平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

まだまだある誤訳――ボードレール『悪の華』の邦訳の誤訳について2

「どの翻訳を選ぶか――ボードレール悪の華』の邦訳の誤訳について」がずいぶんと好評だったので、調子に乗ってもう少し続きを書くことにしよう。幸か不幸か、ボードレールの『悪の華』の誤訳についてはまったくネタに不自由することがない。すでに『悪の華』を読まれた方も、これから読んでみようとお考えの方も、少しでも参考にしていただければ幸いである。
 

 
 とはいえ、前回の記事も今回の記事も、じつは2007年に以前のブログ『平岡公彦のボードレール翻訳日記』をはじめたばかりのときに書いた記事をただまとめなおしただけなので、そちらにもほぼ同じ内容のことが書いてある。だが、そっちは読んでほしくない。ほんとうに読んでほしくない(笑)。この記事を書くために読み返してみて、自分の書いた文章のあまりのバカさ加減に、自己嫌悪で狂いそうになる。
 
 前回同様、参照する邦訳は下記のとおり略記する。
 

 
 以前の記事では、集英社文庫安藤元雄訳『悪の華』を、「阿部訳と比べるとまちがいも多い」と評しながら、問題のある箇所を一箇所も例示していなかった。そのときはとにかく堀口大學訳は最悪だということを伝えることが第一だったので省略してしまったのだが、考えてみれば不親切だったと思う。ということで、まずはその解説からはじめよう。
 

集英社文庫安藤元雄訳をお薦めできない理由

 
 では、さっそく安藤訳を読んでみよう。引用は前回と同様『悪の華』冒頭の序詩「読者に(AU LECTEUR)」からである。
 

悪の枕もとには「大魔王サタン」がはべり
みいられたわれらの心をいつまでも揺すってくれる、
われらの意志という 値打ちの高いあの金属も
この錬金博士にかかっては跡かたもなく蒸発する。
(安藤訳,pp.11-12)

Sur l'oreiller du mal c'est Satan Trismégiste
Qui berce longuement notre esprit enchanté,
Et le riche métal de notre volonté
Est tout vaporisé par ce savant chimiste.
(『「悪の花」註釈』上,p.7)

 
 安藤訳引用部の1行目の「大魔王サタン」に対応しているのはSatan Trismégisteであるということは、原文と見比べればすぐにわかるだろう。問題は、ここで「大魔王」と訳されていると思しきTrismégisteである。残念ながらこの語は私が利用している三省堂の『クラウン仏和辞典』には載っていない。それも無理はない。なぜなら、この語はオカルト用語だからだ。
 
 安藤訳より以前に刊行された岩波文庫の鈴木訳では、訳註でTrismégisteを次のように説明している。
 

 エジプトの藝術學問の神 Thôt (Toth,Tot,Tehut)を、ギリシャ人がこの名で呼ぶ。「三倍の偉大」といふ意。
(鈴木訳,p.20)

 
 言うまでもないことだが、安藤は先行する鈴木訳とこの訳註を読んでいるはずである。これは私の勝手な推測ではなく、安藤自身が「解説」で読んだと明言しているのだ(安藤訳,p.394)。ちなみに、安藤が参照した既存の邦訳のリストには堀口訳も阿部訳も含まれている。では、安藤訳の「大魔王」はどこから出てきたのだろうか?
 
 参考までに、ほかの訳者がSatan Trismégisteをどう訳しているかも見ておこう。カッコ内はルビである。
 

  • 堀口訳 悪魔(サタン)トリスメジスト(p.24)
  • 鈴木訳 大魔王(傍点付き)トリスメジスト(p.20)
  • 阿部訳 魔王(サタン)〈三たび偉大なる者〉(トリスメギストス)(p.29)

 
 ご覧のとおり、ほかの訳者は原音に近いカタカナ表記か通称表記を採用している。ちなみに私は、「悪霊の頭たる錬金術神」に「サタン・トリスメジストス」とルビをふることにした。堀口訳だけがSatanを「悪魔」と訳しているが、サタンは悪魔一般の呼称としても用いられるし、ちゃんとルビもふってあるので問題ないだろう。繰り返しになるが、安藤は以上に引用した既訳をすべて参照している。したがって、安藤は意図してこの箇所をあえて「大魔王」に改変したと考えざるをえないのだ。
 
