平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

克服すべき失敗作――國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を読む1

 哲学者の國分功一郎によるドゥルーズ論『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)は、『思想』の連載で全部読んでいたので、単行本で新たに書き足されたところをざっと読んで放置していた。
 

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

 
 思えば、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)以来、國分の仕事にケチをつけてばかりいる。私としては、ただおかしいと思ったところや疑問に思ったところをそのとおり書いているだけなのだが、それがほかの人にどう見えているかはわからない。私も、そんなつもりもないのにムキになって國分を目の敵にしているとは思われたくない。だから、しばらく國分の仕事に言及するのを控えていた。まあ、仕事が忙しくてブログを更新するどころではなかったのだが。
 
 だが、そうこうしているうちに『ドゥルーズの哲学原理』の単行本が刊行され、以前に書いた『思想』の連載第1回目の書評を読みにきてくださる方が増えた。あの記事は、『思想』に新しい回が掲載されるたびに続きを書こうと思っていて、途中で放り出したものだ。めんどくさくなったのである(笑)。しかしこのまま放っておくと、私の『ドゥルーズの哲学原理』に対する感想は、あのときの書評のままということになってしまう。それはまずい。ということで、遅ればせながら、ようやくあの記事の続きを書く気になったというわけだ。
 
『思想』の連載第1回目の書評に、私は「第一級のドゥルーズ入門書の完成を予感させる」などと書いたが、撤回する。本書でドゥルーズの哲学に入門するのはお勧めできない。本書は、ドゥルーズの解説書としてはこれまでになくわかりやすいすぐれた本であることはまちがいないが、気をつけながら読まないと、著者のおかしな考えに誘導されてしまう困った本である。非常に難解な概念を明快に解説しているいいところもたくさんあるだけに、この欠点は厄介だ。この欠陥のせいで、哲学の入門書として気軽に人に薦めることもできない。ほんとうに残念である。
 
 本書がどういう内容かをざっと知りたい方は、すでに見事な要点整理をしている方がいるので、そちらを読んでみてほしい。特に、本書を未読の方は、先にそっちを読んでおいたほうが私がこれから書くこともわかりやすいと思う。
 

 
 では、國分の議論のどこがどうおかしいのか、順番に見ていこう。誓って言うが、私ははじめから「なにがなんでもケチをつけてやろう」などと思って読んではいない。國分に期待していたというのも嘘ではない。それだけは信じてほしい。
 

自由間接話法は思考の方法ではない

 
 本書の第Ⅰ章において、國分は、自由間接話法はドゥルーズが論述対象となる哲学者の思考のイメージに到達するために採用した方法であると主張しているが、これはまちがいである。
 

 我々が今、問題にしている自由間接話法の多用は、この思考のイメージに到達するために導入された方法だと考えられる。思考のイメージに到達することは、論述対象となっている哲学者が語っていることだけを論じているのでは実現しない。論述対象となる思考が定位している平面に論述そのものが定位しなければならないのである。そのとき、論じる者と論じられる者の区別は限りなく曖昧になる。それを曖昧にすることで、ひと息に論述対象の思考のイメージへと遡るのだ。*1

 
 理由は単純だ。試しに、自分でだれかの考えを解説する文章を書こうとしてみればわかると思うが、論述する対象の思想をきちんと理解していないと、そもそも説明すること自体ができないはずだ。それは当然、直接話法で書くときであろうと、間接話法で書くときであろうと、自由間接話法で書くときであろうと、事情は変わらない。したがって、自由間接話法によって論述対象の考えが説明できるようになるためには、書き手はあらかじめ論述対象の思考のイメージに到達していなければならない。つまり、自由間接話法は、思考のイメージに到達するための方法ではなく、思考のイメージに到達することによってはじめて可能になる表現形式なのだ。この意味で、國分の理解は完全に転倒している。
 
