平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

倫理と人生の目的――プラトンの倫理学2

 人はいかに生きるべきか。プラトンの『ゴルギアス』において、ソクラテスが「少しでも知性をもつ人間をそれ以上に真剣にさせる問題は存在しない」と断言したこの問いから出発する哲学書倫理学書は無数に存在する。
 

プラトン全集〈9〉 ゴルギアス メノン

プラトン全集〈9〉 ゴルギアス メノン

 

 そこで、友情の神ゼウスの名にかけて、カリクレスよ、どうか、君自身としても、ぼくに対して冗談半分の態度をとるべきではないと考えてくれたまえ。また、その場その場の思いつきを、心にもないのに、答えるようなこともしないでくれ。さらにまた、ぼくのほうから話すことも、冗談のつもりで受け取ってもらっては困るのだ。なぜなら、君も見ているとおり、いまぼくたちが論じ合っている事柄というのは、ほんの少しでも分別のある人間なら誰であろうと、そのこと以上にもっと真剣になれることが、ほかにいったい何があろうか、といってもよいほどの事柄なのだからね。その事柄とはつまり、人生いかに生きるべきか、ということなのだ。*1

 
 ここでソクラテスが最大の論敵カリクレスに対して要求している態度は、この問題そのものが要求している答えの本質に強く規定されている。人はいかに生きるべきか。この問いに答えがあるとすれば、それはなんらかの規則のかたちをとるはずである。その規則は、人にそれに従わねばならない必然性があることを強く自覚させるものでなければならず、またそれ自体の力によって、討議する者たちのあいだに合意を生み出すものでなければならない。ゆえに、冗談半分の放言やその場しのぎの思いつきのような、それを提案する当人すらまじめに従う気にならないような規則は、もとよりその答えたる資格がないのだ。
 
「人はいかに生きるべきか」と真摯に問う者は、だれであれみずからの生き方に指針を与える規則を必要としている。ゆえに、それは倫理についての問いである。したがって、「人はしかるべき規則によってみずからの生き方を律すべきである」という答えが、あらかじめこの問いのうちに含まれている。そして、それがいかなる生き方を肯定するにせよ、それは偶然の成り行きまかせの混沌とした生活ではなく、知に導かれた秩序ある生活を勧めることになるだろう。
 
 この名高いソクラテスの問いから出発する倫理学書の一つである『生き方について哲学は何が言えるか』(1985年)において、イギリスの哲学者バーナード・ウィリアムズは、この問いに精緻な分析を加えている。
 

 ソクラテスの問には、特殊な点がある。何をなすべきかを考えさせる、現実かつ特定の機会から距離をとったものであるために、それは特殊なのである。まず、それはいかに生きるべきかを問うので、何をなすべきか、ということに関する一般的な問である。さらにそれはある意味では超時間的な問題である。というのは、それは私に私の人生の特定の時点から考察することを強要しないからである。これらの二つの事実がこの問を反省的な問にする。*2

 
「人はいかに生きるべきか」という問いは、個々の人の生におけるある特定の時期や機会から距離をとるために、逆に人生のあらゆる場面に関係する問題となっている。ゆえにそれが要求する答えは、人が全生涯にわたって堅持すべき生き方の原則にほかならない。事実、この問いは、『国家』におけるトラシュマコスとの討議のなかで、「われわれひとりひとりがどのような生き方をしたら最も有利な生を送れるかという、全生涯の過し方を決めようとすること」*3として提起し直されている。
 
 それはさしあたり、各人が直面する差し迫った問題に対する解決策を求める問いではない。だが、その問いの答えは、そうした人生の個々の問題における解決策のあり方に一定の方向づけを与えるものではあるだろう。ソクラテスの問いの答えは、人がみずからの生涯において直面する個々の問題に対峙する際に絶えず顧慮され、そのときどきの行為や選択や決断のあいだに、一貫性と整合性を与えるのである。
 
 見かけの素朴さに反し、あまりに過大な答えを要求しているように見えるこの問いには、じつは拍子抜けするほど簡潔な答えがすでに与えられている。獄中においてソクラテスは、「ただ生きる」ことではなく「善く生きる」ことが重要であるとクリトンに語った。人はただ生きるのではなく、無論悪く生きるのでもなく、善く生きるべきである。だが、「善く生きる」ことができるためには、なによりもまず善とはなにかが知られていなければならないだろう。『パイドン』においてソクラテスは、それだけが本来人間にとって考察するに値するものであると明言している。
 

