平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

國分功一郎の迷走――國分功一郎/宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」を読む1

 いつまでもブログをほったらかしにしておくわけにもいかないので、最近読んだ『PLANETS vol.8』に掲載された評論家の宇野常寛による哲学者の國分功一郎へのインタビュー「いま、消費社会批判は可能か」の感想でも書いておくことにしよう。
 

PLANETS vol.8

PLANETS vol.8

 
『思想』に連載されている國分の「ドゥルーズの哲学原理」はすべて読んでいるのだが、私はいまこうした理論についての論考にまったく魅力を感じないので、それについてはなにも書く気がしない。「そうやって考えたことを活かしてあなたは明日からなにをするんですか?」と聞かれてもろくに答えを返せないようなことをだらだらと考えているのは、ただの現実逃避じゃないかとさえ思う。倫理学ないし政治哲学の理論上の考察とは、あくまで実践の準備にすぎないものだ。いったい私たちはいつまでぐずぐずと生きることの準備をし続ければいいのだろう。私たちはすでに生きているというのに?
 
 國分はこの連載を土台に自身の政治哲学を立ち上げようとしているようだが、それに期待がもてそうかどうかは、最後まで読んでみないことにはなんとも言えない。いや、正直に言うとあまり期待はしていない。というのも、実際にいくつかの市民運動にコミットしている國分が、ドゥルーズの哲学からなにか実効性のあるアイディアをつかんでいるのなら、出し惜しみなどせずにとっくに自身の活動に活用しているはずだが、私にはまったくそんなふうには見えないからである。ネットを活用しているとはいえ、國分の活動の仕方そのものはこれまでどおりのごくごくスタンダードな市民運動だ。
 
 そうした地道な活動に文句をつけるつもりはないが、それでも「方法の哲学者」である國分功一郎の哲学が旧来のやり方を変える役に立っていないことにはがっかりしたと言いたくはなる。とはいえ、役に立っていないように見えるのは、まだ國分の準備が充分に整っていないせいなのかもしれない。いまは國分の準備が手遅れにならないことを祈る。
 

『暇と退屈の倫理学』以降の展開

 
 前置きが長くなったが、本題に移ろう。今回のインタビューの内容は、昨年の『すばる』2012年2月号に掲載された両者の対談「個人と世界をつなぐもの」の延長戦といったところだ。とはいえ、今回は対談ではなく宇野によるインタビューの形式をとっているため、内容は國分の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)についての議論が中心である。ページ数は少ないが、〈消費〉と〈浪費〉を区別するという従来の主張に加え、最近國分が注目しているというハイデガーの「放下」の話や文法の「中動態」の話なども織り交ぜたそれなりに密度の濃い内容だったとは思う。
 
 とはいえ、「放下」にしても「中動態」にしても、漠然としたアイディアの提示に留まっており、それらをふまえたもう少し具体性のある提案なりヴィジョンなりを期待していた私には不満な内容だった。もっとも、最近は哲学にそれを期待することそのものがまちがいかもしれないと思いはじめているのだが。それに加えて、そうした新しいトピックが、『暇倫』で提示された概念とどう結びつき、それをどう発展させていくのかもまだよく見えてこない。それは今後の課題ということだろうか。
 
 だが、そもそも私にはそれらがそんなに目新しい概念だとも思えない。たとえば國分は、ハイデガーの「放下」を「落ち着き」や「最適解」と読み替えているが、これは要するに「バランスが取れてうまくいっている状態」のことだろう。だったらハイデガーがどうのとか中沢新一がどうのとか言ってないではじめからそう言えばいいのではないか。こうしたなんでもないキーワードまで署名つきのものとして仰々しくありがたがるふるまいは、哲学の外にいる人間にはいやらしい権威主義にしか見えない。そして言うまでもなく、ものごとの最適な状態をめざすのは当然のことである。だれがそれに反対するだろう? 問題はどうすればそれがわかるのかということだが、この短いインタビューにそこまでの内容を要求するのは酷だろうか。
 
