今年アニメ化された押見修造の『惡の華』(講談社コミックス)のおかげで、ボードレールの『悪の華』にふたたび注目が集まっているようだ。訳者の一人として、喜ばしく思う。
押見の『惡の華』は読んでいたが、私自身、しばらくボードレールから遠ざかっていたし、そもそも読んだことを公言することがはばかられるようなマンガだということもあり(笑)、なかなかそのことを書く機会がなかった。これだけ大きくボードレールを看板に掲げた作品なのだから、おそらく私以外のボードレールの訳者や研究者も一巻くらいは読んでいるのではないか。
いい機会なのでこのマンガの感想を書いておこう。ボードレールの『惡の華』を愛読する主人公の春日高男は、ある日、想いを寄せていたクラスメイトの佐伯奈々子の体操着を盗む。春日はそれを見ていたクラスの嫌われ者の仲村佐和に脅迫され、「契約」を交わすこととなる。二人の「ファム・ファタル」のあいだで苦悶する春日の姿も見ものだが、この作品の最大の魅力は、なんと言っても春日が仲村に強要される数々の変態行為である。仲村が次々と考案する独創性に富んだ変態行為は、私たちの嫌悪感をダイレクトに刺激し、モヤモヤしたなんともいえない気色悪さをもよおさせる。
この「モヤモヤ」のさじ加減がうまく、読んでいるあいだずっと解消されない欲求不満のようなものに焦燥を駆り立てられる感覚が続く。それはたしかにボードレールの精神の一面を表現しているかもしれない。ただし、申し訳ないがそこは私の好みではなかった。マゾヒストにはたまらないマンガだろう。特殊な性癖をもった少数の人にしかわからない作品だと思っていただけに、アニメ化されるほどの人気作になったことはただただ驚きである。とはいえ、これのよさがわかることがいいことなのかどうかは、なんとも言いがたい。
今後の見どころは、春日たちが「向こう側」に行くことができるのか、それとも「こちら側」と和解するのかにある。だが、どちらの道を選ぶにせよ、作者は最大の困難に直面するだろう。というのも、それは作者自身の人生に答えを出すことにほかならないからだ。それは三島由紀夫の『金閣寺』(新潮文庫)や大江健三郎の『性的人間』(新潮文庫)の系譜に連なる、由緒正しい変態日本文学のテーマである。奇しくも押見と私は同い年だが、私はいまだにどちらを選ぶこともできていない。そんなことが可能なのかどうかさえ、わからない。
ボードレールは死ぬまで「向こう側」を追い求め続けたが、春日たちはどんな答えを出すのだろう。結末が楽しみなマンガである。
堀口大學の翻訳はボードレールの『悪の華』ではない
押見修造の『惡の華』の作中には、何度もボードレールの『悪の華』の文庫本が登場する。その架空の文庫本(講談社文庫である)の訳者が堀口大學とされていることもあってか、新潮文庫版の堀口大學訳『悪の華』がAmazonで非常によく売れているようだ。
押見に限らず、ボードレールの『悪の華』と言えば新潮文庫の堀口大學訳というイメージは根強い。表紙に使われている美しくも不吉なエドワルド・ムンクの絵も『悪の華』のデカダンなイメージととてもよくあっているから、なおさらよく選ばれているのだろう。しかし、数年前に以前のブログで何度も書いたことだが、堀口大學訳の『悪の華』は、とてもボードレールの翻訳と呼べるようなシロモノではない。
『悪の華』の翻訳は戦前のものも含めて10種類以上存在するが、私の本以外で現在一般の書店でふつうに入手可能な邦訳は以下の4冊である。
このほかに抄訳や抜粋もあるが、文庫で安価な全訳が買えるのにわざわざ中途半端なアンソロジーを買うこともないだろう。以上4冊の訳書は、決定版である1861年に出版された『悪の華』の第二版に、裁判で有罪になって1857年の初版から削除された詩などを加えたものである。1861年版には詩の本文にも収録された詩の順番や章立てにも大きく手が加えられており、私が翻訳した1857年版とはかなりのちがいがある。より深くボードレールを理解したい方は、読み比べてみることをお勧めする。
堀口訳は現在入手可能な文庫のなかでいちばん刊行年が古いから、突出して誤訳が多いのは仕方のないことではある。とはいえ、堀口訳の場合、どんなに控え目に見積もっても詩作品1篇につき3〜4箇所は誤訳があるのだ。それに加え、堀口訳には到底意訳とは言えないような原文の改変が非常に多く、堀口が原文を無視して好き勝手に作文している箇所がいたるところにある。ほかの訳者の訳書にはそこまで悪質なものはない。それを承知の上で、あくまで堀口大學の作品として堀口の『悪の華』を楽しむのはもちろん自由だが、これにボードレールの名を冠して売ることは、訳者の一人として許しがたいことである。
