平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ハイデガー超入門――『暇と退屈の倫理学』をめぐる國分功一郎さんとの質疑応答2

 哲学者の國分功一郎さんに再度した『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)についての質問のお返事を待っているあいだに、ちょっとハイデガーの哲学を復習しておこうと思います。
 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 
 前回までの質疑応答の内容に関係のあるところを中心にハイデガーのテクストを読んでいこうと思いますので、以下の記事は、次のリンク先にある國分さんのブログの記事のコメント欄を熟読してからお読みください。
 

 
 最初にお断りしておきますと、今回はかなり厳密にハイデガーのテクストを読み込んでいきます。できる限りわかりやすく説明するつもりですが、それでも哲学に興味のない人には相当きつい内容になっていると思います。とはいえ、哲学に興味のない人が私のブログなんか読みにくるはずがありませんから、気にせずこのままはじめさせていただきます(笑)。もちろん質問や批判は大歓迎です。
 

自己喪失からの脱却としての決断

 
 いただいた「返答(1)」のなかで、國分さんは「ハイデッガーが決断について述べていることは実は大変少ない」とおっしゃっていましたが、主著『存在と時間』(1927年)を読んでいたら、さっそくこんな記述を見つけました。
 

 世間から自己を連れもどすこと、世間的 = 自己を本来的な自己存在へと実存的に変様することは、怠っていた選択の取りかえしをつける(Nachholen einer Wahl)という形で遂行されなくてはならないのである。このように選択の取りかえしをつけることは、この選択をみずから選択することであり、おのれの自己にもとづいて、ある存在可能へ決断することである。選択を選択することにおいて、現存在ははじめて、おのれの本来的存在可能をおのれのために可能にするのである。*1

 
 ここでは、決断は、世間の価値観のなかに埋没して自分を見失っている現存在(人間)が、本来の自分を発見し、それを取り戻すために決行する選択として説明されています。一読して明らかなとおり、ここでハイデガーが論じているのはいまで言う個人のアイデンティティの問題です。ここでも現存在の本来的存在可能とはどういうものかはっきりと提示されているわけではありませんが、少なくともそれがその人にとって非常に重要ななにかであることだけは確かです。なんでもいいものでは絶対にありません。
 
 勘のいい人はもうお気づきだと思いますが、ここだけを抜き出して読むとサルトル風の実存主義のスローガンそのものです。ハイデガーの哲学とサルトル実存主義との大きなちがいは、ハイデガーが別のところでこの本来的存在可能を現存在の運命と呼んでいることからもわかるとおり、それを「本質に先立つ実存」ではなく、存在が現存在に開示する本質として説明しているところです。そこにはプロテスタントの教義である召命の思想の強い影響を見て取ることができます。いずれにせよ、ハイデガーの言う決断とは、その人に特有の能力や才能を開花させることであると考えてやはりまちがいないでしょう。
 
『暇倫』で國分さんが解説しているとおり、『形而上学の根本諸概念』の元となった講義は『存在と時間』刊行の二年後に行われているのですから、そこで論じられている決断も、『存在と時間』で提示したアイディアをただ話題を変えて説明し直しただけと考えるのが自然です。そのあいだになにか考えの変化があったということもないと思います。
 

存在忘却からの脱却としての決断

 
 ここまでは前回に引き続いて國分さんの回答を批判してきましたが、私はいただいた「返答(5)」で國分さんが「臆測」と断った上で提示している「存在忘却を突破できる一つのやり方として彼は決断と言っていたのだろう」という考えには賛成です。ただし、私はハイデガーが「自分がイメージしているものをきちんと言語化できていなかった」とは思いません。ここからは、この問題に関するハイデガーのテクストを読み解いていきましょう。
 
 前回も書いたとおり、ハイデガーによれば退屈とは哲学の根本気分なのですから、根本気分から哲学、すなわち存在の思索が生起すると考えるのはむしろ当然のことでしょう。そこで問われなければならないのは、根本気分において、存在はどのような状態にあり、現存在にどのようなはたらきかけをするのかという問題です。それを考えるためには、退屈の第三形式の意味をもう一度考え直してみる必要があります。
 
 ということで、まずは『暇倫』第五章の注44で國分さんが行っている退屈の第三形式「なんとなく退屈だ」の原文に則した解説を確認しましょう。
 

「なんとなく退屈だ Es ist einem langweilig」というドイツ語の文を簡単に説明しておこう。主語はEsである。これは英語ならItに相当する。Esは何か特定のものを指しているわけではない。英語であれば、It rains〔雨が降る〕という場合のItと同じだ(いわゆる非人称主語)。*2