「中動態」について言えば、私は國分の「僕たちは能動態と受動態しかない言語に慣れきっているので、その発想に基づいて、行為にも能動的な行為と受動的な行為しかないと思ってる」*1という現状分析はただの國分の思い込みだと思う。この手のあやしげな印象批評を軽率に口にしてしまうのは人文系言論人の悪い癖である。そもそも、日本語には能動態と受動態しかないというのは正しいのだろうか? 百歩譲ってそうだとしても、日本語では國分が「中動態」と呼ぶような事態を表現することはできないのだろうか? だとすれば、國分が「楽しむ」ことを例に試みている「能動でも受動でもなく両者があわさった状態」の説明はいったいなんなのか? どうして私たちはその説明を理解できるのだろうか? ざっと思いつくだけでこれだけ疑問が浮かんでくる。
 
 だが、そんなことは些末な問題だ。大事なのは、「中動態」という概念が提示されることによって、これまで盲点となっていたどのような問題が可視化され、そのことは私たちのものの見方やふるまいをどのように改善するのかということである。この点について、前提となる國分の問題の現状認識はまちがっていると思うが、それはおくとしよう。國分の例に則して再度確認すれば、重要なのは、「中動態」という概念の認識は、私たちがより上手にモノやサービスを楽しんだり、より頻繁に楽しいことを見つけたりすることにどう役に立つのかということである。
 
 私には「中動態」という概念を知ること自体がその役に立つとは到底思えないが、國分にはなにかいいアイディアがあるのだろうか? それに加えて、前回さんざん宇野に批判されたにもかかわらず、國分が自身の消費社会に対する認識をまったく改める気がないようなのも気にかかる。自身の議論が立脚する土台を再点検しようともせずに次々と新しい概念を取り入れてみたところで、果たして有意義な考察ができるのだろうか?
 

空転する現代社会批判

 
 私たちの生活や習慣に対するアドバイスにはまったく踏み込まないまま、國分の中動態論はなぜか自己決定批判に繋がっていく。どうして突然この話題を出す必要があるのか不可解だが、ひょっとして國分は、「社会の要請」によって人々がなにを楽しむかを自分で決めることを要求されていることが問題だと言いたいのだろうか? もしもこうした路線で中動態論を消費社会批判に結びつけることを考えているのなら、絶対に失敗するだろうからやめたほうがいい。しかも、おそらくそれはこのインタビューでも宇野が批判している『暇倫』の失敗の上塗りにしかならない。資本の側が消費者をコントロールしているというたぐいのステレオタイプの消費社会批判はさっさと放棄すべきである。
 
 役に立つ提案がなにもないことについては國分ばかりを責めるわけにはいかない。國分の議論を受けての宇野のまとめはもっとタチが悪い。引用しよう。
 

 社会はある種の必然性から、「中動態」的な本来的人間像をあえて狭めてきた部分がある。しかし現代では、逆に規模の問題としてそれでは社会が成り立たなくなっている。この場合の規模というのは、人口ではなく情報量の問題です。価値観の多様化や情報量の増大、社会・行政の複雑化で今までの人間観では対応できなくなっているんですよね。だからこれからは「中動態」に直接アクセスするようなテクノロジーが大事だし、そこに根ざした社会制度なり公共性を考えていかなければならない。*2

 
 宇野は自分がなにを言っているのかほんとうにわかっているのだろうか? このまとめは、たとえば「中動態」の代わりに「動物」とか「無意識」とかいったお好みのキーワードを入れたとしてもそれらしい文章になるだろう。つまりまったく中身がないのだ。私は宇野の言う「「中動態」に直接アクセスするようなテクノロジー」や「「中動態」に根ざした社会制度なり公共性」なるものがどんなもので、それはいままでの制度とどういうところが異なり、それにはどんなメリットがあるのかまったくわからないが、宇野とそれに応答している國分にはわかっているのだろうか? わかっているのなら、少しくらいそれをここで説明してくれてもいいのではないか。AKB48食べログのどこが「人間観の更新」*3なのか。宇野は気は確かなのか?
 
