特定の解釈歴からズレることだ。生成変化は、歴史性からの超脱ではない。「道」を極めるのではない。生成変化は、歴史のディテールに対する多角的な批判・批評なのである。*5

 
 ここでぜひとも明確にしておかなければならないのは、なんにせよそうした千葉が論じている抑制の原理が、千葉が肯定するまったくの偶然で起こるそれ自体としてはなんの意味もないたんなる変化に、どのようにして影響を与えることができるのかという問題である。
 
 千葉が論じる生成変化を抑制する原理は、どのようにしてかはわからないが、いずれもなんらかのかたちで保持されなければならないものとして提示されている。ということは、ここで千葉の言う「壊しすぎないように壊そうとすること」とは、放っておけば生成変化する者の形象を壊しすぎかねない偶然の変化を、これまたどのようにしてかはわからないが、とにかくどこか限度を超えないところで断ち切ることを意味するはずだ。定義上なにが起こるかわからない突然の出来事に対して、はたしてそんな対応ができるだろうかという疑問もあるけれども、それをしようとすることくらいはできるかもしれないから、それはまあいいとしよう。問題は、どうやってそれをするのかということである。
 
 本書のそもそものテーマを尊重するなら、それは非意味的切断によってということになるのだろうか? 千葉のテクストからはそう言いたそうな雰囲気を感じるのだが、はっきりそう書いてあるわけではないのでよくわからない。だが、仮にそうだとすると、非意味的切断がもたらす予期せぬ出来事に、これまた偶然起こる非意味的切断で対抗するという理解しがたい主張をしていることになる。なので、たぶんそれはないだろう。とすると、「壊しすぎないように壊そうとすること」とは、偶然の変化がもたらす無制限の生成変化に主体の意志の力で抵抗するということだろうか? そう理解するほかないとは思うのだが、はたして千葉はそんな考えを認めるのだろうか?
 
 ふつうに考えれば、「壊しすぎないように壊そうとすること」とは、なにか壊したいと思うものを「壊しすぎないように壊そう」という意図ないし目的をもって行われるなんらかの行為である。実際、引用部で千葉は生成変化しようとする者の心得のようなものを説いているのだから、そう理解して差し支えなさそうな気もする。しかしそうすると、やはり最初のほうの非意味的切断論との、とりわけそれを善用するという議論とのつながりがさっぱりわからなくなる。
 
 少なくとも、「壊しすぎないように壊そうとすること」とは、非意味的切断ないし中間痴態を善用することと絶対に同じではないはずだ。なぜなら、千葉の言う非意味的切断の善用を、「非意味的切断がもたらす予期せぬ変化をきっかけとして利用して、よい変化を起こそうとすること」と理解してしまうと、「モダンでハードな主体性からも、ポストモダンでソフトな管理からも逃れる」という当初の非意味的切断の意義が台無しになってしまうからだ。だが、それでも私にはそう解釈するほかないように思われる。非意味的切断の善用とは、それを利用してなにかを切るという意味では絶対にない。少なくとも、非意味的切断の当初の定義にしたがえばそんなことは不可能だ。そうではないのだろうか? そうでないとすれば、それはいったいどうすることなのだろうか?
 
 また行きづまってしまった。話を変えよう。では、千葉が提示する抑制の原理を起動するのは主体の意志の力ではないと解釈することは可能だろうか? だがそうすると、「主体の意志ではないとすれば、いったいなにが「女性」や「犬」といった形象を保持するはたらきをするのか?」という、とてつもなくむずかしい問題が生じてしまう。「女性」や「犬」という名辞ないし形象を保持しようとするためには、最低限それを意識している必要はあるはずだ。そうでなければ、なにをしようとしているのかもわからないまま、ただやみくもになにかをすることになってしまう。
 
