平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

2013年最高の収穫――アミュー『この音とまれ!』を読む

 2013年はまだ半分ちょっとが過ぎたところだが、今年私が見つけた最高のマンガはアミューの『この音とまれ!』(ジャンプ・コミックス)でもう確定のようだ。これだけ夢中になれる作品にはそうそう出合えるものではない。
 

この音とまれ! 1 (ジャンプコミックス)

この音とまれ! 1 (ジャンプコミックス)

 
この音とまれ!』は、『ジャンプSQ.』で2012年から連載されている高校の箏曲部(そうきょくぶ)を舞台にした青春マンガである。先輩の部員が全員卒業し、箏曲部にただ一人残された2年生の部長・倉田武蔵(くらたたけぞう)は、人数不足で廃部寸前の上、不良どものたまり場になっていた部をなんとか立て直そうとしていた。そこに、中学時代から悪評の轟く不良である新入生、主人公・久遠愛(くどおちか)が入部したいと言ってやってくる。
 
 武蔵は最初は傍若無人にふるまうチカの入部を拒んでいたが、チカの友人の高岡哲生(たかおかてつき)から、自分の入っている箏曲部が箏職人だった今は亡きチカの祖父が作ったものであることを知らされる。手のつけられない不良だった自分を立ち直らせた祖父が大事にしていた箏を知りたいというチカの想いに打たれ、武蔵はチカの入部を受け入れる。ここまでのストーリーは、『ジャンプSQ.』の公式HPで公開されているVOMICで観ることができる。
 

 
 だが、ほんとうにおもしろくなるのはここからだ。第2話で、箏の家元「鳳月会(ほうづきかい)」の跡取り娘であり、いくつものコンクールで優勝する実力をもつ天才少女・鳳月さとわが入部してくる。「入部はプロデビューのときの話題作り」と言い放つ勝気でキツイ性格のさとわと短気で騒々しいチカは、ほとんど顔をあわせるたびごとに衝突する(笑)。しかし、チカを容赦なく罵倒しながらも、さとわは少しずつチカの箏に対する真摯な姿勢を認めていくことになる。そして、それがゆくゆくは恋愛感情に発展していくであろうことは、火を見るより明らかである(笑)。
 
 1巻は、チカたちを快く思わず、箏曲部を廃部にしようと画策する教頭(お約束の憎まれキャラである)に、さとわが「一ヵ月後に全校生徒を納得させる演奏をしてみせる」と宣言するところで終わる。ドン引きする箏曲部一同(笑)。2巻からは箏曲部の存続を賭けた猛特訓がはじまる。そして、ついに運命の発表当日を迎える!――ところで2巻が終わる(こちらもお約束である)。この汚い手にまんまとしてやられた私は、『ジャンプSQ.』本誌を買うはめになってしまった(笑)。幸い、いまはもう3巻が出ているので、これから読んでみようという方は、とりあえず3巻まで買ってみることをお勧めする。
 

この音とまれ! 2 (ジャンプコミックス)

この音とまれ! 2 (ジャンプコミックス)

この音とまれ! 3 (ジャンプコミックス)

この音とまれ! 3 (ジャンプコミックス)

 
 この作品の魅力をどう説明したらいいだろう? たとえばキャラクターについて言うなら、チカは「ほんとはやさしいヤンキー」、武蔵は「まじめメガネ」、さとわは「つんつんお嬢様」といった具合に、ずいぶんまえに東浩紀が言い出して一世を風靡した、データベースから引用してきた記号そのものではないか! ストーリーも、箏曲部が舞台という点を除けば特に目新しいところはなく、ごくごくありふれた青春マンガのように思える。チカたちが昼夜を問わず懸命に練習に打ち込むようすなど、ひと昔まえのスポ魂マンガのようだ。
 
 しかし、おそらくそんなことは作者自身も十分自覚していることである。それを承知の上で、作者はあえて王道を行くことを選んでいるように思える。作中のさとわのセリフにもこうある。
 

ただ楽譜通りに
弾けたところで
それはまだ
曲でも何でもない
 
そこから
曲想を練って
弾き込んで
自分のものにして
 
初めて人に
届く曲になる*1

 
 伝統音楽を相続する姿勢について語ったこのさとわの言葉に、作者がみずからの創作姿勢を重ねていないはずがない。言うまでもなく、この作品はたんなる記号とテンプレートの組みあわせなどでは決してない。なぜなら、作者の「曲想」が、「型」は「型」として、「セオリー」は「セオリー」として受け継ぎ、みずからのものにしつつ、この作品をそれ以上のものにしているからだ。それは確かな強さと重みをもって私たちの胸に響いてくる。
 
「仲間」、「居場所」、「努力」。この作品のテーマは拍子抜けするほど明快である。どれも大切なものにはちがいないが、軽々しく口にされすぎたせいで、まったく力をなくしてしまった言葉だ。どうすればこうした言葉に力を取り戻すことができるだろう? 作者はそれをことさら飾り立てようとも押しつけようともしない。ただそれがどういうものかを描いて見せるだけである。それは、落書きで無残な姿になった部室の看板をきれいに磨き上げることであり、手に絃の配置を覚えさせるべくダンボールで練習用の箏を作ることであり、どうすればみんなの演奏が一つになるかを仲間たちともんじゃ焼きを食べながら話しあうことなのだ。こうしたシーンの一つひとつが、言葉の説得力となるのである。
 
