平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ハイデガーと決断――『暇と退屈の倫理学』をめぐる國分功一郎さんとの質疑応答1

 昨年哲学者の國分功一郎さんにした『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)についての質問にご回答をいただきました。非常にご多忙にもかかわらず、時間をかけて真剣に答えてくださったことがわかる長文の論考に感動しております。ほんとうにありがとうございました。
 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 
 ということで、今回は唐突に文体を変更し(笑)、國分さんの労にお応えするため、いただいたお返事にしっかりとお答えしたいと思います。
 
 以下の記事は、次のリンク先にある國分さんのブログの記事のコメント欄を精読した上でお読みください。
 

 
 では、それぞれの質問ごとに解説しましょう。
 

質問1についての確認と補足1

 
 非常にご多忙のなか長文のご回答を用意していただき、感謝いたします。まさかここまで真剣かつ懇切丁寧にお答えいただけるとは思っていなかったので、感動しております。待っていたかいがありました。
 
 しかし、ご回答を読ませていただいた限り、どうも私の質問の意図がうまく伝わっていないように感じましたので、その点について確認と補足をさせていただきたいと思います。
 
 まずは、質問1「ハイデガーの決断を論じる際に、ハイデガーが決断に付していた「自分自身へと向けて」という条件を顧慮しなかったのはなぜでしょうか?」に対するご回答についてお返事いたします。
 
 いただいた「返答(1)」で、國分さんは質問1を「ハイデッガーの言う決断は内容を欠く決断ではないか?」と言い換えることができるとおっしゃっていますが、これは誤解です。私の言いたかったことはまったく逆で、「ハイデガーの言う決断には〈自分自身〉という内容があるのではないか?」というのが質問1の趣旨です。たしかに私の聞き方も悪かったと反省していますが、ちゃんとそういうふうに読めるはずです。
 
 最初の「質問1−1」に引用した『暇と退屈の倫理学』第五章の注60をもう一度読んでみてください。
 

「現存在の自由というこのことは、現存在が自分を自由にするということのうちにのみある。しかし、現存在が自分を自由にするというこのことが起こるのは、そのつどただ、現存在が自分自身へと向けて、決断するときだけ、すなわち、現存在が現−存在としての自分のために自分を開くときだけである」*1

 
 このテクストにおいて、ハイデガーは決断を「現存在が現−存在としての自分のために自分を開くとき」と言い換えています。これを素直に読めば、決断とは要するに「自分のしたいことを行動に移すこと」です。拍子抜けするほど単純な解釈ですが、私にはそう書いてあるようにしか見えません。それ以外の読み方ができるでしょうか? そして言うまでもなく、このような決断を私は奴隷化だとは考えません。
 
『暇倫』では、決断を、國分さんが「返答(2)」で一つの可能性として例示している「無内容な形式的行為」、すなわち「特定の内容をもたないそれ自体を目的とする行為」と見る解釈に基づいて論じられていると私は理解したのですが、だとすると、引用した注のテクストにおいて、ハイデガーは「内容はなんでもいいからとにかく決めてしまえ!」と教えていることになるはずです。しかし、このテクストをそう解釈することは不可能だと私は考えます。
 

質問1についての確認と補足2

 
 問題は、退屈の第三形式における決断と自由の関係です。國分さんは、ハイデガーの言う自由を「なにもすることがないから、逆になんでもすることができること」と解釈していますが、これは誤りだと思います。
 

 このゼロの状態は、しかし、人間が自分たちの可能性を知るチャンスでもある。その可能性の先端部に否応なしに目を向けさせられるから。あらゆる可能性が拒絶されているが故に、かえってその可能性が告げ知らされる……。*2

 
 私は、退屈の第三形式が現存在にもたらす〈空虚放置〉を、人間が決断の内容を発見するための条件であると解釈します。
 
 退屈の第三形式において、するべきことがなにもなく、したいこともなにもない空虚な状態に放置された人間は、そのことによって逆に、自分はなにをすべきか、自分はなにがしたいのかを真剣に考えざるをえなくなる。それを思考する自己に向きあい、おのずとそのように思考が展開する。けれどもなかなかいい考えが浮かばない(〈引きとめ〉)。ここまでは『暇倫』の説明と同じです。
 
 そうして考え抜いた末に、「これだ!」と思うものが〈ひらめく〉(先端=呪縛を突き破る瞬間「返答(1)」)。「よし! それだ! そうしよう!」(「完全に情態的に捉えられて感動させられた状況のうちで実存すること」「返答(6)」)。このような〈ひらめき〉はそのときだけしか起こらない(「そのつど一回的で唯一的な実存すること」「返答(6)」)。このようにして発見されるものこそがその人の〈ほんとうにしたいこと〉であり、そのことによってはじめて人は自分自身を発見する(「現存在が現存在自身へと単独化すること」「返答(6)」)。それこそが自由である。
 
 決断とは、このような〈ひらめき〉によって開示された〈自己の本来性〉を実現すべく行動を起こすことです。というより、この〈ひらめき〉からおのずと行動が生じます。それが「決断の方が私を持っている」(「返答(6)」)ということの意味です。こんなふうに、〈存在〉を持ち出すまでもなく、國分さんが不可解だとおっしゃっていたパズルのピースは問題なくきれいにまとまります。
 
 とはいえ、退屈は哲学の〈根本気分〉ですから、もちろんハイデガーは「このようにして人は哲学に目覚めるのだ」と言いたいのでしょう。
 

質問2についての確認と補足

 
 続いて、質問2「決断は全否定しなければならないものでしょうか?」に対するご回答についてお返事いたします。
 
 ご教示いただいたページにはたしかに「必要なこともある」と書いてありますので、私の早とちりだったと素直に引き下がってもいいのですが、それではつまらないのでもう少しがんばってみますと、國分さんの言う「全否定ではない」とは、「「よい決断」もある」という意味なのでしょうか? 國分さんの書き方を見る限り、そうだとは思えません。
 

 周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。
 繰り返すが、そうしたことが必要な事態もあるだろう。*3

 
 決断に対するネガティブな評価は『暇倫』において一貫しています。「彼らは決断し、自ら奴隷になる。ならば、いったいそのどこが「本来的」なのか?」*4や「人は決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない」*5といった「決断は奴隷化だから悪い」という記述から判断する限り、決断は、ただ退屈への対処法として不適切であるというだけでなく、おおよそ倫理学が生き方として人に教えてはならないものとして否定されているようにしか見えません。だからこそ、それに代わるものとして〈動物になること〉が対置されているのだと私は理解しました。
 
 ですから私は、國分さんの言う「全否定ではない」ということの意味は、「原則として否定されるべきだが、やむをえず認めざるをえない場合もある」という意味であり、「すすんで選び取るべき場合もある」という意味ではないと受け取りました。そこで、最初の「質問1−2」に書いたことと同じことをもう一度お聞きしますが、「推奨されるべき決断」や「奴隷化ではない決断」は存在しないのでしょうか?
 
 以上、お返事してきましたが、肝心のところですれちがっているせいで、私の当初の質問の趣旨を説明し直すだけに終わってしまっているように思います。このまま終わっては残念ですので、お忙しいところほんとうに恐縮ですが、以上の点についてもう一度國分さんの考えを教えていただけないでしょうか。

*1:國分功一郎『暇と退屈の倫理学朝日出版社,2011年,pp.xxviii-xxix

*2:同前,p.244

*3:同前,p.298

*4:同前,p.317

*5:同前,p.352