平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

哲学と文学の距離――いとうせいこう/千葉雅也「装置としての人文書――文学と哲学の生成変化論」を読む

 前々回、千葉雅也の『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)の書評の続きを書くと予告してから、またしてもずいぶんと間が空いてしまった。
 

 
 このまま放り出してもいいかなとも思っていたのだが、私もわからないままでは気持ちが悪いので、この間も『動きすぎてはいけない』関連の書評や対談が雑誌に載るたびにチェックはしていた。しかし、困ったことにそれでも私の理解は一向に前進しない。にもかかわらず、私が途方に暮れているあいだに「わかっている人たち」のあいだで千葉の本は名著としての評価を確かなものにしつつあり、さまざまな人文書の賞を総なめにせんばかりの勢いである。なんだか、私だけが世のなかのトレンドから取り残されているようで寂しい。その憂さ晴らしも込めて(笑)、私は納得いくまでとことんソクラテスでありつづけようと思う。
 
 本来ならば前回の書評の続きを書くべきだろうとは思いつつも、そっちに取りかかるとまたやたらと長い記事になりそうで、どうもやる気がしない。なので、今回は『文藝』2014年夏号に掲載された千葉雅也と作家のいとうせいこうの対談「装置としての人文書――文学と哲学の生成変化論」のレビューを書くことにしよう。こうした対談には、お互いの著書をまだ読んでいない読者のためのイントロダクションと、本のなかで提示した議論のさらなる展開という、大きく分けて二つの役割がある。この対談は前者に重きを置いたもののようだから、私のように、読んだけれどもろくに理解できなかった残念な読者にはちょうどいいだろう。
 
文藝 2014年 05月号 [雑誌]

文藝 2014年 05月号 [雑誌]

 

「わからない」ということの重要性について

 
 と、思っていて読んでいたら、2ページも読み終わらないうちから、いきなりいとうせいこうの突き放すような発言に遭遇して、面食らってしまった。
 

いとう いま図らずも僕は「それは千葉雅也で言えば、意味的接続でしょ」って言っちゃいましたけど、これがこの本の優れたところだと思うんですよ。優れた人文書って、すべての内容を理解したわけではないのに、使えるんです。千葉くんのこの本は、ものすごく難しい本ですよ。でも僕は、優れた「人文書」や「哲学書」っていうのは、「わからない」ということが重要だと思っています。千葉くんのあとがきに、松浦寿輝さんから、文学をやったらみたいに言われたと書いてあるけど、やはり哲学を含めて文学と言ってもいいし、文学を含めて哲学と言ってもいいと思う。*1

 
 おそらく、いとうには読者を突き放そうなどという意図はなかっただろう。しかし、文学業界の人たちに特有の言いまわしとでも言おうか、私はこういうタイプのコメントを読むと、いつもとまどってしまう。「「わからない」ということが重要だ」とは、どういうことなのだろう? ふつうに考えて、わからないことがらについては、それが重要であるかどうかを判断することもできないはずだ。というより、それが「わからない」ということの意味である。だから、それが重要かどうかを判断できるのなら、少なくともそう判断した根拠を説明できる程度には、そのことがらについてわかっていなければならないだろう。
 
 それでかどうかは知らないが、いとうは「わからない」と言いつつ、「いちばん肝心なことはわかっているんだよ」ということは抜け目なくアピールしている。言うまでもなく、その肝心なこととは「「わからない」ということの重要性」である。そのことも、その肝心なことがわからずに手をこまねいている私の神経を逆なでせずにはおかない。とはいえ一方で、ひょっとするとこれは、大して深い考えもなく、ただ見栄を張って言ってしまったにすぎないたんなる出まかせではないだろうかとも思う。だとすれば、こうした私の追究は少々大人げないものかもしれない。いとうに限らず、こういうたぐいの放言をする作家や評論家は山のようにいる。どこまで真剣に考えて言っていることなのか量りかねるところも、こうした発言をわかりにくいものにしている要因である。
 
 以上のような疑念はあるものの、とにかく「「わからない」ということが重要だ」ということの意味を考えてみよう。だれでも思いつくことだろうが、たとえばこのテーゼを、「難解なテクストを一生懸命理解しようとすることが重要だ」という教えとして理解することはできないだろうか。いとうがそんな学校の先生みたいなただ正しいだけの退屈な一般論を言おうとしていたとすればほんとうにがっかりだが、それならまだわからないこともない。しかし、このテーゼは、おそらくは、そのすぐあとに続く「哲学を含めて文学と言ってもいいし、文学を含めて哲学と言ってもいい」という主張の根拠としても挙げられているものであり、その文脈を考慮するならば、この読み替えは不可能だろう。
 