私は堀口訳はボードレールの詩の理解に役立たないばかりかむしろ有害であり、冒瀆であるとすら考えている。まちがって堀口訳で『悪の華』を読んでしまわれた方には、ほかの訳者の訳で再読なさることを強くお勧めする。堀口訳と阿部訳とを読み比べて訳文の内容にちがいがある箇所は、すべて阿部訳が正しく、堀口訳がまちがっていると考えて差し支えない。何度でも繰り返すが、堀口訳はボードレールの『悪の華』ではない。堀口訳の『悪の華』を読んでも、決してボードレールを読んだことにはならない。
とはいえ、翻訳者として全文を原文と照らしあわせた経験から言えば、既存の『悪の華』の邦訳には、1冊あたり20〜30箇所くらいは誤訳がある。いちばん誤訳の少ない阿部訳でも10箇所以上はある。これは明らかに誤訳だと断定できるものだけの概算であり、誤訳とまでは言えないがおかしいのではないかと思われるところまで含めると、無論この数字は大きくなる。
では、どの翻訳で読めばいいのだろうか。まず、一般に発表年の古いものほど誤訳が多いことはたしかである。だから当然、正確な翻訳を読みたければ古いものは避けたほうがいい。また、このなかでは唯一岩波文庫の鈴木信太郎訳だけが旧字・旧仮名表記になっているが、はじめて読む人は避けたほうが無難だろう。ただ、新しいものなら安心かといえば、必ずしもそうとも言えない。もうだれも覚えていないだろうが、以前に問題になった野崎歓訳のスタンダール『赤と黒』(光文社古典新訳文庫)のように、訳者がいい加減な仕事をして惨憺たる「翻訳」になっていることがありうるからだ。
4冊のなかから一冊を選ぶとすれば、ちくま文庫の阿部良雄訳以外に選びようがない。阿部良雄は個人でボードレールの全著作を翻訳した実績のある、日本のボードレール研究の第一人者である。当然翻訳は4冊中最も正確だし、訳注もいちばん充実している。内容の理解に役立つという点では、阿部訳の右に出るものはない。
集英社文庫の安藤元雄訳も読みやすいと評判だが、私はあまりお薦めしない。訳文の表現はたしかにくだけているけれども、その分わかりやすくなっているとは思えないし、なにより私の趣味にあわなかった。もちろん阿部訳と比べるとまちがいも多い。そういう本を無責任に人に薦めるわけにはいかない。私の趣味はともかく、これから『悪の華』を読んでみようと思われる方は、安藤訳と阿部訳を軽く読み比べてみてから自分の好みにあったほうを選ぶといいだろう。
では、堀口訳のどこがどうおかしいのか、実例を挙げて説明しよう。
堀口大學の悪質な原詩の改竄
もちろん、私の本も含めて、誤訳はどんな翻訳書にもある。私の本など、信じがたいことにボードレールの生没年がまちがっているくらいだ。当時持てる力をすべて注ぎ込んで取り組んだ仕事だっただけに、あとからこの見落としに気づいたときはほんとうにどん底まで落ち込んだ。読者のみなさんにはただただお詫びするしかないが、ミスをしていちばんくやしいのは訳者自身だということもわかっていただきたい。
だから私は、たんなるミスをことさらあげつらって非難しようとは思わない。だが、堀口大學の『悪の華』の翻訳の場合、「これはまちがったのではなく、わざと原文を無視して勝手に作文しているのではないか?」と思われる箇所がいくつも見つかるのだ。それも、意味が理解できなかった箇所をごまかそうとしたのではなく、自分の好みにあわせて勝手に表現を変えたのではないかと疑われる箇所が少なくない。
さっそく実例を見てみよう。引用は冒頭の序詩「読者に」の本文4行目から8行目までである。原文の該当箇所も併せて引用する。引用は京都大学人文科学研究所/多田道太郎編『「悪の花」註釈』(平凡社,1988年)からである。
われらが罪は頑だ、われらが悔は見せかけだ。
思惑あっての告白だ、
だから早速いい気になって、泥濘道へ引返す、
空涙、心の汚はさっぱりと洗い流した気になって。
(堀口訳,p.23)
Nos péchés sont têtus, nos repentirs sont lâches;
Nous nous faisons payer grassement nos aveux,
Et nous rentrons gaiement dans le chemin bourbeux,
Croyant par de vils pleurs laver toutes nos taches.