 朝日新聞の書評で、作家のいとうせいこうがこともあろうに國分のこの説を評価しているのを見て、唖然としてしまった。
 

 著者はバディウの指摘した、ドゥルーズにおける自由間接話法の多用から話を始める。他者の発言をカッコにくくらず、「と言った」とも受けず、裸のまま地の文の中に置く手法である(この評の冒頭、3行目「特に」以下がそれにあたる。「我々の多く」がそう言うのか、書く私の発言なのか、決定不能になる)。
 すると、評する主体と評される主体は交じり合う。まるで相手の考えの奥に潜り込むようにして、ドゥルーズは対象を思考する。

相手の考えの奥に潜り込む|好書好日

 
 そもそも、思考とはどのような活動なのだろうか? それは純粋な意味では、意識に言葉を生じさせる以前に起きている頭のはたらきのことである。意識に生じる言葉、あるいは紙に書かれた言葉でも同じだが、それは厳密に言えばあくまで思考の結果であって、思考そのものではない。だが、意識に生じる言葉を意地になって思考と呼ばないことにすると説明がとても大変になるので、ここでは、言葉を生じさせる以前に起きている頭脳のはたらきを「思考そのもの」、言葉によって展開された思考内容を「言葉による思考」、それらをあわせた全体を「思考」と呼ぶことにして話を進めよう。
 
 思考とは、表現されるべき対象や内容を意識のなかで言葉に置き換えていく過程のことである。人間には、自分がなにを知っているのか、なにを考えているのかを一度言葉にしてみないと自分でもわからないという奇妙な性質がある。このとき、自分のなかにある「考え」そのものは、言葉になる以前から頭のなかに存在している。おかしな考え方だと思うかもしれないが、でないと言葉による思考は生じようがない。
 
 では、言葉によって表現される思考内容は、どのように私たちの頭に生じるのだろうか。それは、「知る」、「わかる」、「気づく」といった契機によってである。それは「わかった!」という自覚として私たちに経験される。こうした出来事が起こることによってはじめて、言葉による思考は可能になるのだ。「思考そのもの」とは、そうした「発見」や「気づき」を起こそうとする頭のはたらきのことである。
 
 それはどのように頭を使うことなのかを説明するのはむずかしい。それはちょうど、手足を動かすときの脳のはたらきに似ている。脳はたしかに手足を動かしているのだが、それをどう動かしているのかは説明できない。「思考そのもの」についても同じことが言える。それはコンピュータの画面には表示されないけれども動作しているシステムのようなものだ。そういえば、職場の先輩の女性が、パソコンのシステムの起動中に表示される砂時計のマークを見て、「あ、考えてる」と言っていたことがあった。それだ。
 
 私たちが通常思考だと思っている思考、すなわち「言葉による思考」とは、「知ったこと」、「わかったこと」、「気づいたこと」が意識のなかで展開されることである。この展開のプロセスそのものが、なにかを発見する方法であるかのように私たちが錯覚するのは、その過程において新たに「知る」、「わかる」、「気づく」という出来事が起こりやすいからだ。私たちは、意識のなかで考えを展開しながら、刻々となにかを思いつき、そうして思いついたことをまた次々と言葉にしていく。
 
 だが、これはあくまで思考がうまくいった場合のモデルであり、意識のなかでいくら考えを展開してみても、一定の思考内容を展開し終えたところで行きづまってしまい、まったく進展しなくなることはよくある。どうしてこうした失敗が生じるのかというと、それは思考の過程で「発見」や「気づき」が起こらなかったからである。思考がうまくいくかいかないかは、その展開の過程で、「発見」や「気づき」が順調に起こるかどうかにかかっている。なにも思いつかなければ考えは浮かばない。当然だ。だからもちろん、それは起こそうと思って起こせるものではない。思考を「発見」や「気づき」の手段としてみるならば、その意味での思考に一般化できるような方法は存在しない。
 
 自由間接話法には、書き手の考えと論じる対象の考えの区別が曖昧になることと、文章がかっこよく見えること以外に、効用と呼べるようなものはないと私は思う。自由関節話法で書かれると、読み手はその箇所がだれの考えを述べたところなのかいちいち判断しながら読まなければならなくなるのだから、わかりにくくなることはあっても、わかりやすくなることはない。ドゥルーズがそうだったかどうかは知らないが、自由間接話法で書いたほうが「発見」や「気づき」が起こりやすいという人はいるかもしれない。とはいえ、もちろんそれはだれにでもあてはまることではない。
 