 だが、それにしても、「「人文書」や「哲学書」っていうのは、「わからない」ということが重要だ」という主張が、どうして「哲学を含めて文学と言ってもいいし、文学を含めて哲学と言ってもいい」という主張につながるのだろうか? 「わからなさ」こそがそれらに共通する不可欠の要素だとでも言いたいのだろうか? だが、文学はともかく、哲学とは、ものごとを徹底して明晰に理解しようとする試みである。文学作品はどうか知らないが、哲学書であれば、一見どんなに難解に見える書物にも、その根柢には必ずこの目標がある。だから、なにを言いたいのかわからない文学作品は腐るほどあるけれども、なにを理解しようとしているのかわからない哲学書というものは存在しない。
 
 そもそもいとうは、「「わからない」ということ」がそれ自体として重要だと言っているのだろうか? それとも、「「わからない」ということ」が効果として引き起こすなにかが重要だと言っているのだろうか? はっきりさせてほしいことはまだある。いとうの言う「わからなさ」とは、たんなる思考能力の不足によって生じる「わからなさ」なのだろうか? それとも、取り扱う問題そのものの複雑さによる必然としての「わからなさ」なのだろうか? いずれにせよ、あの短いコメントだけから判断するのはむずかしそうだ。
 
 こういうことをしつこく書いていると、難癖をつけようとしているとか、揚げ足を取ろうとしているとか思われる方がいるかもしれない。だが、こうした問いを抜きにしてなにかを理解することができるとは私には思えない。「わかる」とは、こうした問題の一つひとつを疎かにせずに明らかにしていくことであり、こうした問いの一つひとつが理解への不可欠のステップなのだ。そして、哲学以外にそれをする営みを私は知らない。哲学がそれを問題にしなかったら、ほかのなにがそれを問題にするというのだろう?
 
 いとうは、千葉の本を「文学的にしか読めない」*2とも評しているが、いとうの言う「文学的な読み方」ができるようになれば、あるいはまったくちがった「わかり方」ができるのかもしれない。いとうによれば、それは「厳密に哲学的に読む」のとはちがった読み方であるらしい。*3私自身の実感としても、文学作品を読むときと哲学書を読むときとでは、まったくちがう頭の使い方をしていると感じる。しかし、それでも私には千葉の本を文学として読むということがどういうことなのかさっぱりわからない。たしかに、千葉の本をなにかよくわからないことが書いてある詩のように読めないこともないかもしれないけれども、その場合、なにがわかるのか、なにかが「わかった」として、そもそもその状態を「わかる」と表現していいのかもわからない。いずれにせよ、それは私がここで試みているような読み方とは対極にあるような読み方なのかもしれない。
 
 いつまでもわからないわからないとくり返していたのではあまりに進歩がないし、なにより気が滅入ってしまう。今回の対談を読んでわかったこともあるので、そろそろそっちの話に移ろう。
 

非意味的切断の方法について

 
 非意味的切断の方法についての千葉の説明を読めたことは、この対談を読んだいちばんの収穫だった。
 

千葉 イロニーからユーモアへの折り返しが必要だとは言ってます。でも、どうしたらそれができるのかは書いていないです。書物には、決定的に重要なことで、答えが書かれないことがあるんですよね。たとえば接続過剰は危ない。だから非意味的切断が必要だ、と書いてはいるけど、じゃあどうやったら非意味的切断ができるかは書いてない。そこは方法として定式化できない気がするんですよね。
いとう それは、書かれたものと読む人の間の関係が外在的だからなんじゃないの?
千葉 あ、そうですね。
いとう 書物というものは、そういうものだからなんじゃないかな。
千葉 たしかにそうです。書物と読者の関係も多様に組み換わりうるから。*4

 
 千葉によると、非意味的切断は方法として定式化できないため、千葉の本にはどうすれば非意味的切断ができるかは書いてないらしい。なんだ、書いてないのか! どうりでどんなに探しても見つからなかったわけだ。それがわからないのは私の頭が悪いせいだったらどうしようと、ちょっとくらいは心配していたので、ようやくちゃんと安心できた。しかし、安心すると同時に拍子抜けしてしまった。以前の2回の書評を読んでいただければわかってもらえると思うが、私はかなり一生懸命それを探したのである。「私の努力はいったいどうしてくれるんだ!」と、恨み言の一つも言いたくなる。
 
 書いてないものはしょうがないにしても、そうすると別の下世話な疑問も浮かんでくる。千葉の『動きすぎてはいけない』は博士論文を改稿したものだということだが、博士論文とは、言わばテストの答案のようなものであるはずだ。千葉は「書物には、決定的に重要なことで、答えが書かれないことがある」とあたりまえのことのように言っているけれども、博士論文もそれでよかったのだろうか? 審査を担当した先生方はそのことについてなにも言わなかったのだろうか?
 