(『「悪の花」註釈』上,p.7)
まず単純に訳文と原文を見比べてみて、原文引用部2行目の「Nous nous faisons payer grassement nos aveux」の訳が「思惑あっての告白だ」で正しいはずがないことはだれの目にも明らかだろう。単語を一つずつ順番に訳していれば、絶対にこんなに短い文になるはずがない。
読解の注意点を2つ確認しよう。四番目に出てくるpayerという動詞は「なにかを支払う」という意味だが、ほかに「なにかの代償を払う」という含意がある。その次にあるgrassementは「ぜいたくに」とか「気前よく、過分に」という意味で使われ、payer grassementで「気前よく支払う」という意味になる。もう一つのポイントは、faisons(faireの直説法現在形)という動詞で、faire+不定詞(動詞の原型のこと。この行ではpayer)で「〜したことにする」という意味になる。
以上をふまえて訳すと、原文引用部2行目は、「(罪の代償を)告白(aveux)で十分以上に支払ったつもりになる」という意味であり、当時のキリスト教徒の告解(懺悔)の習慣を風刺したものであることがわかる。堀口訳では、そうした風刺のニュアンスどころか、この箇所で告解のことが語られていることさえ伝わらないのではないか。
では、「思惑あっての告白だ」という表現はどこから出てきたのだろうか。ここで風刺されているのは「懺悔しさえすれば罪は帳消しにできる」という堕落したキリスト教徒の「思惑」なのだから、たしかに「思惑あっての告白」であることにまちがいはない。問題は、堀口訳が原文では説明されているその「思惑」の内容をまったく伝えていないことである。原文を読んでいたのなら、なぜ堀口は肝心の「思惑」の中身を伝えなくてもいいと判断したのだろうか? そのせいで堀口訳は2行目から3行目への流れが意味不明なものになっている。どうして「早速いい気になって」いるのかがこれではまったくわからないのだ。
以上見てきたとおり、「思惑あっての告白だ」という表現は、原文の読解ミスからはまず出てこない表現であり、また逆に、原文の内容をある程度理解できていなければ出てきそうもない表現でもある。ここで、「堀口は原文の内容を知った上で、わざと変えたのではないか?」という疑念が生じてくるのだ。どうして堀口がそんなことをしたのかはわからない。この程度の改変なら意訳の許容範囲内だと思ったのかもしれないし、変更したほうが詩のできがよくなると思ったのかもしれない。
翻訳の第一の使命は、言うまでもなく原文の意味を正しく伝えることである。私自身、訳しながら「ここを変えたい」とか「ここを削りたい」という誘惑に何度も駆られたが、それをやってしまったらもう翻訳ではなくなってしまうのだ。堀口がどういうつもりだったかはどうでもいいことだ。理由はなんであれ、堀口は原詩の表現を勝手に変えたのである。変えた以上、それは翻訳ではない。これはほんの一例である。堀口訳の『悪の華』には、こうした原詩の改竄が100箇所以上は存在している。
参考までにほかの訳者の訳文を見ておくと、この箇所は、鈴木訳では「心ゆくまで數々の告解懺悔を爲すませて」(鈴木訳,p.19)、安藤訳では「告白すればたっぷり元が取れた気になって」(安藤訳,p.11)、阿部訳では「告白をしただけで、お釣りがくるほどの気持になり」(阿部訳,p.29)と訳されている。鈴木訳は明らかに誤訳だが、ただの読解ミスなのでこれ以上ふれない。むしろ気になるのはほかの二人の訳である。
安藤も阿部もこの箇所を自由に意訳しているが、この訳では、自分の悪行の代償を支払うというより、(懺悔という)自分の善行の見返りを期待しているように読めてしまうのではないか。告白によって、いったいなんの「元が取れる」のか、いったいなんの「お釣りがくる」のか、これではわからない。まちがいとまでは言えないかもしれないが、大いに疑問である。べつに奇を衒わなくても、ふつうに「告白で十分以上に償いを済ませたつもりになって」と訳せばよかったのではないか?