 考えられる理由には、「わかりやすさ」への配慮が挙げられるだろう。たしかに、訳文に見慣れない語が登場しなければ、表面上は「わかりやすい」文章に見えるかもしれない。だが、学問芸術の神であるトリスメジストスを「大魔王」に改変することは、たんなる原詩の改竄でしかないし、しかも原詩の内容を伝えていないのだから、わかりやすくなるどころか、わからなくなってしまっているのだ。これでは本末転倒もいいところである。
 
 どういうつもりで安藤がこの箇所を「大魔王」に変えたほうがいいと考えたのかはわからない。しかし理由はどうあれ、訳文で伝えるべき内容を伝えていないのだから、この改変は明らかに失敗である。安藤訳にはこういうタイプの不可解な改変が少なからず目につく。「不可解な」というのは、私には安藤がわざと既存の翻訳よりも質を低下させているように見えるからである。現に、少なくともこの箇所については安藤訳は堀口訳よりも明らかに悪くなっている。
 

象徴主義詩学

 
 ところで、阿部訳の註ではTrismégisteは次のように説明されている。
 

 ギリシア神ヘルメスに付されるこの称号を悪魔に用いたのはボードレールの独創であり、ヘルメスが錬金術の始祖とされることからして、以下に展開される悪しき錬金術が予告される。
(阿部訳,p.29)

 
 シャルル・ボードレールは、近代詩の父であるとともに、象徴主義サンボリスム)の祖であるという評価が文学史において定着している。読者は『悪の華』を読むときにこうした評価は忘れてかまわないが(むしろ忘れるべきだが)、翻訳者は、「この詩集のどの表現がそのような評価に繋がったのか」という問題について自分なりの考えをもたずに『悪の華』を翻訳すべきではない。
 
 後者の象徴主義との関連で言えば、Trismégisteは『悪の華』に錬金術のイメージを導入するためのシンボルなのである。つまり、Trismégisteは『悪の華』という詩集全体の評価や解釈にもかかわる重要なキーワードなのだ。そのような大事な語を、訳者の勝手な判断で改竄することが許されるはずがない。
 
 Trismégisteについてはここで一区切りにして、もののついでに、先ほどの安藤訳引用部のなかでほかに気になる点をいくつか指摘しておこう。
 
 安藤訳引用部の2行目に「みいられた」という表現がある。これはenchantéの訳語であり、意味は正しいのだが、問題はその表記である。これもおそらく「このほうがわかりやすいだろう」という配慮からこのような表記を採用したのだろうが、私にはうまくいっているとは思えない。というのも、この表現は「みいられた」という表記を頭のなかで正しく「魅入られた」と漢字に変換できないと、どの道意味がわからないからだ。特に、最初の「み」が「見入る」の「見」ではなく「魅力」の「魅」であることがわからないと、この箇所は理解できない。だから、ここははじめから漢字で書いてあったほうがわかりやすいのだ。なんでもかんでもひらがなにすればわかりやすくなるわけではない。
 
 続いて、引用部4行目に「錬金博士」という語が出てくる。ここでも気になるのは、この「錬金博士」という表現そのものである。現代では、錬金術を研究ないし使用する伝説や幻想文学の登場人物のことを「錬金術師」と呼ぶことが定着しているため、「錬金博士」という見慣れない呼称にはどうしても違和感を覚えてしまう。いつから「錬金術師」という呼び名が定着したのかは知らないけれども、私は「錬金博士」という呼称を安藤訳のこの箇所でしか見たことがない。
 
 原文の該当箇所を見ると、savant chimisteとある。だが、chimisteはほかの訳者全員が訳しているとおり「化学者」と訳すのが正しい。「錬金術師」はalchimisteである。とはいえ、Trismégisteとの関係を意識してchimisteを「錬金術師」と意訳している例はある(『「悪の花」註釈』上,p.9)。ただし、それはあくまでTrismégisteが登場するからこそ許されることであり、Trismégisteが登場しない安藤訳でこの箇所を「錬金博士」と訳すのはおかしいだろう。しかもsavant(博識な)が訳されていない。ただの見落としなのか、意図して省略したのかはわからないが、あとで見るように、これはわりと大事な語である。
 