 これで引用するのはもう3回目になるけれども、『動きすぎてはいけない』の「序――切断論」では、同書の論考全体の主題とも目標とも理解しうるスローガンが提示されている。
 

 或る時点のTwitterのタイムラインに切りとられた不完全な情報によってふるまいを左右されかねない――掘り下げて調べる気力すらなく――といった痴態。あるいは、SNSのメッセージをひとつ見逃していて――疲労のために――、或る会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になること。意志的な選択でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる。ポジティブに言って、私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。モダンでハードな主体性からも、ポストモダンでソフトな管理からも逃れる中間地帯、いや、中間痴態を肯定するのである。*5

 
 ご覧のとおり、これはだれが読んでもここは大事だとわかる文章である。改稿前の博士論文がどういうものだったかは知る由もないが、元の論文にもこの文章がほぼそのままのかたちであったのだとすれば、これを読んだ人は、私でなくても非意味的切断を「善用」する方法についてのなにがしかの論考が展開されることを期待するはずだ。そうではないだろうか? にもかかわらず、それがないことの弁明として、「書物には、決定的に重要なことで、答えが書かれないことがある」などという言い分が通用するとは私にはとても思えないのだが、そのあたりのことはいったいどうなっていたのだろう?
 
 まあいい。どの道私には関係のないことだ。そんなことより、この記事を書きながら思いついたのだが、千葉は非意味的切断の方法は定式化できないと言っているけれども、私はただ非意味的切断をする方法であれば定式化できるのではないかと思う。と、書きながら急いで以前の書評を読み返してみると、「非意味的切断を善用する方法は定式化できない」という趣旨のことは書いていたが、幸い「非意味的切断の方法は定式化できない」とは書いていなかったようだ。やれやれ、ひと安心である。
 
 では、どうすれば非意味的切断をすることができるのだろうか? たとえば、引用部で千葉が挙げている例に即して考えるなら、TwitterSNSをまったく読まないようにすることは、意図した切断であるから意味的切断である。しかし、TwitterSNSを読みはするけれども、敢えてあとから読み返さないようにすることは、一度は読むのであるから意味的切断ではない。とはいえ、読み返さなければ、しっかり記憶していなかったことはだいたい忘れてしまうだろう。このように、非意味的切断は意図して起こせる。
 
 もちろん、そうすることによって、なにを憶えていて、なにを忘れてしまうことになるかはまえもってわからない。大事なことならばそれなりに憶えていられそうな気もするが、そんな保証はどこにもない。逆に、つまらないことでも妙に気になってずっと憶えていることもあるだろう。だから、特定のなにかを非意味的切断によって切断する方法を定式化することはできないが、不特定のなにかを非意味的切断によって切断する方法ならば定式化できる。したがって、千葉が「非意味的切断は方法として定式化できない気がする」というのは、たぶん気のせいだ。
 
 ほかにも、バカげた例だが、わざと車道に飛び出して交通事故に遭うことも、それによってどのような怪我や障害を負うことになるかわからないという点を重視すれば、非意味的切断の方法とみなしうるだろう。もっと物騒な例で言えば、つい最近脱法ハーブから危険ドラッグに呼び名が変わった薬物を使用することも非意味的切断の方法でありうる。むしろ、本書の論旨に照らして考えれば、危険ドラッグは格好の事例であるとさえ言えるだろう。もちろん、いずれにせよ、そんなことをしていったいなんになるのかという非難は免れえないだろう。しかし、おそらくそれは非意味的切断を意図して起こそうとすることすべてに当てはまる批判である。
 
 ここで、以前の書評で提示した私の疑問をもう一度まとめておこう。私は先に引用した千葉のスローガンを、「これからは非意味的切断を新しい出来事や生成変化を引き起こすために利用しましょう」という目標の提示であると理解している。先ほどの対談でのコメントも、「接続過剰に陥らないようにするために非意味的切断を利用しましょう」という趣旨のメッセージであると理解して差し支えないだろう。だが、それはなにをどうすることなのだろうか? そもそも、新しい出来事のためであれ、生成変化のためであれ、なんらかの目的のために非意味的切断を利用するなどということがほんとうに可能なのだろうか? 先ほどまでと異なり、私はそれがどういうことを意味するのかさっぱりわからないし、もちろんいかなる事例も思い浮かべることができない。
 