公正を期すために私の訳も紹介しておくと、私はこの箇所を「告解により罪の報いは贖われて余りあると慢心し」と訳した。いま読み返すと、ちょっと堅苦しすぎるかなと思う。
翻訳とレトリックの問題
詩作品としてのできのよし悪しの基準を示すことは困難だが、翻訳の文章としてのできのよし悪しの基準を示すことは可能である。それは第一には訳文の正確さであることは言うまでもない。どんなに表現が見事であろうと、翻訳として正しくなければ問題外である。ここまでは当然のことだが、私は訳文に用いられるレトリック(修辞法)のよし悪しについてもある程度基準を示すことはできると考えている。
とはいえ、私は旧字・旧仮名遣いはよくないとか、差別用語は使ってはいけないとかいうたぐいの寝言を言いたいのではない。たしかに旧字・旧仮名は避けたほうが無難だが、旧字・旧仮名でもすぐれた翻訳を仕上げることはできるだろうし、それは挑戦する価値のある仕事である。差別語については、古典の翻訳の場合にはむしろ進んで使わなければならないこともある。なぜなら、その言葉を使って差別をしていた過去が存在したことはたしかだからだ。一例を挙げるなら、古典の翻訳ではハンセン氏病は癩(らい)病と訳すべきである。幸い、既存の『悪の華』の邦訳ではすべてそう訳されている。
ここで私が言いたいのは、そういうものとは別に、翻訳の文章に使うのにふさわしくない言葉があるということである。まずは堀口訳から悪い例を紹介しよう。引用は同じく冒頭の序詩「読者に」の本文35行目と36行目である。
そのくせ平気で地球をほろぼし
欠伸しながら世界を鵜呑みにするくらい平気の平左。
(堀口訳,p.27)
Il ferait volontiers de la terre un débris
Et dans un bâillement avalerait le monde;
(『「悪の花」註釈』上,p.8)
訳文の適切・不適切を問題にする以前に目を引くのは、引用部2行目の最後にある「平気の平左(へいきのへいざ)」だろう。若い読者は見たことも聞いたこともないかもしれないが、これは落語や漫談で耳にするたぐいの表現である。訳語として正しいかどうか以前に、はたしてこのような言葉を外国文学の訳語として用いるべきだろうか。
しかも奇妙なことに、原文のこの箇所に「平気の平左」に対応するような表現は存在しない。堀口の創作である。引用部1行目の「平気で地球をほろぼし」の「平気で」に対応する原語はvolontiersだが、見てのとおりこれは英語で言うボランティアであり、「進んでなにかをする」という意味である。「喜んで」という意味もあるが「平気で」という意味では使わない。細かいことを言えば、2行目も「欠伸しながら世界を鵜呑みにする」ではなく、正しくは「欠伸の(un bâillement)なかに(dans)世界を(le monde)呑み込む(avalerait)」である。
もっと言えば、私は「無批判に正しいと思い込む」という意味で使われることの多い「鵜呑みにする」という慣用句をここで用いることが適切だとは思わない。というより、この手の慣用句も翻訳の文章にはなるべく使わないようにするべきだろう。ほかにも同様の例を挙げるなら、「猿まね」、「犬猿の仲」、「一石二鳥」、「馬の耳に念仏」、「月とスッポン」なども翻訳の文章にはふさわしくない。なぜなら、欧米人はそんな慣用句は知らないし、使うこともないからである。逆に、欧米の慣用句は原文どおりに訳し、必要があれば注でその意味を説明すればいいだろう。まちがっても日本にある同様の意味の慣用句に勝手に置き換えてはならない。
堀口は「平気の平左」という表現がよほどお気に入りなのか、後半の詩のなかでも使っている。引用は1861年版106番目の詩「人殺しの酒」の最後の2行である。
一向に平気の平左
馬耳東風というわけさ!
(堀口訳,p.255)
Je m'en moque comme de Dieu,
Du Diable ou de la Sainte Table!