 まとめというほどのことでもないが、もう一度確認しておこう。まず「わかる」という経験が起こって、それから「わかったこと」が語れるようになるのである。あたりまえのことではないだろうか? だが、『スピノザの方法』(みすず書房)を読んだときも、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)を読んだときも思ったことだけれども、どうも國分はこういう考え方を理解するのが苦手なようだ。『スピノザの方法』のときは、そのせいで肝心の『エチカ』の読解がおかしくなっていたし、『暇倫』のときは、そのせいでハイデガーの読解がめちゃくちゃになってしまっていた。今回のドゥルーズの自由間接話法もそうだ。どれも無視できない大きなミスである。はやく苦手を克服してほしいと思う。
 
 ところで、引用部で國分は、「論じる者と論じられる者の区別を曖昧にすることで、ひと息に論述対象の思考のイメージに遡る」と言っているが、これは「論じる者と論じられる者の区別を曖昧にすれば、ひと息に論述対象の思考のイメージに遡れる」という主張だと理解していいのだろうか? だとすればとんでもないことである。だが、これを「論じる者と論じられる者の区別を曖昧にすれば、論述対象の思考のイメージに遡りやすくなる」という穏健な主張として理解するとしても、私にはとても同意できない考えである。
 
 いや、そもそも國分は、「ドゥルーズみたいに自由間接話法をたくさん使って文章を書くようにすれば、うまくものごとを考えられるようになる」というようなことが言いたいのだろうか? そう主張しているとみなして差し支えないように思えるが、はっきりとそう書いてあるわけではないので、この点について國分を批判するのはやめておこう。だが、もしそのとおりなのならば、考え直したほうがいいと思う。
 

思考の方法と思考の偶然性は両立するか

 
 國分によるドゥルーズの自由間接話法の解説は、思考についてのドゥルーズの理論を説明した第Ⅲ章における次のような箇所と両立するだろうか?
 

 人は思考するのではない。思考させられる。思考は強制の圧力によってのみ開始されるのであり、それを強制するシーニュは常に偶然の出会いの対象である。
 ここで問われているのは、思考の発生の問いである。ものを考えるという事態は、いかにして発生するのか? ドゥルーズはそれを「暴力」や「強制」との「偶然の出会い」によって説明する。人はものを考えようと思って考えることはできず、何かに強制されて初めてものを考える、と。*2

 
 人は、思考を強いるものと出会わなければものを考えることはできない。人は、思考を開始するきっかけとなるような予期せぬ徴候(シーニュ)と偶然出会うことによって、これまで気づかなかったことを発見させられる。あるいは、これまでおかしいと思わなかったことに疑問をもたされる。そうして、人は「発見したこと」や「疑問をもったこと」について考えを展開しはじめるのだ。ここで言う「思考を強制するもの」との出会いは、さっき私が説明した「わかる」という出来事に近いだろう。
 
 思考の発生は、意識それ自身の努力によって避けることも抵抗することもできない。その意味では、あらゆる思考は強制であり、暴力であると言えなくはない。とはいえ、それは私たちにとって必ずしも不快なものではない。それを「強制」だの「暴力」だの「不法侵入」だのと言って大げさに騒ぎ立てるのは馬鹿げていると私は思うが、それはまあどうでもいいことだ。問題は、最初に書いたとおり、このような意味での思考の受動性や偶然性と、ドゥルーズの自由間接話法についての國分の説とのあいだの整合性である。
 
 國分はドゥルーズに倣い、「思考を強制するもの」との出会いの偶然性と予測不可能性を強調している。
 

〈物質に付け加わる主体性〉は、注意深い再認の失敗によって発動するのだった。積極的意志によって担われる行為でも確かに主体性は生み出されるが、それは少しも新しさをもたらすことのない第一の主体性に陥る他ない。したがって、必要なのは、新しさをもたらす第二の主体性、〈物質に付け加わる主体性〉である。しかし、失敗を目指すことはできない。失敗は、目指した途端、失敗ではなくなるからである。そして、この問題点は、そのまま思考の理論にも跳ね返るだろう。思考は、出会いによって強制されて初めて生まれる。したがって、思考することを目指すことはできない。出会いは目指せない、出会いは期待が失望に陥ることによってしか起こらないからである。期待どおりのものに出会えたなら、それは出会いではない。*3