 いったい千葉は、どういう事例を想定していたのだろう? 方法として定式化することはできなくても、「それはこういうことですよ」と事例の一つや二つを提示することくらいならできたのではないか? 優れた芸術作品がまさにそうであるように、事例は提示できても方法として一般化できないものごとはたくさんあるから、それでべつにおかしいことはない。しかし、おおよそ考えられないことではあるが、もしもそれさえもできないとなると、私はもはや千葉の言っていることを理解することを諦めるしかなさそうである。
 

関係の外在性テーゼについて

 
 ところで、先ほど引用した対談のなかのやり取りで気になっていることがもう一つある。「非意味的切断の方法は定式化できない」と言う千葉に、いとうは「その理由は書物と読者の関係が外在的だからではないか」と返し、千葉もあっさりそれに同意しているのだが、これはほんとうに正しいのだろうか?
 
 いとうの「書かれたものと読む人の間の関係が外在的」という発言は、言うまでもなく千葉の本のなかで解説されているドゥルーズ=ヒュームの関係の外在性テーゼを念頭においたものである。確認しておこう。
 

 関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。なぜなら、微粒子たちは本質をもたず、形式的に区別されるのみであるからだ。この意味において、微粒子=項は〈区別のある匿名者〉なのである(1−2)。それらのあいだに、関係が成される。関係は、項の何たるかに依存せず、外在的に、多様に設定される――これが〈関係の外在性テーゼ〉である。*6

 
 おかしなことを言うようだが、千葉といとうは、本気でここで解説されている関係の外在性テーゼが、書物と読者の関係にもそのまま当てはまると言っているのだろうか? 信じがたいことに、そう理解するほかなさそうである。しかし、書物と読者の関係が、ほんとうに「項の何たるかに依存せず、外在的に、多様に設定される」のだとすれば、書物から読者がなにを読み取るかは、書物の内容とはまったくなんの関係もないということになってしまわないだろうか? 「項の本質に還元不可能である」、「項のなんたるかに依存しない」ということの意味は、そう理解するほかないはずだ。いや、仮にほかの解釈が可能だとしても、一見して明白なこちらの解釈をわざわざ放棄してその別の解釈をとらねばならない理由が私にはわからない。
 
 率直に言って、私はこれはまったくバカげた主張であると思う。というより、それ以前に私は関係の外在性テーゼそのものがまちがっていると考える。ドゥルーズはシャボン玉の例を挙げているが、シャボン玉を構成する各項がそこで構成されている関係の原因を分有していると考えることは可能だし、現に私はそういうふうにしか考えられない。シャボン玉以外でも、水でも砂糖でも塩でもなんでもそうだが、それを構成している各項以外の項がそれを構成することはありえない。構成要素が入れ替われば、それはもう別のなにかである。
 
 もうここまで書いてしまったことだし、ついでに書いておくと、対談のなかで千葉が挙げている「AとBが10センチ離れて並んでいる関係R」という例についても、*7AとBが磁石の同じ極同士のように反発しあわないとか、AとBのどちらか一方が転がってどこかへいってしまわないとか、溶けて流れていってしまわないとか、AとBそれぞれがもつ性質がそこで成立している関係Rを可能にしていると考えることもできる。つまり、AとBが10センチ離れて並んでいることの原因はたしかにAとBそれぞれの本質に還元不可能だが、AとBが10センチ離れて並んでいることが可能であることの原因はAとBそれぞれの本質に強く依存している。この論点についても、私は一見して明白なこちらの解釈を放棄してわざわざ関係の外在性テーゼをとらねばならない理由がわからない。
 
 と、ここまで書いてきて、私には「「わからない」ということの重要性」のときと同じ疑念が湧いてくる。千葉といとうは、いったいどのくらい真剣に考えてあのやり取りをしていたのだろうか? 見ようによっては、あれはいとうが返したたんなるその場の思いつきにすぎない合いの手に、千葉がよく考えずについうっかり同意してしまっただけのようにも見える。実際、いとうの合いの手は、千葉の本の内容をちゃんとふまえた気の利いたもののように見えるのだ。無論、それはただそう見えるだけなのだが、千葉がそれにつられてしまったからといって、そのことを責めるのは少々気の毒なような気もする。
 