 そしていつも思うのだが、「考えていかなければならない」という約束はほんとうに果たされるのだろうか? この手の約束というのは、大抵の場合、アイディアがなにも浮かばないときに濫用される逃げの常套句にすぎない。しかも、これはけっきょくのところ「考えていかなければならない」という決意を表明しているにすぎないのだから、考えた結果なにも結論が出せなくても嘘をついたことを責められる心配もない。結果を出すことから逃げ、なおかつ結果を出すことを約束しないという、二重の意味で空虚な言葉だ。
 
 こうした空約束の積み重ねが、哲学者や評論家の言葉が軽んじられることの原因となってきたのである。
 

ソリューションなき啓発活動

 
 この手の議論について、最近読んだシノドスの評論家の荻上チキの『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想』(幻冬舎新書)にとても大事なことが書いてあったので紹介しよう。
 

 僕は、啓発事業の大半に関しては、効果はほとんど見込めないと思っています。そもそも「それは啓発する必要あるの?」ということが大多数だからです。
 もちろん、啓発活動がすべて駄目だといっているわけではありません。確かに、啓発事業こそが大事な局面もたくさんあります。
 たとえば、住居がない人向けの支援や、暴力にあって困っている人向けの支援を作り、それを当事者にどんどん利用してもらえる状況を作るためには、連絡先を記載したパンフレットやチラシ・ポスターなどを活用する必要もあります。
 つまり、ソリューション(解決案)と当事者との間にある、〝ラスト1マイル〟を埋めるための政策としては、広報も重要だということです。ただし、具体的な解決策が何もない中で、啓発ばかりを重視するのはいただけません。*4

 
 あらためてこれを読んで、國分と宇野がしていることとはいったいなんなのだろうとちょっと考え込んでしまった。議論は公共政策のあり方にまで及んでいるにもかかわらず、いまの社会のしくみをどう変えるべきかについての具体案どころか、それ以前のいまの社会のしくみのどこがどう問題なのかさえはっきりしない。自己決定がダメだと言うのなら、いま現実に自己決定が求められるどの制度のなにが問題で、それをどう変えるべきなのかを言わなければ意味がないだろう。ソリューションどころか、問題の所在さえあいまいなまま啓発活動だけをしてみたところで、有意義な成果が得られるはずがない。
 
 もう一度繰り返そう。國分と宇野がしていることとはいったいなんなのだろうか? このインタビューはなんのための、なにを実現するための活動なのだろうか? いや、その目的がなんであれ、そもそもこのインタビューはほんとうにそれを実現する役に立つのだろうか? いったい國分と宇野は、読者にどうしてほしくてこのインタビューを世に問うているのだろうか? これは批判のための修辞疑問ではない。ほんとうに私にはそれがわからないのである。
 

情報社会と〈浪費〉の訓練

 
 もっとも、國分はともかく、宇野のほうは現代消費社会がどうあるべきかについて自身の見解を述べてはいる。
 

 社会設計なんかしなくても、國分さんが批判しているような〈消費〉の文化ってどんどん力を失っていて、それはテレビの広告収入や視聴率といったかたちで如実に数字に表れていますよね。情報技術の発展が人間の快楽を大きく〈浪費〉側に傾けていて、〈浪費〉のほうが快楽が大きいからそちらに自然に流れていって自動解決されていくんじゃないでしょうか。*5

 
 以前にも書いたとおり、私は國分が批判しているような消費文化というのはインテリの頭のなかだけの妄想であり、現実社会に存在したことは一度もないと考えている。それを除けば、私はこの宇野の見解に必ずしも反対ではない。ただ、だったら「「中動態」に直接アクセスするようなテクノロジー」や「「中動態」に根ざした社会制度なり公共性」について考えていかなければならないと言っていたのはなんだったのかとは思う。適当に國分に話をあわせていただけだったのか。
 
 それを不問としたとしても、私は宇野のように「いまの情報社会こそが最適解だから放っておいてかまわない」と言ってしまうことには躊躇がある。なぜなら、情報社会のなかで思う存分〈浪費〉を楽しめる人というのは、充分な情報リテラシーを身につけていて、少なくとも生活に不自由しない程度に収入のある人に限られるからだ。情報リテラシーがなければ真偽の定かでない無数の情報のなかで右往左往させられるだけだし、お金がなければ利用できるモノもサービスも限られてしまう。
 