(『「悪の花」註釈』下,p.1124)
今度の「平気の平左」は堀口の創作ではなく、moqueの訳語として使われている。moquerはde以下のことがらを気にしない、無視するという意味である。だから、引用部は本来、「神(Dieu)や悪魔(Diable)や聖餐台(la Sainte Table)(を気にしないの)と同じように(comme)、私は気にしない(Je m'en moque)」と訳されるべき箇所である。
いま私たちが読むとなんでもない表現に感じるけれども、これは当時としてはキリスト教の権威に挑戦するかなり思い切った表現である。実際、キリスト教に対する冒瀆の咎で告発された『悪の華』裁判のときにこの箇所は問題になったそうだ。それを「馬耳東風」などと訳したのでは台無しである。そして見逃せないのは、ここでも堀口は、原文の意味がわからなかったからでも、単純にまちがえたからでもなく、明らかに作意をもってこの箇所を改変していることである。あたりまえのことだが、原文の内容を伝えるか伝えないかは、訳者が勝手に決めていいことがらではない。
そもそも、翻訳に漢籍由来の四字熟語や故事成語を用いること自体が論外である。「馬耳東風」くらいいいじゃないかと思う方は、「臥薪嘗胆」や「四面楚歌」や「呉越同舟」にも同じことが言えるか考えてみてほしい。それに、「馬耳東風」とは「他人の意見を相手にせずに聞き流すこと」という意味であり、酔っ払いが「なにもかもみんなどうでもいい」、「宗教などクソくらえ」と息巻いているこの箇所の訳語としては明らかに不適切である。これなら「知らぬ顔の半兵衛」とでも訳したほうがまだマシかもしれない。
こうした原詩の改竄を堀口大學の創意工夫の成果として進んで評価する人もいるかもしれない。それはそれでかまわないだろう。だが、何度でも言うが、これはボードレールの翻訳ではない。なぜなら、翻訳とは、原著の内容を伝えるための文章のことだからだ。詩作品としての出来映えはどうか知らないが、少なくとも翻訳として評価する限り、堀口訳はたんなる粗悪品でしかない。
以上に紹介したのは堀口訳にある膨大な誤訳のほんの一部にすぎない。なにしろ、一箇所を検証し出すと、このようにずるずると芋づる式に新たなまちがいが見つかるようなありさまなのである。全編こんな調子で続くのだから、いったい全体で誤訳が何箇所あるのか数える気力も失せてしまう。どんなに少なく見積もっても200箇所は下らないだろう。
ところで、「平気の平左」については堀口ばかりを責めるわけにはいかない。じつは「平気の平左」は阿部訳にも出てくるのだ。引用は堀口訳の「人殺しの酒」と同じ箇所である。
そんなことは平気の平左、〈神様〉も〈悪魔〉も
〈聖体拝領台〉も、眼中にないおれだもの!
(阿部訳,p.247)
言うまでもないことだが、この詩に登場する酔っ払いの男は、時代劇に出てくるような江戸の長屋をうろついているのではない。その男がうろついているのは陰鬱なパリの街である。こうした時代劇調の表現は原詩の雰囲気をぶちこわしにしてしまう。そしてなにより、退廃的、耽美的、神秘的と評されるボードレールの『悪の華』にこのような言葉が出てきては、興ざめもいいところではないか。
ここには、堕落や頽廃というもののイメージや美学に対する、古い世代と私たち新しい世代とのあいだの埋めがたいギャップが横たわっているように思えてならない。
堀口大學訳に挫折した読者は阿部良雄訳で再読を
いちばんまともなはずの阿部訳にも欠陥があるとすれば、どうすればいいのか、と思われるかもしれない。代わりに私の本を薦められればいいのだが、先ほど説明したとおり、私が翻訳した1857年版と決定版である1861年版では、詩の本文も少なからず変わっているし(ボードレール自身によって100箇所以上手を加えられている)、そもそも収録されている詩の数もちがう。残念ながら、私の本では堀口訳によって刷り込まれた誤解を訂正するには不十分なのだ。だから多少問題はあっても、読者のみなさんには阿部訳をお薦めするほかない。とりわけ、すでに堀口訳を読んでしまわれた方は、もし私の本を読んでくださるなら先に阿部訳を読んでからにしてほしい。
文語調で読みにくい堀口訳では手に負えなくて途中で投げ出した方も、阿部訳なら難なく最後まで通読できると思う。せっかくボードレールの『悪の華』に興味を持ったのに、不幸にも堀口訳を最初に読んでしまった方は、ぜひもう一度阿部訳で読みなおしてみてほしい。必ず新しい発見があるし、より深くボードレールの詩の世界を知ることができるはずである。
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