 
 補足すると、「再認の失敗」とは、見慣れたものがいつもとはちがった見え方をすることである。「いつもと同じように見えない」から「再認の失敗」だというわけだ。それが新しいものの見方が生まれるきっかけになるのだ。
 
 ドゥルーズは、この新しいものの見方のことを「物質に付け加わる主体性」と呼んでいるが、どうしてドゥルーズがこんな仰々しい言い方をするのかというと、ドゥルーズは、おおよそ意識のなかだけの現象にすぎない意志が、どのようなかたちであれ人間の行動を決定するという考えを認めないからである。典拠を示そう。引用はドゥルーズの『スピノザ――実践の哲学』(1981年)からである。
 

 私たちは、みずからの身体に「起こること」、みずからの心に「起こること」しか、いいかえれば他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることができないような境遇に置かれているのだ。*4

 
 ドゥルーズが言うように、思考とは「起こる」ものであり、意志の力によって「起こす」ものではない。それは思考内容それ自身が、あたかも啓示を与えるようにして意識にみずからを開示することによってはじめて可能になるものだ。「わかる」とはそのような現象である。問題は、本書において國分がドゥルーズのテクストのなかから発見し、定式化しようと試みている思考の方法は、まさにこの物質に付け加わる主体性を発動できるようにする方法でなければならないということだ。
 
 では、本書の第Ⅰ章で國分が論じていたドゥルーズの自由間接話法は、そのための方法だったのだろうか? 國分がそうだと考えているのなら、自由間接話法はほんとうにそのための方法たりえているか否かを検証する必要があるだろうし、そうでないと考えているのなら、「では、あの自由間接話法の話はなんだったのか?」という疑問が当然生じるはずだ。私は、この点に疑問をもたずにすんなりと本書の議論を受け入れてしまえる人がいることが信じられない。ほんとうに「読んで」いるのだろうか? ただ書いてあることを鵜呑みにしてしまうだけの人には哲学の才能などないだろうから、こういう本を読んでも無駄である。
 
 あとから説明されるように、國分は、ドゥルーズの自由間接話法には、ドゥルーズからドゥルーズ=ガタリへの方法上の転換を可能にするという重要な役割があったとみている。それほど重要な思考の方法と、第Ⅲ章で提示された思考の理論との繋がりがわからないままでは、方法についてなにも明らかになっていないに等しいのではないか? この思考の方法と思考の理論との関係のあいまいさは、第Ⅳ章で説明される「二人で書くこと」というドゥルーズ=ガタリの思考の方法(?)と、第Ⅴ章で説明される「分裂分析」という思考の理論の関係にもまったくそのままあてはまる。思考の方法などないと考える私にはこれはまったくもってどうでもいい問題だが、國分にとってはそうではないはずだ。
 
 残念ながら、この「方法と理論はどのように繋がるのか」という問題は、けっきょく解決されないまま終わってしまう。おそらく、國分はこの論点に気づいてさえいないのではないかと思う。単純に確認不足のせいだろうが、次の章を書くときには、ちゃんと以前に書いた章を読み返さないとだめである。もちろん、それは本書を読む読者にも言えることだ。
 

再認の失敗はめざせる

 
 ところで、國分は再認の失敗はめざせないと言っているけれども、私はそんなことはないと思う。先ほどの引用部によれば、國分は、失敗しようと思って狙いどおり失敗できたらそれは成功になってしまうから、失敗はめざせないと言いたいらしい。それから、期待どおりのものを見つけることは出会いではないから、出会いはめざせないとも言っていた。だが、ほんとうにこれは正しいだろうか?
 