 たった4行に3箇所+αの誤訳である。もちろん、問題の多い箇所だからこそ引用したのだが、それにしても、読みはじめてから2ページも進まないうちにこれだけの誤訳が見つかるというのは驚くべきことではないか。しかし、サン=テグジュペリの『星の王子さま』などの例を見ると、どうもこれはめずらしいことではないようなのだ。
 

 
 これで終わってはつまらないので、先ほどの象徴主義と関連づけてもう少し解説しよう。安藤が「みいられた」と訳していたenchantéという形容詞には、ほかに「魔法にかけられた」という意味もある。ここでサタン・トリスメジストスがわれわれ読者にかける魔法とは、言うまでもなくこの詩集『悪の華』のことである。そして、安藤が訳していないsavant(博識な)という形容詞は、『悪の華』本編にちりばめられたさまざまな神話や伝説に由来する詩句を暗示しているとも取れる。こうしたことをあわせて考えると、ここでくわしく検討した4行は、トリスメジストスがどのような神であるかと密接に結びついた表現であるとともに、『悪の華』がどのような詩集であるかを凝縮したかたちで提示した部分であることがわかるだろう。
 
 ここでサタン・トリスメジストスが象徴しているのは、芸術、魔術、錬金術の三位一体である。サタン・トリスメジストスとは、まさにボードレールの美学を体現する神なのだ。 ボードレールその人であると言っても過言ではないこの神を、どうして安藤は『悪の華』の翻訳に登場させなくてもよいと判断したのだろうか? 翻訳において、訳者は語学力ばかりでなく、理解力や読解力も問われるのである。
 
 もっとも、はじめから原文に書いてあるとおりに訳していれば、あとで困ることはないのだが。
 

文化のちがいに鈍感な翻訳者たち

 
 翻訳とは、外国語の文章を日本語の文章に置き換えることであり、外国語の表現を日本風の表現にアレンジすることではない。
 
 そのちがいがどこにあるのかを厳密に突きつめて考えると、膨大な論考が必要になって収拾がつかなくなるだろう。その基準を漏れなく明示することは不可能である。しかし、個々の基準を例示することはむずかしくはない。たとえば、強者が唯一持っている弱点のことを「アキレス腱」と表現することがある。周知のとおり、これはギリシャ神話の英雄アキレウスに由来する慣用句だが、これを翻訳する際に、日本にあるよく似た慣用句である「弁慶の泣き所」と訳してはならない。なぜなら外国人は弁慶を知らないからだ。
 
 このあたりまえのことができていない例が、残念ながら前回『悪の華』の邦訳のなかで最もすぐれていると紹介したちくま文庫阿部良雄訳のなかにも存在する。引用は「憂鬱と理想(Spleen et Idéal)」の最初の詩「祝福(BENEDICTION)」からである。
 

ところが、ひとりの〈天使〉の目に見えぬ後見のもと、
見棄てられた〈子供〉は、太陽に酔い、
その飲むものはことごとく、紅いろの神酒となり、
その食うものはことごとく、香り高い神饌となる。
(阿部訳,pp.34-35)

Pourtant, sous la tutelle invisible d'un Ange,
L'Enfant déshérité s'enivre de soleil,
Et dans tout ce qu'il boit et dans tout ce qu'il mange
Retrouve l'ambroisie et le nectar vermeil.
(『「悪の花」註釈』上,pp.19-20)

 
 ここで問題にしたいのは、阿部訳引用部3行目の神酒(みき)と4行目の神饌(みけ)だ。原文でこれらの訳語に対応しているのは、神酒が4行目のnectarであり、神饌が4行目のambroisieである。とにかくこの2つを『クラウン仏和辞典』で引いてみると、それぞれ次のように説明されている。
 

nectar
ネクター.◆果汁50%,甘味料添加ジュース.
②花蜜.
ネクターギリシア神話の不老不死をもたらす神酒);(文語)甘美な飲物,美酒,甘露.

ambroisie
①(ギリシア神話)アンブロシア(オリンポスの神々の食物で不死の源).
②珍味.