 この作品の名場面を彩る言葉もまた、それだけを取り出してみればなんでもない言葉だ。チカの「は… すっげ…」、武蔵の「話し合おう みんなで」、さとわの――いや、これは言わないでおこう。あの三段攻撃にはほんとうにやられた。涙が止まらなかった。とりわけ主人公のチカとヒロインのさとわに注目すれば、二人は激しく罵りあいながら(笑)、知らずしらずのうちにお互いにとっていちばん大切な言葉を交換しあい、また相手がなに気なく言った言葉に行動を起こすきっかけをもらっている。こちらは見ていてニヤニヤが止まらない(笑)。
 
 チカにとって、箏と出合うきっかけを与えてくれたのは祖父の源だが、箏の魅力を教えてくれたのはほかならぬさとわなのだ。先に引いたチカのセリフは、はじめてさとわの演奏を聴き、打ちのめされるような衝撃を受けたチカが思わず漏らした言葉だ。それは人が、人生を賭して追い求めるに値する真に価値あるものと出合った、かけがえのない瞬間である。人が生きていく上で、心からその価値を信じられるものに出合えることほどすばらしいことはない。そしてなにより、美しいものに魅せられ、心を奪われる人の姿に、私は深い共感と感動を覚える。
 
 新しい価値を創造することばかりが芸術の仕事ではない。変わらない大切なもの、不変の価値を継承し、伝えていくこともまた芸術の役目である。むしろ、放っておけばありきたりになり、陳腐になり、軽んじられ、軽蔑され、最後には見向きもされなくなって朽ちていくばかりの価値を守ることは、新たな価値の創造よりも困難なことかもしれない。その意味で、この作品に懸けられた作者の野心は遠大である。なにしろ、この作品によって作者は、いまや亡びに瀕している「箏曲の精神」を甦らせようとしているのだから。先に引用したように、さとわの口を借りてしばしば試みられる筝曲の解説には、この「精神」に裏打ちされた深みと説得力がある。
 
 ここまでひたすらベタ褒めしてきたが、もちろん注文をつけたいところがないわけではない。なにより不満なのは、作中で紹介される曲の少なさである。いまのところ、作中に登場した箏曲の楽曲は、「さくらさくら」と「六段の調」と「八重衣」しかない(うち「八重衣」は曲名だけで演奏されない)。肝心の、箏曲部の命運を賭けた発表に選ばれた楽曲は「龍星群」という架空の曲である。朝会での演奏のシーンに不満があるわけではないのだが、それでも、架空の曲を見事に演奏するすがたや、それに熱狂する観客のようすをどれほど巧みに描いたとしても、けっきょくのところそれはファンタジーでしかないのではないかと思ってしまう。それでは実在の楽曲のもつ説得力には勝てないのだ。
 
「龍星群」のような、筝曲についての予備知識がまったくなく、それどころか関心すらない聴衆を、一瞬にして引き込んでしまうような名曲は、ほんとうに存在するのだろうか? そんなにすごい曲があるのなら、私はぜひとも聴いてみたい。それが実在するかどうかで、作中の表現のリアリティーはまったくちがったものになるだろう。私たちに必要なのは知識である。クラシックになら、そういう名曲があることを私は知っている(バッハもモーツァルトも私にとっては教科書のなかの化石ではない)。筝曲に、いや、筝曲に限らず、日本の伝統音楽に、そのような知られざる名曲はあるのだろうか? あるのならどんどん教えてほしい。いま、それはこの作品にしかできないことである。
 
この音とまれ!』は私にとってはまちがいなく今年見つけた最高のマンガなのだが、筝曲というあまりになじみのない伝統音楽を題材にしているせいか、どうもあまり人気がなさそうなのが心配だ。実際、富山市内の書店をまわってみても置いてないところが少なくない(いくら富山が文化の発展から取り残された僻地でも、売れているマンガくらいは買えるのだ)。それでも、私はこのマンガを18巻くらいまで読みたい。絶対に中途半端なところで終わってほしくない。そしてなにより、この作者にはこの作品でブレイクしてほしい。
 
 というわけで、このブログを見にきてくださっているみなさんの力をお借りしたい。ぜひ、読んでみてください。読んでみて気に入ったなら、友達にも薦めてください。お願いします。
 
 余談だが、さとわの言う、「曲想を練って、弾き込んで、自分のものにする」とはどういうことなのか、実例を知らない人にはわかりにくいかもしれない。最近たまたま好例を見つけたので、ついでにここで紹介しておこう。
 
 紹介するのは、LUNA SEAのヴォーカリスト河村隆一のソロアルバム『The Voice 2』に収録されている、MY LITTLE LOVERの代表曲「Hello, Again 〜昔からある場所〜」のカバーである。私はLUNA SEA河村隆一もあまり好きではなかったが(むしろ嫌いだった)、これはまぎれもなく超一流のヴォーカリストの仕事だと断言できる、すばらしい曲だ。こちらもぜひ聴いてみてほしい。さとわの言わんとしていることが実感としてわかるはずだ。
 

The Voice 2 (HQCD+DVD)

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Best Collection ~Complete Best~

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*1:アミュー『この音とまれ!②』ジャンプ・コミックス,2013年,p.43