 人間にとって本来考察するにふさわしいことは、その者自身についてであれ、また他の物事についてであれ、ただ、どのようにあるのがもっともよいかというそのこと、つまりそのものにとって最高の善とは何かということ、だけなのである。そうすればまたその人はおなじく、悪のほうをも知るにちがいない。なぜなら、両者はおなじ知識に属するのだから。*4

 
「哲学のうちに意味と価値の概念を導入すること」。*5フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、『ニーチェと哲学』(1962年)において、自身が深く敬愛するドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの功績として称えている哲学へのこの貢献は、本来プラトンに帰すべきものである。プラトンにとって、哲学とは、真に価値あるものとはなにかを見極めるための唯一の方法であり、そしてそれは、最高の善とはなにかを探究することによってのみ可能となることであった。
 
 ニーチェの背後にはつねにプラトンの影があり、その全思索は、みずからに取り憑いたイエスの亡霊とともにプラトンの影を追い祓うために費やされたと言っても過言ではない。ヨーロッパを蝕む疫病にほかならないキリスト教のうちに巣食うプラトン主義への敵意のあまり、晩年にはニーチェはついにおおよそあらゆる理想を否定し尽くすにいたる。
 

 わたしがいまここで絶対に予告しないであろうことは、人類を「改善する」ということだ。わたしは新しい偶像を建てる者ではない。ただ古い偶像どもが、その粘土製の脚の値うちを思い知ればいいのだ。偶像(これが「理想」に相当するわたしの用語だが)を転覆すること――このことが、すでに前からわたしの職業なのだ。*6

 
 あるがままの世界を肯定すること。運命愛とみずから称するこの最後の到達点は、ニーチェが憎悪したプラトニズムなるものとなんとよく似ていることだろう。『ゴルギアス』において、ほかならぬソクラテスその人が、カリクレスに「いつでもその時どきのあり合わせのもので満足し、それで充分とするような生活のほうを、君が選ぶように説得したい」*7と語っている。ドゥルーズがおそらくは顧慮するに値しない逸脱として切り捨ててしまったこのニーチェの順応主義は、「何ひとつ必要としない人たちが幸福である」*8とするプラトンの禁欲主義と同様、受け入れがたいものである。
 
 とはいえ、言うまでもなく、プラトンは「人が幸福であるためには善さえも必要としない」とは主張していない。プラトンにとって善とは、それさえあればほかになにもなくともかまわないと思えるほどの幸福を約束するものである。ソクラテスの口をとおして語られる善のイデアにまつわる神話はそう啓示している。幸福を、「それ以上なにひとつ必要としない状態」と定義するならば、それはたしかに正しい幸福の定義であるだろう。
 
 すべては「善とはなにか」にかかっている。哲学が本来取り組むべき課題とは、人間にとって最高の善とはなにかを探究することであり、それはまた、哲学が提示すべき人生の究極の目的にほかならない。それこそが「人はいかに生きるべきか」という問いの答えを求める者が真に必要とするものである。そしてそれは、なにより人がその全生涯を賭して追い求めるに値するものでなければならない。
 

参考文献

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

生き方について哲学は何が言えるか

生き方について哲学は何が言えるか

ニーチェと哲学 (河出文庫)

ニーチェと哲学 (河出文庫)

この人を見よ (岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)

*1:プラトンゴルギアス』加来彰俊訳,『プラトン全集』9,岩波書店,1974年,500B-C

*2:バナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』森際康友/下川潔訳,産業図書,1993年,p.32

*3:プラトン『国家』上,藤沢令夫訳,岩波文庫,1979年,344E

*4:プラトンパイドン』松永雄二訳,『プラトン全集』1,岩波書店,1975年,97D

*5:ジル・ドゥルーズニーチェと哲学』江川隆男訳,河出文庫,2008年,p.19

*6:ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳,岩波文庫,1969年,pp.8-9

*7:前掲『ゴルギアス』,493C

*8:同前,492E