 しかし、そうは言うものの、問題は、すでに関係の外在性テーゼの当否にまで発展してしまっている。関係の外在性テーゼは、千葉の生成変化論における非意味的接続論の中核にある重要な原理である。この原理こそが、アジャンスマン=組み変わりにおいて接着剤の役割を果たす「と」であり、『動きすぎてはいけない』のもう一つの可能性の中心である。にもかかわらず、関係の外在性テーゼが正しく、それが千葉の本と読者の関係にも当てはまるとすれば、千葉の本の内容は、読者がそこから読み取る内容とはなんの関係もないことになってしまう。くり返すが、そんなバカなことがあるだろうか? それでも、関係の外在性テーゼが正しいならそう考えざるをえないし、逆にまちがっているなら、千葉の理論には看過しがたい大きな欠陥があるということになるだろう。
 
 と、言いながらいきなり前言を翻すようだが、私の思ったとおり関係の外在性テーゼがまちがっていたとしても、千葉の理論そのものには大したダメージにはならないのではないかとも思う。私の印象では、関係の外在性テーゼは、どちらかと言えば無限定な接続への可能性を開く原理であり、千葉=ドゥルーズの「動きすぎてはいけない」というテーゼとはもともとあまり相性のいいものではないのではないかと思われる。ドゥルーズ自身も、ずっとこの考えを維持していたかどうかは疑わしい。とりわけ、この原理はスピノザのコナトゥス論や共通概念論とは決して両立しえないものであると私は考えるが、後年のドゥルーズがそのスピノザの哲学に深く傾倒していったことは周知のとおりである。典拠を挙げておこう。引用はドゥルーズの『スピノザ――実践の哲学』(1981年)からである。
 

 共通概念の形成の秩序は情動にかかわり、いかにして精神が「みずからのさまざまな情動を整え、それらを互いに結びつけることができる」かを示しているのである。共通概念はひとつの〈術〉、『エチカ』そのものの教える術なのだ。〈いい〉出会いを組織立て、体験をとおして構成関係を合一させ、力能を育て、実験することである。*8

 
 若干の解説を加えると、ここで言う共通概念は、先ほどの微粒子(項)に相当するものである。ここで解説されている共通概念、すなわち精神を構成する最小単位には明確に接続の原理が内在している。それこそが構成関係の合一を可能にするのだ。この原理において、共通概念が形成する関係が各項の本質に還元できないなどということはありえない。そして、スピノザ心身並行論によれば、共通概念の秩序、すなわち精神の秩序と事物の秩序は完全に対応している。すなわち、共通概念の形成の原理とその秩序は、事物の接続の原理とその秩序とまったく同じである。そして本書を読む限り、ドゥルーズは最大限の尊敬と共感をもってスピノザの哲学を解説しているように私には思える。
 
 やれやれ! けっきょくこんなに長くなるのか! 今回はほんとうに短い記事にするつもりだったのに。それにしても、これだけ長く考えながら書いてきたにもかかわらず、けっきょくいとうの言う「文学的な読み方」なるものがどういうものかはまったくわからずじまいである。というか、「関係の外在性」についてのコメントがまさにそうであるように、率直に言って、私にはいとうが(自分でも言っているとおり)中途半端な理解のままいい加減なことを言っているようにしか見えない。
 
 それとも、「文学的な読み方」に近づくためには、厳密に考えすぎてはいけないのだろうか? これは千葉の言う「イロニーからユーモアへの折り返し」についても言えることだが、厳密に考えすぎないとはどうすることなのだろう? ある程度理解が中途半端であってもかまわないという意味だということはわかるにしても、自分の理解が中途半端だという自覚がありながら、どうして途中で考えるのをやめることを肯定できるのだろう? それは途中で投げ出すこととなにがちがうのだろうか? そしてなにより、そんな体たらくであるにもかかわらず、その理解が中途半端な当のことがらについて、なにかをわかっていると主張することができるのだろうか?
 
 と、書きながら、ひょっとするとこれこそがまさに「考えすぎ」なのではないかとはたと気づいた。だとしたら、私はもうほんとうに途方に暮れるしかない。しかしながら、哲学がものごとをとことん厳密に考えないのだとすれば、ほかのなにがそれをすると言うのだろう?
 

参考文献

スピノザ (平凡社ライブラリー)

スピノザ (平凡社ライブラリー)

*1:いとうせいこう/千葉雅也「装置としての人文書――文学と哲学の生成変化論」『文藝』第53巻第2号,2014年,p.64

*2:同前,同頁

*3:同前,同頁

*4:同前,p.75

*5:千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社,2013年,pp.37-38

*6:同前,pp.83-84

*7:前掲「装置としての人文書」,pp.73-74

*8:ジル・ドゥルーズスピノザ』鈴木雅大訳,平凡社ライブラリー,2002年,p.232