平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

哲学は役に立つか――プラトンの倫理学3

「人はいかに生きるべきか」という問いは、人が生涯をつうじて絶えず問い直すべき問いである。そう言明する者には、求道者としての高潔さや矜持さえ感じられるかもしれない。だが、この問いを問う者が、いつまでもみずからの生き方を決められずにいるとすれば、それはおおよそ人のめざすべきあり方ではない。
 

プラトン全集〈9〉 ゴルギアス メノン

プラトン全集〈9〉 ゴルギアス メノン

 
 人はみずからの生き方を決めなければならない。しかし、「人はいかに生きるべきか」という問いは、それを問う者の生き方を未決定の状態におく。自分はこれからいかに生きるべきか。あるいは、これまで自分は善く生きてきたのだろうか。そう問う者は、それらに対する評価を宙に浮かせ、立ち止まることを余儀なくされる。そして、それらの問いを真摯に問う者は、これから歩んでいくべき道とこれまで歩んできた道の価値を見極めることができないうちは、まえに進むことができなくなるだろう。
 
 無論、それは軽々しく答えられるべき問題ではなく、熟慮に熟慮を重ねた上で答えを出すべき問いである。だが一方で、人はこの問いを問うているときに生きることをやめているわけではない。人はこの問いを問いつつも、みずからの生に絶えず到来する出来事に対処し続けなければならないのだ。そしてなにより、善く生きる人は、みずからの生に到来するいかなる出来事にも善く対処することを放棄すべきではないだろう。ゆえに、このソクラテスの問いにはできる限り速やかに答えが与えられなければならない。
 
 しばしば哲学の敵対者の象徴とも見なされる『ゴルギアス』におけるソクラテスの論敵カリクレスは、若者がみずからの生きる道を見定める際に、哲学がよき手引きとなりうる可能性を否定してはいない。だが、哲学は、若者がみずからの生きる道を見出そうとするときに立ち寄るべきものではあっても、決して道そのものであってはならないのだ。カリクレスにとって、哲学者とは、みずからの生きる道を見失い、どこにも行くことができなくなった者たちのなれの果てである。
 

 哲学には、教養のための範囲内で、ちょっとたずさわっておくのはよいことであるし、若い時に哲学をするのは、少しも恥ずかしいことではない。しかし、もはや年もいっているのに、人がなお哲学をしているとなると、これは、ソクラテスよ、滑稽なことになるのだ。そしてぼくとしては、哲学をしている連中に対しては、ちょうど片言をいったり、遊戯をしたりしている人間に対する場合と、非常に似た感じを受けるのだ。*1

 
 哲学者のもの言いには、幼児にも等しい半人前の青二才が、大人を真似て一人前の口を利くのにも似た滑稽さがあると、カリクレスは軽蔑を隠さずに言う。*2大人と呼ばれる歳になっても哲学などにうつつを抜かす連中は、なんの役にも立たない謎かけのたぐいにいつまでも夢中になっていたために、立派な大人となるためには不可欠の、国家社会の法律や規則にも、社交に必要なマナーにも無知な者となり、人生経験にも乏しい世間知らずの役立たずになり下がるほかない。*3
 
 そのくせそうした連中は、いつでもお得意の他人の粗探しをし、揚げ足を取っては、みずからの知性の優位を誇示し、うぬぼれを増長させるのだ。伝承によれば古代ギリシャの政治家であったというカリクレスにとって、そのような口先だけの勝ち負けのゲームに熱を上げている連中など、ただの憐れむべき未熟者にすぎなかった。「「人を反駁するなどということはやめにして、それよりも、実務に関するよき嗜みを養うようにしたまえ」。そして、思慮のある者と評判されるにいたるような事柄に、精を出すのだ」。*4
 
 哲学者に対する同様の非難は、『国家』においても世人の評として引きあいに出されている。「哲学に赴く者の大多数は、まずまったくの碌でなしであり、そのなかで最も優秀な者たちですら、役立たずの人間だ」。*5哲学者とは、無用の議論を持ち込んでは無益な対立を生み出す厄介者である。こうした哲学者への攻撃を、ソクラテスはそうした無能な者たちを哲学者から除外することによって回避しようとしている。「多くの人々が哲学に対してきつく当ることのそもそもの責任は、その柄でもないのによそから入りこんできた、あの騒々しい連中にあるということだ。彼らは、お互いに罵り合い、喧嘩腰であって、いつも世間の人間たちのことばかり論じるという、およそ哲学には最もふさわしからぬことをしている」。*6
 