 
 nectarは果汁50%のジュースではなく、もちろんギリシャ神話のネクターであり、ambroisieも珍味ではなく、もちろんギリシャ神話のアンブロシアである。
 
 これら名詞を翻訳するとき、訳文で伝えなくてはならないことは3つある。1つ目は、この名詞がギリシャ神話に登場する神々の酒と食べ物だということ。2つ目は、その名称がそれぞれ「ネクター」と「アンブロシア」であるということ。そして3つ目は、それらはオリンポスの神々の不老不死の源であるということである。しかしながら、引用した阿部訳はこれらのいずれも伝えることができていない。訳註にも説明はない。これでは、この箇所にギリシャ神話に由来する固有名詞が登場していることすらわからないだろう。
 
 そもそも、神酒と神饌は訳語として適切なのだろうか? こちらもYahoo!辞書の『大辞泉』で調べてみよう。
 

神酒 酒の美称。特に、神に供える酒。おみき。

神饌 神祇(じんぎ)に供える飲食物。水・酒・穀類・魚・野菜・果実など。御食(みけ)。供物。

 
 説明からわかるとおり、神酒も神饌も日本の神道の用語である。ということは、阿部はこの箇所で、外国の宗教の神話や伝説に登場するものを日本の宗教のなかにある同様のものに勝手に置き換えていることになるのだ。
 
 それだけでも十分問題だが、仏和辞典と国語辞典の説明をよく読み比べてみればわかるように、神酒も神饌も「人間が神様にお供えするもの」であるのに対し、ネクターとアンブロシアは「ギリシャ神話の神様が飲んだり食べたりしている特別な酒と食べ物」なのだから、じつはまったくの別物なのだ。なにより貴重さの格がちがう。前者はどんなに質がよくてもしょせんは人間の世界にあるものにすぎないけれども、後者は神々の世界にしかない、本来人間の手のとどかないものである。引用した箇所でボードレールは、詩人だけはその神々にのみ許された美食を味わうことができると言っているのである。
 
 阿部訳の表現では、「詩人が食べたり飲んだりするものは、すべて神々への捧げものになる」と言っているように誤解されるおそれすらある。この解釈も悪くない気はするが、原詩の言わんとしていることとは異なるのだから、やはり不適切であると言わざるをえない。もう一度確認すれば、引用した箇所は、「詩人だけが俗人にはわからない事物の真の価値を理解することができる」という宣言なのだ。
 
 ほかの文学作品を例に挙げるまでもなく、同訳書のほかの箇所でもそうしているように、このような置き換え不可能な固有名詞は、原音に近い音のカタカナか、あるいはそれに準ずる広く知られた呼称で表記するべきだろう。だから、nectarは「ネクター」、ambroisieは「アンブロシア」と、ごくふつうに訳せばいいのである。わざわざ神道の用語に置き換えなければならない理由などまったくない。
 
 ちなみにほかの訳者はどうしているかというと、堀口訳と鈴木訳は予想どおり該当箇所をそれぞれ「神酒」、「神饌」と訳している。阿部はこの悪しき伝統の圧力に屈したのかもしれない。ここでは唯一安藤訳だけがほかの訳語をあてている。引用しよう。
 

飲むものすべて 食べるものすべての中に
神々の食物や真紅の神酒を見出す思い。
(安藤訳,p.17)

 
 補足すると、引用部の神酒には「ネクタル」とルビが付してある。nectarの表記としてはこちらが標準だろう。構文が阿部訳とは異なっているが、こちらもじつは安藤訳のほうが原文に忠実である。原文引用部4行目の動詞retrouverも「見つける」や「取りもどす」という意味である。しかし、アンブロシアは出てこない。ネクタルが固有名詞であることに気づいていたのなら、ふつうはアンブロシアもそうだと気づきそうなものなのだが。ここでも安藤がどういうルールで固有名詞を扱っているのか私にはわからない。
 
 ついでに指摘しておくと、阿部訳の「神饌」のまえにある「香り高い」は原文にはなく、阿部による脚色である。こうした脚色も意外に(?)多い。阿部に限らず、すべての訳者の訳書にこのような脚色はある。なにを隠そう、私自身もしていることなので、人のことをとやかく言うのはやめておこう。
 