 ここであっさりドゥルーズ解釈の模範解答を示すなら、千葉が提示している抑制の原理を起動するものがあるとすれば、それは欲望だということになるだろう。だが、そう考えたとしても、それは主体化以前に作用する原因こそが原理の本質だと言っているだけで、実際のところ、それは各個人ないし各個体の主体性のはたらきを否定するものではない。というか、もともとドゥルーズはこうした意味での個体の主体性を否定してはいないと私は考える。ただ議論の重点を主体化以前の原理においていただけだ。器官なき身体も欲望のアレンジメントも、各個体の主体性を構成し、それを駆動する原理である。
 
 とはいえ、それはあくまでドゥルーズ解釈の模範解答の話だ。おそらく千葉はドゥルーズあるいはドゥルーズ=ガタリの欲望論を見落としているのではなく、敢えてそれとは別の道を模索しているのではないかと私は見ている。しかし、残念なことに、肝心のその別の道が、私にはまったく理解できないのだ。
 

超越論的愚かさについて――千葉雅也と國分功一郎

 
 ここで議論の補助線として、同じくドゥルーズの哲学を論じている國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』を参照しておこう。國分は、同書の第Ⅲ章「思考と主体性」において、人間に思考を強制する契機としてドゥルーズが挙げている「注意深い再認の失敗」に注目している。この注意深い再認の失敗に陥ることが、人間が「物質に付け加わる主体性」を獲得する契機になりうるのだと國分=ドゥルーズは論じる。
 
 では、國分の注目した注意深い再認の失敗を、千葉の言う非意味的切断に相当するものとして理解することはできるだろうか。これはおそらく可能である。國分と同様に、千葉も自著の第5章「個体化の要請」において思考の契機の問題を論じている。そこで千葉は、思考の契機としてドゥルーズが論じている「超越論的愚かさ」に注目している。
 

 ドゥルーズは、思考にまつわる否定性を二つに分ける。第一には、再認のミスにすぎない「誤謬erreur」であり、第二には、根本的な思考の不能ぶりを示す「愚かさ」である。愚かさは、思考にとって誤謬よりも深い脅威であるが、それゆえにむしろ愚かさは、思考の創造的な条件になりうる。出来事の不意打ちを受けて呆然となりうるという負の力こそが、愚かさである。*6

 
 これまで経験したことのない事態に遭遇して呆然としてしまう「超越論的愚かさ」と、これまでよく知っていると思っていたものが突然見知らぬもののように見えてしまう「注意深い再認の失敗」は、たしかにいずれも私たちの思考の契機になりうる。だが、問題は、それを思考のきっかけとして利用しようとすることができるかどうかである。國分は、そこにドゥルーズの実践の理論の限界を見ていた。
 

〈物質に付け加わる主体性〉は、注意深い再認の失敗によって発動するのだった。積極的意志によって担われる行為でも確かに主体性は生み出されるが、それは少しも新しさをもたらすことのない第一の主体性に陥る他ない。したがって、必要なのは、新しさをもたらす第二の主体性、〈物質に付け加わる主体性〉である。しかし、失敗を目指すことはできない。失敗は、目指した途端、失敗ではなくなるからである。そして、この問題点は、そのまま思考の理論にも跳ね返るだろう。思考は、出会いによって強制されて初めて生まれる。したがって、思考することを目指すことはできない。出会いは目指せない、出会いは期待が失望に陥ることによってしか起こらないからである。期待どおりのものに出会えたなら、それは出会いではない。*7

 
 以前にも書いたように、私は國分のこの主張に必ずしも賛成ではないが、この限界は、非意味的切断の偶然性を強調する千葉の議論にはそっくりそのままあてはまるのではないかと思う。実際、千葉は同じ第5章において、超越論的愚かさに直面する事態として、次のような事例を挙げている。読めばわかるとおり、めざせるかめざせないか以前に、こうした事態を引き起こそうという主張そのものが問題外だし、おそらく千葉もそんなことは言っていない。
 