 
 ふつうのドイツ語文法の解説であればこれで問題ないのですが、相手がハイデガーのテクストとなると、この解説で十分だとは言えません。なぜなら、ハイデガーはEs(それ)に特別な意味を担わせているからです。後年の『「ヒューマニズム」について』(1947年)において、ハイデガーはEsとは存在そのものであると明言しています。
 

 存在とは、いったい何であろうか。それは、〈それ〉〔存在〕そのものである。*3

 
 ですから、「Es ist einem langweilig」という文は決して「理由もなく退屈だ」という意味ではありません。大胆に意訳するならば、この文は「存在が人を退屈させる」という意味になるでしょう。そして、ここで存在が人を退屈させている理由こそが、存在忘却にほかなりません。
 
 退屈の第三形式における空虚放置、すなわち「なにもするべきことがなく、なにもしたいことがない状態」は、同時に人が自分を見失っている状態でもあります。そのような現存在の自己喪失は、同様に存在それ自身が自己を見失っている状態である存在忘却を最も純粋な形式において開示し、ここで前者から後者への移行が起こります。この移行として生じるのが、存在の意味への問いです。
 
 そのプロセスを粗描しましょう。「自分はなにをしたいのか」と思い悩む人は、「自分がすること」の候補を一つひとつ検討していくうちに、「それをすることになんの意味があるのか」というふうに、必ずみずからの行為の意味を問うようになるでしょう。そこに哲学へとつうじる道が生まれます。そこからさらに、「そもそも意味とはなにか」とか、「意味があるとどんないいことがあるのか」とかいったことを考えはじめるようになれば、もう哲学ははじまっていると言えるでしょう。
 
 このようにして「自分のすべきこと、したいこと」をとことん考えていくと、ハイデガーが『存在と時間』において「死へ臨む存在」としての現存在に起こると説明していた無性の露呈が起こります。
 

 現存在の存在をくまなく支配しているこの無性は、本来的な《死へ臨む存在》において現存在自身に露呈される。先駆は、現存在の全たき存在の根拠からして、はじめて《負い目ある存在》をあらわにする。関心は、死と負い目とを同根源的に宿している。先駆する覚悟性にしてはじめて、負い目ある存在可能を本来的にかつ全体的に、すなわち根源的に了解するに至るのである。*4

 
「自分はなにをしたいのか」を極限まで突きつめて考えていくと、自分に与えられている時間に限りがあることを意識せざるをえなくなります。そうすると、「限られた時間のなかで、ほんとうに自分がしたいこと、しなければならないことはなにか」を必ず人は考えるようになり、「自分がすること」の候補はおのずと絞られていくでしょう。ハイデガーによれば、そこで人は、真の意味で自分がしなければならないことなどなにもなく、人生など無に等しいことを悟り、最後には、「なぜ自分は存在しているのだろう」というかたちで、自分をいま存在させているものについて哲学するしかなくなります。
 
 このように、根本気分とは、なにより人間が哲学することの必然性を導くために導入された概念です。ですから言うまでもなく、ハイデガーの考える人間の本来性の筆頭には「哲学すること」が挙げられます。とはいえ、人間の本来性は「哲学すること」に限られるのかと言えば、そんなことはありません。
 
 たとえば、ハイデガーは詩作に代表される芸術作品の創造も存在の真理または本質の開示であると主張していますから、本来性ないし本来的存在可能を「その人に特有の能力や才能」と解釈することがまちがっているわけではありません。「自分に与えられた時間が限られているのなら、限られた時間のなかで自分のほんとうにやりたいことを精いっぱいやり抜こう!」と決断する人もいるはずです。そして、それ自体存在の本質である現存在の能力や才能を開花させることもまた、存在忘却の解決でありうるでしょう。
 
 話を戻しますと、退屈の第三形式において、「自分がすること」の候補の一つひとつを評価し、そのほとんどを「退屈である」として却下していくものこそが現存在の本質である存在それ自身にほかなりません。そのことをふまえるなら、いかなる対象によって退屈させられるのでもない、最も深く純粋な退屈である退屈の第三形式は、存在それ自身が、現存在に提示された既存のあらゆる対象を、すべてみずからの本質に適合しないものとして否定することによって起こるのだと考えることもできます。
 