固有名詞の訳語さえ統一されていない

 
悪の華』にはもう一箇所ambroisieが出てくるところがある。「葡萄酒(Le Vin)」の最初の詩「葡萄酒の魂(L’AME DU VIN)」である。該当箇所を確認しておこう。引用はふたたび阿部訳である。
 

植物性の神饌、私はきみの中に落ちてゆこう、
永遠の〈種蒔く神〉の投げたもうた貴重な種子なのだ。
(阿部訳,p.240)

En toi je tomberai, végétale ambroisie,
Grain précieux jeté par l'éternel Semeur,
(『「悪の花」註釈』下,p.1093)

 
 誤訳ではあるものの、阿部訳では「ambroisie」の訳語は「神饌」で統一されている。複数の意味がある動詞や形容詞の訳語を統一するのは不可能だろうが、名詞の、とりわけこういう特殊な固有名詞の訳語は統一すべきだろう。しかし、こういう特殊な用語の訳語でさえ、きちんと統一されていない訳書が多いのが現実なのだ。
 
 では、「祝福」のambroisieを①、「葡萄酒の魂」のambroisieを②として、ほかの訳者はそれぞれどう訳しているか見てみよう。カッコ内はルビである。
 

  • 堀口訳 ①不老長寿の神饌(みけ)(p.29) ②不老の神膏(ルビなし)(p.248)
  • 鈴木訳 ①不老長生の神饌(みけ)(p.27) ②神の御饌(みけ)(p.317)
  • 安藤訳 ①神々の食物(ルビなし)(p.17) ②不死の食べ物(ルビなし)(p.279)

 
 ご覧のとおり、①と②が同じものであることがわかる訳は阿部訳だけである。鈴木訳でもなんとかわかるかもしれないが、微妙なところだろう。堀口訳では完全に別物になってしまっている。論外だ。なにより不可解なのは、阿部以外の訳者がこの語を訳し分けている理由である。私にはほんとうにわからない。少なくとも、訳し分ける必要はまったくない。固有名詞なのだから、もちろん文脈によって意味が変わるはずもない。わざわざ別の訳語を考えるわずらわしさを考慮すれば、統一しておいたほうがラクなはずだ。ほんとうに、どうしてなのだろう?
 
 最後に、公平を期すため私の訳も提示しておこう。
 

しかしながら 天使の見えざる加護のもとに
この見棄てられし廃嫡の子は太陽の光に酔い
その飲めるものはことごとく真紅の神々の美酒となり
その食せるものはことごとく不死の神々の食物となる
(平岡訳,p.20)

 
 補足すると、「神々の美酒」と「神々の食物」にはそれぞれ「ネクタル」、「アンブロシア」とルビを付し、さらにそれぞれの意味を巻末の訳註で説明している。「葡萄酒の魂」のほうも同じである。本来ならばぜんぜん大したことではないのだが、ambroisieをふつうに「アンブロシア」と訳している『悪の華』の邦訳は、いまのところ私の本だけである。
 

ハルピュイアとファム・ファタル

 
 でたらめな固有名詞の取り扱いの例はまだまだいくらでもある。ふたたび安藤訳を引用しよう。引用は「祝福(BENEDICTION)」からである。
 

それから、こんな罰当りの茶番劇にも退屈したら、
あたしのかぼそい 強い手を あの人にかけてやりましょう。
あたしの爪は、大鷲の爪にそっくり、
みごとにあの人の心臓まで食いこむはずよ。
(安藤訳,p.19)

Et, quand je m'ennuierai de ces farces impies,
Je poserai sur lui ma frêle et forte main;
Et mes ongles, pareils aux ongles des harpies,
Sauront jusqu'à son coeur se frayer un chemin.
(『「悪の花」註釈』上,pp.20-21)

 
 引用した安藤訳を一読すれば、どこにも固有名詞らしき単語が出てこないことにすぐに気がつくだろう。じつは原文引用部の3行目に登場しているのだが、それが訳文に反映していないことが問題なのだ。原文引用部3行目の末尾にあるharpiesがここで取りあげる固有名詞である。安藤訳ではこの語は「大鷲」と訳されている。
 
 辞書を引くまえにほかの訳者の訳をチェックしておこう。カッコ内はルビである。
 

  • 堀口訳 荒鷲(あらわし)(p.31)
  • 鈴木訳 荒鷲(ルビなし)(p.29)
  • 阿部訳 鷲女神(ハルピュイア)(p.37)