 言うまでもなく、情報リテラシーはなにも考えずにただ漫然と情報を追いかけていても身につくものではない。それを身につけるには國分が言っているのとはちがう意味で訓練が必要である。一応國分の提案する訓練とのちがいを強調しておくと、國分の言う訓練とは「ものの楽しみ方を学ぶこと」を意味するようなのだが、これは人が他人に教えることのできるものではない。私の言う訓練とは、「自分の欲しいものを知ること」である。
 
 これは「自分の好きなものを知ること」と重なるがまったく同じではない。ファッションを例に考えるとわかりやすいと思うが、シャツでもパンツでも、それを買うとき、自分の趣味にあうかどうかはともかくとして、とにかくどんなものがあるのかをまずは徹底して調べることが大事である。この種の「買うまえに知っておくべきこと」は知識として一般化できるし、チェックリスト化して人に教えることもできる。もちろん、きちんと調べた上でなにを選ぶかは本人次第だ。というより、「自分の欲しいもの」や「自分の好きなもの」は、どんなものがあるかを調べているうちにおのずとわかるものである。
 
 以上のように、〈浪費〉を楽しむ方法は、ある程度は習得可能な知識として一般化できるし、情報としてそれを共有することも可能である。私の提案はどこまでも自己決定の枠内でのアイディアなので、そうした知識をできるだけ多くの消費者が共有することをサポートする社会環境づくりも必要かもしれないが、それには現在整備されているSNSなどの情報環境が充分な役割を果たしているようにも思える。となると、やはり宇野の言うとおりなのだろうか。
 
 だとしても、情報社会の恩恵に与ることのできない人たちをどうするかという問題は残る。だがそれについては、私には「義務教育課程での情報教育を充実させるべきだ」という程度のことしか言えない。しかし、いったいだれにお願いすればそうした動きが進むのだろう。そう考えると、私は途方に暮れるしかない。
 

折衝が大事だとは言うけれど

 
 どうでもいいことだが書きたいので書いておくと、先ほど引用した宇野による「中動態」論のまとめのすぐあと、話題はなぜか「選挙とデモの中間の回路をどう確保していくのか」*6という問題に移ってしまうのだが、それは「中動態」の話となんの関係があるのだろうか。「中動態」は「なにかとなにかの中間」ということではなかったはずだ。それに対する國分の「市民と行政という対立ではない、中間で折衝する専門知を持っている人が非常に大切」*7という見解も「中動態」とは無関係である。いや、関連を見つけようと思えばできるかもしれないが、そんなことに意味があるとは思えない。もちろん、私も含めてこの國分の考えに反対する人はだれもいないだろう。だが、私たちはこんなあたりまえのことをわざわざ哲学者のセンセイに教えていただく必要があるだろうか?
 
 國分は折衝が大事だとは言うけれども、そう言う自分はほんとうに折衝をする気があるのだろうか? 実際、前回と今回の國分と宇野のやりとりを見ていても、表面上はお互いの主張のいいところを認めあっているように見えて、いちばん大事な論点では明らかに対立することを避けている。いや、はっきり言おう。私には國分が自著の誤りを認めたくないがために意地になっているように見える。だからけっきょく議論は平行線のままで、一向に進展する気配がない。同じテーマで二度も対談しているのにである。いったいなんのための対談なのか? お互いが納得できる結論に到達しようという気はないのか?
 
 仲よしのお友だち同士のあいだでさえ認識を共有することができないのに、果たして利害の対立する相手と折衝することなどできるのだろうか? 折衝が大事だというのはそのとおりだが、大事だと思うのならまずは自分が「やってみせる」べきではないのか? 私はオピニオンリーダーが「やればできる」ことを読者に見せることは、それ自体で充分に教育の効果があると思う。次回の対談があるのなら、ぜひそれを私に見せてほしい。
 

参考文献

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

すばる 2012年 02月号 [雑誌]

すばる 2012年 02月号 [雑誌]

新潮 2013年 02月号 [雑誌]

新潮 2013年 02月号 [雑誌]

*1:國分功一郎宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」『PLANETS vol.8』第二次惑星開発委員会,2012年,p.194

*2:同前,p.194

*3:同前,p.194

*4:荻上チキ『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』幻冬舎新書,2012年,pp.106-107

*5:前掲「いま、消費社会批判は可能か」,p.195

*6:同前,p.194

*7:同前,p.194