平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ひどい翻訳の見本――ボードレール『悪の華』堀口大學訳「信天翁(あほうどり)」全文解説

 シャルル・ボードレール生誕200周年を機に『悪の華1861年版)』の韻文訳に取りかかり、前回「アホウドリ」の新訳のために改めて「L’ALBATROS」の原文を読み直した。この詩は初版の1857年版には収録されていないため、しっかりとすみずみまで読んだのは今回がはじめてである。
 

 
 新訳にあたっては、参考にするため既存の邦訳も精読することになる。すると、どうしても過去の翻訳にある間違いや欠陥が目についてしまう。私自身の旧訳でもそうなのだ。以前にも書いたことだが、誤訳はどんな翻訳にもある。だから、以前に書いた記事でも、たんなるミスを執拗に非難したりはしないようにしてきたつもりだ。
 
 しかしながら、悪質な翻訳が存在することも事実だ。堀口大學訳の『悪の華』である。堀口訳には、ただの誤訳とはとても言えない原詩の改竄や、勝手な脚色が無数に存在することは、以前からさんざん書いてきたとおりだ。
 

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ボードレール『悪の華』韻文訳の試み3――韻文訳「アホウドリ(1861年版)」

アホウドリ1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
しばしば、気晴らしに船乗りたちは、
海の巨鳥、アホウドリをつかまえる。
こののんびり屋の旅の道連れたちは、
苦汁の淵を滑りゆく船についてくる。
 
船乗りたちが甲板に置いたとたんに、
この蒼穹の王は、不器用で恥晒しに、
その大きな白い翼をオールのごとく、
憐れにも両脇に引きずったまま歩く。
 
あの翼の生えた旅人が、なんと不格好で自堕落に!
先ほどのそれは美しき鳥が、なんと珍妙で醜悪に!
ある者は、スモールパイプでその嘴を苛つかせる、
別の者は、ずり足で、飛んでいた不具者をまねる!
 
詩人は、嵐に出没し、射手を嘲笑う、
この雲上の貴公子に似ているだろう。
地面に巻き起こる罵声の渦中に追い落とされれば、
その巨人のごとき翼が彼の歩みの妨げとなるのだ。
 
 
(2021.8.22一部訳文改訂)

 

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ボードレール『悪の華』韻文訳の試み2――韻文訳「祝福(1861年版)」

祝福(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
至高なる者の力能の命により遣わされる、
詩人がこの退屈な世界に姿を現すに際し、
彼の母親は恐れ慄き、心を冒瀆に満たし、
憐れみ給う神に向け、拳をわななかせる。
 
――「ああ! こんなお笑い種を養うくらいなら、
いっそ絡みあった蝮でも産めなかったものかしら!
あたしの腹がこんな贖いのもとを宿してしまった、
あの儚い快楽の夜など、呪われてしまうがいいわ!
 
あんたが情けない夫から嫌われる女にするために、
あらゆる女のあいだからあたしを選ばれたのなら、
こんなまともに育たない怪物でも、恋文のように、
炎へと投げ入れてしまうわけにもいかないのなら、
 
あたしの身に圧しかかってくるあんたの憎しみは、
あんたが意地悪に使う呪われた楽器に跳ね返して、
この惨めな若木をこの手でそれはよくねじ曲げて、
ペストを流行らす芽を出せないようにしてやるわ!」
 
かくして、彼女は憎しみの泡を呑み込み、
永遠なる者の企図を理解することもなく、
彼女自身の手によってゲヘナの谷の底に、
母親の罪を罰する火刑台の薪を準備する。
 
けれども、天使の見えざる後見のもとに、
この廃嫡の身の子供は太陽に酔い痴れる。
彼は飲むものと食するものみなのなかに、
アンブロシアと紅緋のネクタルを見出す。
 
風とともに遊び、雲とともに語らっては、
彼は歌いながら十字架の道に酔い痴れる。
その巡礼の旅路のあとにつき従う精霊は、
森の小鳥のように陽気な彼を見て泪する。
 
彼が愛そうとする人々はみな彼を危惧して見守る。
あるいは、彼の平静さに目をつけて豪胆になると、
いかにして彼の苦悶の声を引き出せるか探ろうと、
彼の身の上で彼らの獰猛さのほどを試そうとする。
 
彼が口にするために出されたパンと葡萄酒にさえ、
彼らの手によって灰と不浄な痰が混ぜ合わされる。
彼が手にしたものは善人ぶりながら投げ棄てられ、
彼の足跡を彼らの足が踏むことさえ過ちとされる。
 
彼の妻は広場から広場へと叫びながら歩いてゆく。
「彼がわたしを崇めたいほど美しいと思うのなら、
わたしは古代の偶像の役目を務めてやりましょう。
同じようにわたしも金箔で飾ってもらおうかしら。
 
わたしは飽きるほど、甘松香も、薫香も、没薬も、
拝跪も、肉も、葡萄酒も堪能してやりますからね。
わたしに敬服している彼の心から、神への表敬も、
笑って横取りしてしまえるかどうか知るためにね!
 
