平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

まだまだある誤訳――ボードレール『悪の華』の邦訳の誤訳について2

「どの翻訳を選ぶか――ボードレール悪の華』の邦訳の誤訳について」がずいぶんと好評だったので、調子に乗ってもう少し続きを書くことにしよう。幸か不幸か、ボードレールの『悪の華』の誤訳についてはまったくネタに不自由することがない。すでに『悪の華』を読まれた方も、これから読んでみようとお考えの方も、少しでも参考にしていただければ幸いである。
 

 
 とはいえ、前回の記事も今回の記事も、じつは2007年に以前のブログ『平岡公彦のボードレール翻訳日記』をはじめたばかりのときに書いた記事をただまとめなおしただけなので、そちらにもほぼ同じ内容のことが書いてある。だが、そっちは読んでほしくない。ほんとうに読んでほしくない(笑)。この記事を書くために読み返してみて、自分の書いた文章のあまりのバカさ加減に、自己嫌悪で狂いそうになる。
 

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音楽のない思春期――押見修造『惡の華』を読む

 前回のボードレールの『悪の華』の堀口大學訳をはじめとする既存の邦訳の誤訳を解説した記事に予想外の反響をいただき、驚いている。押見修造の『惡の華』(講談社コミックス)の影響力は私が思っていた以上にすさまじかったようだ。
 

 
 正直に言うと、私は押見が『惡の華』で描いているような思春期は、私たちの世代までで終わっていて、いまの若い人たち(と書くとじじいのようだが)はもうこんなことで悩んだりはしていないのではないかと思っていた。だが、それはまちがいだったようだ。考えてみれば、ボードレールスタンダールドストエフスキーがこうした思春期に苛まれる人間を描いてからもう150年になる。私たちがジュリアンやラスコーリニコフに自分自身を重ねたように、現代のティーンエイジャーは春日や仲村に共感しているのだろう。小説の文学が終わってからもうずいぶん経つが、文学そのものが終わることはないのかもしれない。
 

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どの翻訳を選ぶか――ボードレール『悪の華』の邦訳の誤訳について

 今年アニメ化された押見修造の『惡の華』(講談社コミックス)のおかげで、ボードレールの『悪の華』にふたたび注目が集まっているようだ。訳者の一人として、喜ばしく思う。
 

 
 押見の『惡の華』は読んでいたが、私自身、しばらくボードレールから遠ざかっていたし、そもそも読んだことを公言することがはばかられるようなマンガだということもあり(笑)、なかなかそのことを書く機会がなかった。これだけ大きくボードレールを看板に掲げた作品なのだから、おそらく私以外のボードレールの訳者や研究者も一巻くらいは読んでいるのではないか。
 
 いい機会なのでこのマンガの感想を書いておこう。ボードレールの『惡の華』を愛読する主人公の春日高男は、ある日、想いを寄せていたクラスメイトの佐伯奈々子の体操着を盗む。春日はそれを見ていたクラスの嫌われ者の仲村佐和に脅迫され、「契約」を交わすこととなる。二人の「ファム・ファタル」のあいだで苦悶する春日の姿も見ものだが、この作品の最大の魅力は、なんと言っても春日が仲村に強要される数々の変態行為である。仲村が次々と考案する独創性に富んだ変態行為は、私たちの嫌悪感をダイレクトに刺激し、モヤモヤしたなんともいえない気色悪さをもよおさせる。
 
 この「モヤモヤ」のさじ加減がうまく、読んでいるあいだずっと解消されない欲求不満のようなものに焦燥を駆り立てられる感覚が続く。それはたしかにボードレールの精神の一面を表現しているかもしれない。ただし、申し訳ないがそこは私の好みではなかった。マゾヒストにはたまらないマンガだろう。特殊な性癖をもった少数の人にしかわからない作品だと思っていただけに、アニメ化されるほどの人気作になったことはただただ驚きである。とはいえ、これのよさがわかることがいいことなのかどうかは、なんとも言いがたい。
 
 今後の見どころは、春日たちが「向こう側」に行くことができるのか、それとも「こちら側」と和解するのかにある。だが、どちらの道を選ぶにせよ、作者は最大の困難に直面するだろう。というのも、それは作者自身の人生に答えを出すことにほかならないからだ。それは三島由紀夫の『金閣寺』(新潮文庫)や大江健三郎の『性的人間』(新潮文庫)の系譜に連なる、由緒正しい変態日本文学のテーマである。奇しくも押見と私は同い年だが、私はいまだにどちらを選ぶこともできていない。そんなことが可能なのかどうかさえ、わからない。
 
 ボードレールは死ぬまで「向こう側」を追い求め続けたが、春日たちはどんな答えを出すのだろう。結末が楽しみなマンガである。
 

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國分功一郎の迷走――國分功一郎/宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」を読む1

 いつまでもブログをほったらかしにしておくわけにもいかないので、最近読んだ『PLANETS vol.8』に掲載された評論家の宇野常寛による哲学者の國分功一郎へのインタビュー「いま、消費社会批判は可能か」の感想でも書いておくことにしよう。
 

PLANETS vol.8

PLANETS vol.8

 
『思想』に連載されている國分の「ドゥルーズの哲学原理」はすべて読んでいるのだが、私はいまこうした理論についての論考にまったく魅力を感じないので、それについてはなにも書く気がしない。「そうやって考えたことを活かしてあなたは明日からなにをするんですか?」と聞かれてもろくに答えを返せないようなことをだらだらと考えているのは、ただの現実逃避じゃないかとさえ思う。倫理学ないし政治哲学の理論上の考察とは、あくまで実践の準備にすぎないものだ。いったい私たちはいつまでぐずぐずと生きることの準備をし続ければいいのだろう。私たちはすでに生きているというのに?
 
 國分はこの連載を土台に自身の政治哲学を立ち上げようとしているようだが、それに期待がもてそうかどうかは、最後まで読んでみないことにはなんとも言えない。いや、正直に言うとあまり期待はしていない。というのも、実際にいくつかの市民運動にコミットしている國分が、ドゥルーズの哲学からなにか実効性のあるアイディアをつかんでいるのなら、出し惜しみなどせずにとっくに自身の活動に活用しているはずだが、私にはまったくそんなふうには見えないからである。ネットを活用しているとはいえ、國分の活動の仕方そのものはこれまでどおりのごくごくスタンダードな市民運動だ。
 
 そうした地道な活動に文句をつけるつもりはないが、それでも「方法の哲学者」である國分功一郎の哲学が旧来のやり方を変える役に立っていないことにはがっかりしたと言いたくはなる。とはいえ、役に立っていないように見えるのは、まだ國分の準備が充分に整っていないせいなのかもしれない。いまは國分の準備が手遅れにならないことを祈る。
 

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納富信留の迷解説――プラトン『ソクラテスの弁明』を読む

 光文社古典新訳文庫からプラトン研究者の納富信留によるプラトンの『ソクラテスの弁明』の新訳が刊行されたので、久しぶりに読んでみた。ちょうどなにもかも一からやり直したいと思っていたところだったから、いい機会だったと思う。
 

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

 

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