 この存在による否認、すなわち、存在忘却存在忘却として認識することを現存在に促す存在のはたらきかけこそが退屈です。したがって、退屈の第三形式とは、存在それ自身が存在忘却に退屈している状態のことであり、この存在忘却に対する不快感が、あらゆる退屈の根底にはあるとハイデガーは言いたいのです。以上をふまえれば、『暇倫』第五章の注59で引用されている『形而上学の根本諸概念』の不可解なテクストの意味も理解できるようになるでしょう。
 

「呪縛するものそのもの、つまり時が告げ知らせつつ解放して自由にする事柄、この事柄は、現存在の自由そのものに他ならない」*5

 
 ふつうに読めば、ここで現存在を「呪縛するものそのもの」をどうしてよりによって「現存在の自由」と言い換えることができるのか理解不能ですが、ここで言われている「事柄」とは存在のことだということにさえ気づけば、疑問は氷解します。國分さんはこの「事柄」をそのまま自由と解釈したようですが、それはまちがいです。引用したテクストを注意して読めばわかるように、この「事柄」とは、「それが解放されることが自由であるようななにか」であり、それが抑圧されているからこそ、人は退屈に縛りつけられるのです。自由とは、それ、すなわち存在が自由になることにほかなりません。
 
 以上をふまえるなら、決断とは、現存在の本来性としての存在それ自身を自由にすることであると理解することができるでしょう。
 

存在の思索への転回としての決断

 
 ハイデガーの哲学において、存在が自由になることとは、存在が現存在という場においてみずからの真理または本質を展開している状態、すなわち存在の思索が起きている状態を意味します。
 

 思索とは、端的に言えば、存在の思索である。存在〈の〉思索と言われるときのその〈の〉という属格は、二つのことを言っている。思索は、存在によって呼び求められ促されて、存在へと聴従し帰属するものであるかぎり、思索は、存在〈が〉なすところのものなのである。それと同時に、思索は、存在に聴従し帰属しつつ、存在へと耳を傾け聴き入るかぎりでは、存在〈を〉思索するものなのでもある。*6

 
 引用は『「ヒューマニズム」について』からのものですが、ハイデガーが『存在と時間』の頃から一貫してこのように考えていたのか、それともその後にこう考えるようになったのかについては「侃侃諤諤の議論」*7があるそうです。「返答(5)」と「返答(6)」から判断する限り、國分さんは後者の立場と見てまちがいないでしょう。しかし、私は前者を支持します。なぜなら、『存在と時間』にも「現存在の自由とは存在の自由である」と明言しているテクストがあるからです。引用しましょう。
 

 不安は現存在のうちに、ひとごとでない自己の存在可能へむかう存在を、すなわち、自己自身をえらびこれを掌握する自由へむかって開かれているという意味での自由存在を、あらわにする。不安は現存在を、現存在がはじめから存在してきた可能性としてのおのれの存在の本来性へむかって開かれているという、おのれの自由存在(Freisein für…= propensio in…)に直面させる。しかしこの存在は、とりもなおさず、現存在が世界 = 内 = 存在としてそれに引き渡されているところの存在なのである。*8

 
 ここでは、退屈と同じく哲学の根本気分の一つである不安によって、現存在は「おのれの自由存在」、すなわち存在に直面させられるということが説明されています。ここで言う不安も、退屈の第三形式と同様にいかなる対象ももたない純粋な不安であり、それは存在それ自身が存在忘却という自己喪失に対して感じている不安です。このように、不安や退屈という哲学の根本気分は、いずれも存在忘却を根源としています。
 
 その意味で、不安や退屈という哲学の根本気分は、存在それ自身が存在忘却という自己喪失の状態を脱するために現存在に生起させている感情であると捉えることが可能です。ですから、退屈の第三形式において「なんとなく退屈だ」という声が聞こえるというのは、比喩でもなんでもなく、文字どおり現存在のなかで存在が声を発しているのだと理解する必要があるでしょう。その声を聴くことこそが、存在の呼び声に聴従し帰属すること、すなわち哲学の発端になるのです。ハイデガーの考える哲学とは、存在忘却という自己喪失の状態にあった存在が、根本気分の経験を契機に自己認識を回復しはじめるプロセスにほかなりません。
 