 
 こうして見ると、多数決で阿部訳だけまちがっているように見えるかもしれないが、もちろんそんなことはない。ここに登場しているのはギリシャ神話の怪鳥ハルピュイアである。私たちの世代にとっては、ギリシャ神話よりも、ロールプレイングゲームに登場するモンスターとしてのほうが馴染み深いかもしれない。ちなみにふつうの鷲は、大きく(grand)ても獰猛(féroce)てもaigleである。
 
 harpieを三省堂の『クラウン仏和辞典』で引いてみると、驚いたことにちゃんと意味が載っていた。フランスではわりとよく使われる慣用句なのかもしれない。
 

harpie
①ハルピュイアイ(ギリシャ神話の暴風と死の女面鷲身の神).
②鬼ばばあ,がみがみどなる女.

 
 唯一正しく訳している阿部訳の註では、ハルピュイアは「人間の女の頭をして翼と鉤爪をもち、子供や魂をさらうと信じられる」(阿部訳,p.36)と説明されている。言うまでもないだろうが、ハルピュイアはただの大きな鷲ではない。
 
「ハルピュイアの爪は鷲の爪なのだから、べつに大(荒)鷲の爪でもいいのではないか」と思われる方もいるかもしれない。だが、厳密に言えば、神話ではハルピュイアの爪が鷲の爪に似ていたからそう表現されているだけであり、ハルピュイアに鷲の爪がついているわけではない。ハルピュイアの爪はあくまでハルピュイアの爪なのだ。
 
 しかもこの箇所では、ボードレールは明らかに辞書の①の意味に②の意味を掛けている。ハルピュイアの爪とは、口うるさい女の罵声のことである。それが詩人の心臓、すなわち詩人の核心にある価値観を台無しにし、抉り出して踏み躙ろうとするのだ。ハルピュイアが魂を攫うように。こうしたシンボルの意味の重層性の観点からも、この箇所はどうしてもハルピュイアでなければならないのだ。訳者は、象徴主義の父とされる詩人の詩集を訳していることを片時も忘れてはならない。
 
 では、どうして阿部以外の訳者はこの語を大(荒)鷲と訳したのだろうか? 私は、ひょっとすると阿部訳以前の時期にはまだそれほどギリシャ神話のハルピュイアは知られていなかったのではないかとも思ったのだが、よくよく考えなおしてみてそんなはずはないことに気づいた。というのも、ハルピュイアがどんな姿をしているかを知っていないと、そもそもharpieを大(荒)鷲に置き換えることは不可能だからだ。ということは、ほかの訳者はやはりわかっていてハルピュイアを大(荒)鷲に改変していると考えざるをえない。もっとも、鈴木と安藤はちゃんと原文を確認せずに既訳をそのまま踏襲した可能性もあるが。こうした「誤訳の相続」もよくあることである。
 
 余談だが、押見修造の『惡の華』(講談社コミックス)が、主人公・春日とファム・ファタルたちとのあれほど激しい軋轢を描いていながら、作中にこのハルピュイアのモチーフがまったく登場しないのは、押見が堀口訳を読んだせいではないかと思われる。第六巻で仲村が素手で全裸の春日の胸を血が出るまでひっかくシーンは明らかにこの詩句をふまえたものであるだけに、残念である。
 

 

ピースが欠けたパズルに取り組んでも意味はない

 
 さて、ここまでおつきあいくださった読者は、この長い記事の大半は、けっきょくのところたんなる固有名詞の訳し方の話にすぎないことに気がつくだろう。そのとおりである。信じがたいことに、阿部訳以前の既存の邦訳は、たんなる固有名詞すら満足に訳されていなかったのだ。
 
 他の文学作品ならともかく、象徴主義の詩集の翻訳において、この欠陥は致命傷である。というのも、この種の詩作品は、作品にちりばめられた語と語の関係をていねいに読み解いていくことにそのおもしろさがあるのだが、はじめからピースの欠けたパズルに取り組んでもなんの意味もないからだ。理解があらかじめ阻まれている上に、なにより絵が完成しない。その意味でも、私の本以前の邦訳のなかで精読に値するのは阿部訳だけである。
 

 

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