 では、ソクラテスの時代にはまだ存在しなかった哲学の専門家たちはどうだろうか。プラトンがその最初の人となり、アリストテレスがその地位を不動のものとした学者としての哲学者、そして学問としての哲学の意義に、ウィリアムズは根本から疑問を呈している。
 

 そもそも、ある学というもの、つまり大学で研究されるようなもの(大学に限ったという意味ではない)、それについて膨大な専門書があるようなものが、人生の基本問題に対する答と認めうるようなものをもたらすことが、本当にできるのだろうか。このようなことがどのようにしてできるのか、ちょっと見当もつかない。考えられるとすれば、ソクラテスがそう信じたように、その答が読者にとって自分でもそう答えたかもしれないと思われるものである場合だけである。しかし、一体どうすればそうなるのだろうか。また、それはこのような学が存在するということとどのように関わるのだろうか。ソクラテスにとってはそのような学など存在しなかった。彼はただ友人たちと普通に語り合っただけである。*7

 
 これは「研究室に引きこもった世間知らずにすぎない学者の先生が、実社会を生きる社会人に生き方を教えることなどできるのか」と皮肉な調子で語られるお決まりの非難と同じものではない。もっとも、「学者のお説教にだれが耳を貸すのか」という問題は、それ自体無視できない倫理学上の難問ではある。だが、ここで問われているのはそれよりもはるかに重要な問題であり、それは、道徳哲学が課題とし、研究するような問題、すなわち「善とはなにか」、「徳とはなにか」、「正義とはなにか」といった問題についての膨大な研究の蓄積は、それを学ぶ者の人生に有益な貢献をしうるのかという問題である。とりわけ、それを充分に学ぶには全生涯を費やしても足りないほどの膨大な時間を要するとすれば、そんなものが人が生きていくことの役に立つことなど、到底ありえないことではないだろうか。
 
 デリダは、死をまえにしたインタビューにおいて、「生きることを学ぶ」ということについて問い直している。
 

 生きること、それを〈学ぶ=教える〉こと、教授する=されることはできるのか? 訓練や修行、経験や実験によって、生を受け入れること、もっと言えば肯定することを〈学ぶ=教える〉ことはできるのか?*8

 
 そしてデリダは、自分は生きることを学んだことは決してなかったと言い遺し、死んでいったのである。*9
 
 ここで少なからぬ哲学者が、「善き生とは善を探究する生である」という答えに逃げ込む誘惑に駆られる。あるいは、「善き生とはなにかについて粘り強く議論を続けることそのものに意義がある」と考えようとする哲学者もいる。こうした哲学に対する見方が、結論を軽視し、過程を偏重する傾向を生み、ややもするとそれは、結論の貧しさを過程の複雑さと冗漫さによってごまかそうとする悪しき風潮の元凶ともなっている。だが、それらはすべて、どこまでも有意義な成果によってみずからの存在価値を示すことのできない哲学者たちの逃げ口上にすぎない。無論、プラトンはそのような哲学者たちの同類ではなかった。
 
「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝腎なのは、世界を変革することである」。*10このドイツの哲学者カール・マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」における名高い哲学者たちに対する告発を、哲学を学ぶ者はつねに肝に銘じておかなければならない。それが人の生き方も、社会のあり方も変えないとすれば、哲学になんの意味があるだろうか。哲学は、みずからに固有の成果によってその存在価値を証明しなければならない。
 

参考文献

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

生き方について哲学は何が言えるか

生き方について哲学は何が言えるか

生きることを学ぶ、終に

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ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

*1:プラトンゴルギアス』加来彰俊訳,『プラトン全集』9,岩波書店,1974年,485A-B

*2:同前,485B

*3:同前,484C-D

*4:同前,486C

*5:プラトン『国家』下,藤沢令夫訳,岩波文庫,1979年,489D

*6:同前,500B

*7:バナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』森際康友/下川潔訳,産業図書,1993年,pp.2-3

*8:ジャック・デリダ『生きることを学ぶ、終に』鵜飼哲訳,みすず書房,2005年,p.22

*9:同前,p.23

*10:カール・マルクスフォイエルバッハに関するテーゼ」廣松渉編訳/小林昌人補訳,『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,2002年,p.240