 急に利き腕が不自由になった者は、「利き腕を使わずにストレスの少ない生活をするにはどうしたらいいか」と、憂鬱や幻覚に見舞われた者は、「この悪夢が去るまでをやりすごすにはどうしたらいいか」といった問題=理念において生きるだろう。これらを「解く」こと、解を出すというのは、潜在的な諸関係=比の絡まりに応じる、一定の身構えをつくることに他ならない。*8

 
 ここで私たちは、ふたたび非意味的切断ないし中間痴態ないし超越論的愚かさを「善用」するとはなにをすることなのかという問いへと連れ戻されることになる。上の引用部を読む限り、千葉は「突然の予期せぬトラブルをうまく解決する方法を考えなければならない」という一般論以上のことを言っているようには思えない。となると、「中間痴態の肯定」とは、「トラブルを、それを解決する方法を考えるチャンスとみなす」ということだろうか。まさかとは思うが、もしかしてほんとうにそれだけのことを言うためにあんなわかりづらい書き方をしていたのだろうか?
 
 もしも仮にそうだとしても、そのトラブルを解決する方法は、そのとき、その場で考えられはじめるほかないはずだ。それは非意味的切断の定義上そうでしかありえないことである。まえもって準備できるなら、それはそもそも予期せぬトラブルでも非意味的切断でもない。だから、もちろん超越論的愚かさに直面することもない。だがそれでも、本書で千葉が行っている一連の考察は、こうした不意のトラブルに対処するための事前準備であると理解されなければならないはずだ。そうでないとすれば、この千葉の論考は、少なくとも実践の理論としては、まったく役立たずのものでしかないことになるだろう。いや、そもそも、そうでないとすれば、千葉はいったいなんのためにこの本を書いたのかという話になる。
 
 とはいえ、千葉の論考を定義上予期しえぬトラブルに対処するための事前準備とみなすならば、千葉は「根本的な思考不能状態に陥ったとき、私たちはどのように思考するべきか」というパラドクシカルな難問と取り組まなければならないことになるだろう。あるいは、もうすでに取り組んだ結果がこの論考なのかもしれない。そこで改めて確認しておきたいのは、先ほど見た、名辞、輪郭、形象といった生成変化を抑制する原理と、超越論的愚かさとの関係である。
 
 千葉は、超越論的愚かさとは、予期せぬトラブルに遭遇し、呆然とすることだと言っていたが、そのときみずからを「壊しすぎないように壊す」、あるいは「動きすぎないように動く」ことができるためには、みずからの形象を維持する抑制の原理を、どうやってかはわからないが、とにかくなんらかのかたちで活用できる程度には賢くなければならないのではないだろうか。予期せぬトラブルに直面し、呆然とする程度には愚かでありながら、自失しない程度には賢くあること。この「自失しない程度の賢さ」を身に着けるにはどうすればいいのか? また、それを活用するとはどうすることなのか? それがわからないことには、千葉が取り組んでいる問題についてなにも理解したことにはならないだろう。
 
 それにしても、読めば読むほど、考えれば考えるほどわからなくなってくる! ここまですでにずいぶん長々と書き続けてきたにもかかわらず、いまのところ、まだまともに理解できたと思える箇所はほとんどない。まったく、これは恐るべきことだ! 少なくとも、最初に確認した非意味的切断の意味くらいはちゃんとわかっているつもりだったのだけれども、それも読み進んでいくうちにだんだんと自信がなくなっていく。とりわけ、非意味的接続とセットで論じられているところはさっぱりだ。
 
 なにもかも中途半端なままで申し訳ないが、わからないわからないとダラダラくり返していてもしょうがないので、このへんでやめることにしよう。気が向いたらまた続きを書くかもしれない。
 

*1:千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社,2013年,p.36

*2:國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書,2013年,p.114

*3:千葉前掲書,pp.37-38

*4:同前,p.99

*5:同前,p.68

*6:同前,pp.234-235

*7:國分前掲書,p.114

*8:千葉前掲書,p.238