平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

哲学を捨てる勇気――國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を読む2

 前回は、哲学者の國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)第Ⅲ章までのドゥルーズ論を読んできたので、今回は第Ⅳ章以降のドゥルーズ=ガタリ論を読んでいくことにしよう。
 

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

 
 今回もずいぶん更新に時間がかかってしまった。時間がかかった理由は、書いているうちにだんだんどうでもよくなってきて、途中で何度も放り出しそうになったからである。考えれば考えるほど、國分の解説がドゥルーズの哲学の理解としておかしかろうが、それ以前にものの考え方としておかしかろうが、どうでもいいことじゃないかという気がしてくる。だいたいの読者はそんなことには気づかずに、勝手になにかをやる気になったり、勇気をもらったりしているのだから、そういう人たちがこの本を読んでなにか有意義な仕事に取りかかるのなら、本書は十分に意義のある仕事だったと言えるだろう。ただ、私にとってはそうではなかったというだけのことだ。
 
 これを書いているあいだ、「こんなことを考えている暇があるなら、もっと有意義なことに時間を使ったほうがいいんじゃないか」という疑問がずっと頭から離れなかった。本書で國分がしていることは、けっきょくのところ問題を的確に把握するための準備でしかない。そしてここで私がしているのは、その準備が不十分だとひたすらケチをつけることだけだ。こんなことをしていてもいかなる問題についての考察も深まらないし、いつまで経ってもなにもできない。誤解のないように断っておくけれども、記事のタイトルにした「哲学を捨てる勇気」とは、國分の『ドゥルーズの哲学原理』に対する論評ではない。いま私に必要だと感じているものである。
 
 それでも、どう読むのが正しいのか自分の頭で考えて判断したいという気がある人は、以下の議論につきあってほしい。せっかく書いた記事だし、読んでもらえれば私も嬉しい。私としてはけっこういいところを突いていると思うのだが、どうだろうか?
 

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克服すべき失敗作――國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を読む1

 哲学者の國分功一郎によるドゥルーズ論『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)は、『思想』の連載で全部読んでいたので、単行本で新たに書き足されたところをざっと読んで放置していた。
 

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

 
 思えば、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)以来、國分の仕事にケチをつけてばかりいる。私としては、ただおかしいと思ったところや疑問に思ったところをそのとおり書いているだけなのだが、それがほかの人にどう見えているかはわからない。私も、そんなつもりもないのにムキになって國分を目の敵にしているとは思われたくない。だから、しばらく國分の仕事に言及するのを控えていた。まあ、仕事が忙しくてブログを更新するどころではなかったのだが。
 
 だが、そうこうしているうちに『ドゥルーズの哲学原理』の単行本が刊行され、以前に書いた『思想』の連載第1回目の書評を読みにきてくださる方が増えた。あの記事は、『思想』に新しい回が掲載されるたびに続きを書こうと思っていて、途中で放り出したものだ。めんどくさくなったのである(笑)。しかしこのまま放っておくと、私の『ドゥルーズの哲学原理』に対する感想は、あのときの書評のままということになってしまう。それはまずい。ということで、遅ればせながら、ようやくあの記事の続きを書く気になったというわけだ。
 

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2013年最高の収穫――アミュー『この音とまれ!』を読む

 2013年はまだ半分ちょっとが過ぎたところだが、今年私が見つけた最高のマンガはアミューの『この音とまれ!』(ジャンプ・コミックス)でもう確定のようだ。これだけ夢中になれる作品にはそうそう出合えるものではない。
 

この音とまれ! 1 (ジャンプコミックス)

この音とまれ! 1 (ジャンプコミックス)

 

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まだまだある誤訳――ボードレール『悪の華』の邦訳の誤訳について2

「どの翻訳を選ぶか――ボードレール悪の華』の邦訳の誤訳について」がずいぶんと好評だったので、調子に乗ってもう少し続きを書くことにしよう。幸か不幸か、ボードレールの『悪の華』の誤訳についてはまったくネタに不自由することがない。すでに『悪の華』を読まれた方も、これから読んでみようとお考えの方も、少しでも参考にしていただければ幸いである。
 

 
 とはいえ、前回の記事も今回の記事も、じつは2007年に以前のブログ『平岡公彦のボードレール翻訳日記』をはじめたばかりのときに書いた記事をただまとめなおしただけなので、そちらにもほぼ同じ内容のことが書いてある。だが、そっちは読んでほしくない。ほんとうに読んでほしくない(笑)。この記事を書くために読み返してみて、自分の書いた文章のあまりのバカさ加減に、自己嫌悪で狂いそうになる。
 

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音楽のない思春期――押見修造『惡の華』を読む

 前回のボードレールの『悪の華』の堀口大學訳をはじめとする既存の邦訳の誤訳を解説した記事に予想外の反響をいただき、驚いている。押見修造の『惡の華』(講談社コミックス)の影響力は私が思っていた以上にすさまじかったようだ。
 

 
 正直に言うと、私は押見が『惡の華』で描いているような思春期は、私たちの世代までで終わっていて、いまの若い人たち(と書くとじじいのようだが)はもうこんなことで悩んだりはしていないのではないかと思っていた。だが、それはまちがいだったようだ。考えてみれば、ボードレールスタンダールドストエフスキーがこうした思春期に苛まれる人間を描いてからもう150年になる。私たちがジュリアンやラスコーリニコフに自分自身を重ねたように、現代のティーンエイジャーは春日や仲村に共感しているのだろう。小説の文学が終わってからもうずいぶん経つが、文学そのものが終わることはないのかもしれない。
 

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