 私たちは予期しないものと出会うことを期待することができるし、現に期待することがある。だから、「期待どおりのもの」と「予期しないもの」は同じものであってもぜんぜんおかしくないのだ。そして言うまでもなく、「予期しないものと出会いたい」と思いながら行動して、期待どおりに「予期しないもの」に出会えることはいくらでもある。ということは、出会いはめざすことができるのではないだろうか? シンプルな例で考えてみよう。
 
 あなたが「いつもとちがったものの見方をしたい」と思うなら、自分とはちがう考えの人の意見を聞いてみるといい。たとえばあなたが死刑制度に賛成なら、死刑制度に反対の人の意見を聞いてみるといい。その人の意見がしっかりしていれば、多少なりともあなたは影響を受けるだろうし、ひょっとするとすっかり説得されてしまって、あなたはもう死刑制度に賛成できなくなるかもしれない。そうなれば、凶悪事件の報道から受ける印象も、刑務所の建物から受ける印象も、以前と同じではありえないはずだ。いずれにせよ、結果としてあなたがどう変わるかは、実際に話を聞いてみないとわからない。このように、「予期しない変化」や「期待どおりでない結果」をめざすことはできる。
 
 あなたが「予期しないものと出会いたい」と思うのなら、あなたが興味も関心もなく、予備知識もまったくないようなものを取り上げた本やテレビ番組を観てみるといい。最初は退屈するかもしれないが、ひょっとすると思いがけず興味を引かれるものに出会えるかもしれない。そうなれば、あなたにとってまったく新しい世界が拓けてくるだろう。というわけで、アミューの『この音とまれ!』(ジャンプ・コミックス)を読んでみてください。おもしろいよ! リンクも張っとこ。
 

 
 もちろん、期待どおりにはいかないこともあるだろう。だが、いま問題にしているのはあくまで「めざせるか・めざせないか」であり、「できるか・できないか」ではない。その限りで言えば、國分やドゥルーズがなんと言おうと、再認の失敗はめざせる。めざす方法もいくらでもある。さっきまでの議論とからめてもう少し厳密に言うと、めざす気になることはめざせないが、めざす気になれればめざすことはできる。いちばんラクな方法は、一度読んだ本をもう一度読み返すことだ。一冊の本を一度読んだくらいですみずみまで理解できるわけがないのだから、読み直せばまずまちがいなく新しい発見がある。見落としも見つかる。
 
 だいたい、「再認の失敗」などという用語を使うから話がおかしくなるのだ。いつも思うことだが、どうしてこういうヘンな用語を使いたがるのだろう? さっきも書いたように、「再認の失敗」とは「いつもとちがうものの見方をすること」である。いつもとちがうものの見方なら、べつに失敗しなくても見つけられるだろう。國分は、テクストに張りついて理屈をこねてばかりいないで、もっと日常の事例にあてはめて考えてみるようにしたほうがいい。日常の生活実感に照らして考えるとあからさまにおかしいときは、たいてい理論のほうがまちがっているのである。
 
 以上、説明してきた例は、厳密に言えば「思考の方法」ではない。あくまで「どのように行動すれば新しいものの見方や考え方が見つかりやすいか」の実践例である。そのちがいをもう少しわかりやすく言うと、「新しいことを思いつく方法」は存在しないが、「新しいことを思いつくかもしれない方法」なら存在するということだ。いま書いていて気づいたのだが、この「思考の方法」と「思考の実践の方針」のちがいは大きい。おお、これはなかなかの収穫だ。これから使おう。なんだ、『ドゥルーズの哲学原理』を読んでよかったじゃないか(笑)。
 
 まだ半分読んだところだが、もうずいぶん長くなってしまった。キリもいいところだし、國分のドゥルーズ=ガタリ論についてのコメントはまた今度にしよう。言いたいことはまだまだたくさんある。ただ、今度がいつになるかは、申し訳ないが約束できない(笑)。
 

参考文献

スピノザの方法

スピノザの方法

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

スピノザ (平凡社ライブラリー)

スピノザ (平凡社ライブラリー)

*1:國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書,2013年,p.29

*2:同前,p.90

*3:同前,p.114

*4:ジル・ドゥルーズスピノザ』鈴木雅大訳,平凡社ライブラリー,2002年,p.36