『「ヒューマニズム」について』において、ハイデガーは、存在が現存在における存在忘却を脱し、存在の思索を展開しはじめる契機のことを転回と呼んでいますが、『存在と時間』の段階では「この転回を十分に言い述べようとしてもうまくゆかず、また、形而上学の言葉の助けによっては切り抜けられなかった」*9とも述べています。このことを考慮するならば、『「ヒューマニズム」について』以前に試みられた不十分な転回の説明こそがハイデガーの決断論であるとみなすこともできるでしょう。事実、それらしきテクストを『存在と時間』のなかに見つけることができます。
 

 良心を持とうとする意志は、この負い目ある存在へ、決断的におのれを明けひらく。決断的な覚悟性の本来の趣旨からいえば、それは現存在が存在しているかぎり帯びているこの負い目ある存在へむかっておのれを投企するのでなければならない。してみれば、われわれが覚悟性のなかでこの《負い目》を実存的に引きうけることが本来的におこなわれるためには、その覚悟性は、現存在の開示において、負い目ある存在を常住の存在として了解しうるほど透察的になっていなくてはならないのである。*10

 
 ハイデガーは、このあとで「覚悟性とは、ひとごとでないおのれの負い目ある存在へむかって呼びだされ、それに応ずることである」*11とも述べていますから、先ほど引用した『「ヒューマニズム」について』における存在の思索の定義と比較してみても、決断と転回のあいだにそれほどちがいはないようにも見えます。決断は現存在の意志による選択として説明されていることは確かですが、同時にそれはある特別な条件のもとで可能になる選択であることも強調されています。それが現存在への覚悟性の開示です。ですから、ハイデガーの言う決断とは、存在が現存在にその人に固有の覚悟を開示することによってはじめて可能になるものであり、もともと國分さんが「返答(5)」で説明しているような「現存在がやろうと思ってできること」ではありません。
 
存在と時間』の段階におけるハイデガーの決断の説明に不十分なところがあるとすれば、決断または転回における「存在の呼びに応じる現存在の意志のはたらき」と「存在の呼び求める促し」とが別々のものではなく、同じ一つの現象であることが伝わりにくいことです。もちろん、それは被投性というハイデガーによる世界内存在の規定からおのずと導き出されるものではありますが、それでもわかりにくいことは確かでしょう。とはいえ、それが後期のハイデガーに特有の思想ではないこともまた明白です。では、転回の概念の導入によってなにが変わったのでしょうか。
 
 私は、転回の概念は存在に対する現存在の受動性を強調しただけで、ハイデガーの哲学の体系そのものに大きな変化をもたらしたということはないと考えます。ですから細かいことを言えば、「返答(6)」での「ハイデッガーは後に、〈存在〉という視点の設定を、存在了解のような現存在の何らかの行為としてではなく、生起として考えるようになりますが(「存在の生起」)」という國分さんの説明も不正確で、正しくは、「存在に対する視点の設定は、現存在の行為であると同時に存在の生起でもあることが後期ではより明確になった」ということであり、その点について前期と後期のハイデガーの考えにちがいがあるとは思えません。本人も、「この転回は、『存在と時間』の立場の変更ではない」*12と断言しています。
 
 以上で、前回のお返事では字数制限の都合で省略せざるをえなかったことはだいたい説明できたと思います。取りあえずは私が自己流で好き勝手な解釈をしているのではないことを示せればそれでよかったのですが、ちょっとどころではない長さになってしまいました(笑)。最後までおつきあいくださった方がもしいらっしゃれば、感謝いたします。
 

参考文献

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)

形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独 (ハイデッガー全集)

形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独 (ハイデッガー全集)

エスの系譜  沈黙の西洋思想史

エスの系譜 沈黙の西洋思想史

*1:マルティン・ハイデッガー存在と時間』下,細谷貞雄訳,ちくま学芸文庫,1994年,p.97

*2:國分功一郎『暇と退屈の倫理学朝日出版社,2011年,p.xxvii

*3:マルティン・ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎訳,ちくま学芸文庫,1997年,p.58

*4:前掲『存在と時間』下,p.175

*5:國分前掲書,p.xxviii

*6:前掲『「ヒューマニズム」について』,p.23

*7:同前,p.349

*8:前掲『存在と時間』上,p.396

*9:前掲『「ヒューマニズム」について』,p.50

*10:前掲『存在と時間』下,p.173

*11:同前,p.173

*12:前掲『「ヒューマニズム」について』,p.50