そうして、この不敬虔な笑劇にも退屈したときは、
わたしの細くても強い手を彼の胸に置きましょう。
すると、ハルピュイアの爪みたいなわたしの爪は、
彼の心臓まで道を切り開けるのがわかるでしょう。
 
ぴくぴくと震えている、まるで幼い小鳥のような、
その真っ赤な心臓を胸からえぐり出してやったら、
お気に入りの獣を満腹にしてやるための餌にして、
地面に投げ棄ててやりましょう、侮蔑を込めてね!」
 
その目に光り輝く玉座が映る天に向かい、
晴朗なる詩人は敬虔な両腕をさしのべる。
その明晰な精神の発する広範なる閃光に、
怒り狂う民衆たちの様相も覆い隠される。
 
――「祝福あれ、神よ、あなたがくださる苦しみ、
それこそは、私たちの不浄さを癒す神の薬であり、
そしてまた、強き者たちに聖なる愉悦を準備する、
最も優良にして最も純粋なる本質でもあるのです!
 
私は知っています。あなたが詩人にくださる座は、
聖なる軍団の至福者の隊列に取り置かれることを。
そして、あなたがお招きくださる永遠なる祝祭は、
座天使力天使主天使たちが席を連ねることを。
 
私は知っています。痛みこそは唯一の魂の高貴さ。
地上にも地獄にも、決してそれを侵せはしないと。
そして、私の神秘なる栄冠を編み上げるためには、
あらゆる時間と宇宙に貢納を課さねばならないと。
 
しかしながら、あなたご自身の手でそろえられる、
古代パルミラの失われた宝石や、未知の貴金属や、
海底の真珠をもってしても、まばゆいほど澄んだ、
その美しき王冠を飾るには充分ではないでしょう。
 
なぜならば、原初の光線の聖なる炉心から汲んだ
純粋なる光でしか、それは作りえないのですから。
死すべき者の眼は、くまなく光り輝こうともまだ、
それを翳らせて苦悶する鏡でしかないのですから!」
 
 
(2023.1.1全面改訳

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ボードレール『悪の華』韻文訳の試み1――韻文訳「読者に(1861年版)」

読者に(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
愚行と、誤謬と、罪悪と、吝嗇とが、
われらの精神を占領し、肉体までをも変容させる。
かくして乞食が虱の類を養うごとく、
われらは愛すべき悔恨に餌を与えるというわけだ。
 
われらの罪悪は頑固だが、悔悛はたるんだものだ。
罪を告白すればたっぷり代償を払った気になって、
下卑た泪でことごとく汚点を洗い流したと信じて、
われらは泥だらけの道へと陽気に帰ってくるのだ。
 
悪の枕の上にはサタン・トリスメギストスが見え、
魔法のかかったわれらの精神を長く静かに揺する。
われらの意志という高い値打ちのある金属でさえ、
この博識の化学者にかかればことごとく蒸発する。
 
われらを動かす操りの糸を握っているのは悪魔だ!
人々の嫌悪の対象にこそわれらは好餌を見出して、
おぞましさも知らず、悪臭漂う暗闇を通り抜けて、
日々地獄へと、われらは一歩ずつ下っていくのだ。
 
骨董品も同然の淫売の虐げられてきた乳房にすら、
口づけしてはかぶりつく貧しき放蕩者にも等しく、
われらは通りすがりに不法な快楽を盗み取っては、
古びたオレンジのごとく、よくよく強く搾り抜く。
 
百万匹の蛔虫のごとく、詰め寄せて、群れをなし、
われらの脳内では悪霊どもの大群が酒宴に興じる。
われらの呼吸のたび、死神は目に見えぬ河と化し、
耳に聞こえぬ苦悶の声を上げて肺中へと流れ下る。
 
もしもいまだ、強姦や、毒薬や、短刀や、放火が、
われらの憐れな運命のありふれたキャンバスへと、
それらのふざけた図柄を刺繍しえていないならば、
ああ! われらの魂に豪胆さが足りぬだけのこと。
 
だが、ジャッカルや、豹や、牝狼や、
猿や、蠍や、ハゲタカや、蛇の姿の、
われらの悪徳の集められた悪名高き見世物小屋の、
鳴き、吠え、唸り、這いずる怪物どものうちには、
 
より醜悪で、より性悪で、より醜穢なやつが一匹いる!
そいつは大きな身ぶりも大きな叫び声も発してこない。
それでも、そいつは進んで地上を瓦礫と化してしまい、
さらには、あくびのなかに世界を丸呑みにしてしまう。
 
そいつが退屈だ!――目を知らずと泪で満杯にしては、
そいつは水煙管を吹かしながら死刑台の夢を見るのだ。
覚えがあるだろう、読者よ、このデリケートな怪物に。
――善人ぶった読者よ、――わが同類、――わが兄弟!
 
 
(2023.6.4一部改訳)

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國分功一郎の奇説――國分功一郎「傷と運命――『暇と退屈の倫理学』新版によせて」を読む

 久しぶりにブログを更新する気になったので、今年3月に刊行された哲学者の國分功一郎の『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版)の書評を書くことにしよう。
 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 
 気がつくと、以前に記事を書いたのは10ヶ月もまえになるから、ほんとうに久しぶりだ。こんなに長くブログを放置していたのははじめてである。どうしてこんなにあいだが空いたのかというと、ほんとうに哲学の勉強をやめてしまったからだ。哲学者の千葉雅也の『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)関連の雑誌対談などを読んだのを最後に、哲学関連の本はまったく読んでいない。それ以降に國分がいくつか新著を刊行していたことは知っていたけれども、そちらもぜんぜん読んでいない。以前の記事では「哲学やめようかな、どうしようかな」とオオカミ少年のようにくり返していたけれども、まさかほんとうにやめてしまうとは! 自分でもびっくりである。
 

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