平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

音楽のない思春期――押見修造『惡の華』を読む

 前回のボードレールの『悪の華』の堀口大學訳をはじめとする既存の邦訳の誤訳を解説した記事に予想外の反響をいただき、驚いている。押見修造の『惡の華』(講談社コミックス)の影響力は私が思っていた以上にすさまじかったようだ。
 

 
 正直に言うと、私は押見が『惡の華』で描いているような思春期は、私たちの世代までで終わっていて、いまの若い人たち(と書くとじじいのようだが)はもうこんなことで悩んだりはしていないのではないかと思っていた。だが、それはまちがいだったようだ。考えてみれば、ボードレールスタンダールドストエフスキーがこうした思春期に苛まれる人間を描いてからもう150年になる。私たちがジュリアンやラスコーリニコフに自分自身を重ねたように、現代のティーンエイジャーは春日や仲村に共感しているのだろう。小説の文学が終わってからもうずいぶん経つが、文学そのものが終わることはないのかもしれない。
  
 いまにして思えば、私たちの世代はまだ恵まれていたのかもしれない。私たちが十代の頃は、Jポップの最盛期だった。いまでは信じられないことだが、毎月、いや毎週のようにミリオンセラーが生まれるような時代だったのだ。そしていま以上に、言葉の意味どおりファッションでしかない無数の楽曲が流れては消えていった。言わなくてもわかるだろうが、私は当時人気の絶頂だった小室哲哉が大嫌いだったし、とりわけジャニーズ系のアイドルグループが歌うお花畑のような楽曲には吐き気がした。だが、そうした大衆向けポップミュージックの騒々しさと軽薄さに耐えがたい不潔感を覚える私たちのような人種の欲求不満に後押しされるように、日本のアングラ音楽もまた全盛期を迎えていたのだ。
 
 華やかなスポットライトとは無縁の、アングラ音楽のアーティストたちの暗いステージの上には、たしかに「向こう側」があった。「外側」と言ってもいいかもしれない。少なくともそれがあると信じることができた。ゴミクズのようなJポップが歌う、上辺だけの押しつけがましいヒューマニズムといやらしい同調圧力に窒息しそうになっていた私たちは、きれいな空気を求めるように彼らの音楽を聴いた。私たちには「外の空気」が必要だったのだ。merrygoroundの楽曲に出会ったときは、ほんとうに心が洗われるようだった。息苦しさを感じるときには、私はいまでもmerrygoroundを聴いているし、highfashionparalyzeを聴けば、自分はまだ完全に腐り切ってはいないと安心できる。しかし、彼らが私を救ってくれたように、いまの世代の「私たち」を救ってくれるものはあるのだろうか?
 
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 その意味で、春日の生活に音楽が存在しないことはいまの時代を象徴しているように思える。いまや音楽はカウンターカルチャーではなくなってしまった。春日たちにとって、もはや音楽は希望でも憧れでもないのだ。震災の影響もあるのだろうが、いま私たちの耳に入ってくるのは、どれも「みんな仲よく」、「みんな楽しく」、「みんな幸せに」と猫なで声で呼びかけてくるような歌ばかりで、息がつまりそうになる。満面の笑顔で手招きしながら、抜け目なく自分たちの平凡で退屈な価値観を押しつけてくるような音楽から私たちを守ってくれるような音楽はいまはない。防波堤となってクソムシどもを遠ざけ、自分自身であることを肯定してくれるような音楽はもうどこにもない。いや、ないことはないのだが、春日たちの耳にはとどかない。春日には歌える曲がない。
 
 音楽が夢だった時代は終わった。大槻ケンヂ浅野いにおが描いたように、仲間たちと組んだバンドで大きなステージに立つというような夢を無邪気に追い求めることはもはやできない。そもそも、春日たちのようなはみ出し者は、クソムシどもにもてはやされるような人気者になりたいわけではないのだ。そんなものは、少しも自分の特別さを、特権を、価値を、証明してはくれない。なにより、ほかならぬ自分自身がそれを証拠とは認めないだろう。では、ほかになにがあるのか? なにが「空っぽの自分」に中身を与えてくれるのだろうか? 春日がこのまま旧態依然の「文学」に退行することはありえないだろうし、押見がそんな答えを自分自身に許すとも思えない。では、ほかになにがあるのだろうか?
  
 過大な要求であることを知りつつ、私はその「なにか」を期待せずにはいられない。満天の夜空を覆いつくすように咲き誇る、大輪の惡の華にふさわしい「なにか」を。あのこの上なく美しい光景を、私たちはふたたび目にすることができるのだろうか。最初の跳躍は失敗に終わった。あれは失敗して当然だった。あれで終わっていればすべてが台無しになっていただろう。次なる跳躍はさらなる高みをめざして試みられねばならない。あほう鳥は飛び立たねばならない。惡の華は枯れることなく、静かに開花のときを待っている。
 
 春日たちがこれからどのような道を歩むことになるにせよ、そのまなざしに見つめられていることを決して忘れなければ、絶対に自分自身を見失うことはないだろう。灰色の世界がどこまで続こうとも。
  

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