平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

消費をどう見るか――宇野常寛/國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」を読む2

『すばる』2012年2月号に掲載された批評家の宇野常寛と哲学者の國分功一郎の対談「個人と世界をつなぐもの」における議論のなかでいちばん目を引くのは、やはり消費社会をめぐる両者の見解の対立である。
 

すばる 2012年 02月号 [雑誌]

すばる 2012年 02月号 [雑誌]

 
「消費社会にいかに対抗するか」という問題は、國分の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)の一つの大きな柱となっている。それに対する國分の処方箋が適切であるかどうかを判断するには、まずはその診断が正しいかどうかを確かめてみる必要があるだろう。
 

國分功一郎の消費社会論の問題点

 
 最初に、國分が『暇倫』においてフランスの社会学ジャン・ボードリヤールに依拠しつつ提示した消費と浪費の区別を確認しておこう。
 
 國分の言う浪費とは、物を必要以上に受け取ることである。たとえば、おいしい料理を一日に摂取する必要のある栄養分の目安以上に食べることは浪費であり、それは満足をもたらす。とはいえ、どんなにおいしいものでも食べすぎれば気持ちが悪くなるように、それにはおのずと限界がある。ここまではいいだろう。
 
 問題は、消費の定義である。対談ではこう説明されている。
 

 浪費から区別された意味での消費というのは、物ではなくて、物に付与された概念や意味を対象にしている。ポストモダンの代表的な思想家であるジャン・ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言いました。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ物は消費されることができない、と。*1

 
 このような意味での消費、すなわち物に付与された記号を消費することは満足をもたらさないと國分は主張する。だが、ここで言われている「物に付与された概念や意味を消費する」とはどういうことなのか、この説明を読んだだけではわからないだろう(おそらく、この対談を読んだだけの人にはわからないと思う)。『暇倫』からもう少しくわしい説明を引こう。
 

 もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう? 「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、ある娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流す。その翌日、視聴者に金銭と時間を使い、その娯楽を「楽しんで」もらう。私たちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。*2

 
 同様の説明は、「結論」において食を例として繰り返されている。「おいしいものをおいしいと感じているのではなくて、おいしいと言われているものをおいしいと言うために口を動かしているかもしれない」。*3これらの説明は、それぞれ「楽しいもの」という記号と「おいしいもの」という記号を消費することの例である。「言うため」というのは「だれかと話題にするため」という意味だ。
 
 ただ「楽しい」と言われているだけでほんとうは楽しくない娯楽が楽しいわけがない。それはただ「おいしい」と言われているだけの食品についても同様である。國分の言う記号の消費とは、こうしたマスメディアによって捏造されたイメージにつられて実質のない商品や娯楽にお金を出してしまうことを意味する。だが、ここですでに、宇野が指摘したように、「生産者側が情報を操作して消費者の欲望をコントロールする」という構図が、はたして現代の高度情報化社会において通用するのかという疑問が生じるだろう。*4私はしないと思う。
 
 とはいえ、それは最近になって通用しなくなったというのではなく、はじめから通用しない理論だったと私は考える。
 

消費社会批判と大衆への軽蔑

 
 あたりまえのことだが、消費者は、たとえば一度観て少しも楽しめなかった映画を何度も観たりはしないし、そんな映画を人に薦めたりもしない。薦めないどころか、その映画のできがあまりにもひどいと思えば、進んで悪い評判を広めさえするだろう。いや、そもそもそれ以前に、いくらテレビや広告が薦めても、消費者は自分が観たいと思わないような映画をわざわざ観に行ったりはしない。事実、どれだけ宣伝してもぜんぜんお客が入らなくて失敗する映画などいくらでもある。
 
 同じことは、映画以外のエンターテインメントについても、ファッションなどの流行についても言えるだろう。その意味で、文化産業の側に商品や娯楽の受け取られ方をそれに先立って「決める」力などない。「文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する」*5というように、國分は、あたかも文化産業が消費者の意向を無視して自分たちに都合のいいものばかりを自由に作って売ることができるかのような主張をしているが、そんなことはありえない。
 
 だが、そうかと思うと、生産者の側が消費者の欲望に従わされていると主張している箇所もある。國分は、ポスト・フォーディズムの生産体制における製品の絶えざる不必要なモデルチェンジの原因は、消費者の消費スタイルにあると告発している。
 

 なぜモデルチェンジしなければ買わないし、モデルチェンジすれば買うのか? 「モデル」そのものを見ていないからである。モデルチェンジによって退屈しのぎ、気晴らしを与えられることに慣れきっているからである。
 私たちは実際に「チェンジ」しているかどうかではなく、「チェンジした」という情報そのものを消費する。*6

 
 ここでは、生産者の側から仕掛けていたはずの記号消費が、なぜか突然「じつは消費者の側からの要求でもあった」ということにされている。それ自体もおかしいが、このように論じる國分の議論から完全に抜け落ちているのは、企業はつねに同業他社と競争しているという常識である。市場で勝ち残るためには、自社の製品が同業他社の製品と比べて見劣りするなどということは絶対にあってはならない。それが企業が自社製品を絶えずカスタマイズせざるをえない第一の理由である。よほどのお金持ちか、救いようのない浪費家でもない限り、新製品が出るたびに新しいものに買い換える消費者などいない。
 
 國分の言うとおり、たしかに消費者は「自分の欲しいもの」を広告に教えてもらう。だから、「消費者の側に欲しい物があって、それを生産者が供給するなどというのはまったくの事実誤認である」*7という國分の主張はある意味では正しい。だがそれは、生産者があらかじめ商品の受け取られ方を「決める」こととはちがう。生産者は、消費者の欲しがりそうなものを先取りして供給しなければならないのだ。それは生産者が潜在する消費者のニーズに対応するための努力である。
 
 國分に限らす、ボードリヤールを典型とするステレオタイプの消費社会批判は、例外なく消費者の主体性や能動性を無視するか過小評価することによって成立している。ゆえに、その多くは「愚かな大衆」への侮蔑を隠そうともしていない。國分はそうした大衆への軽蔑を自身の議論から細心の注意を払って追放しようとしてはいるものの、それでも、消費者を主体性も判断力もない愚かな人たちとみなしていることに変わりはない。
 
 余計なことかもしれないが、こうした思考に陥らないようにする秘訣は、「自分はそうではないけれども、ほかの連中はきっとそうにちがいない」という考え方をやめることである。
 

宇野常寛のハッキング論の射程

 
 それに対し、宇野常寛が『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)において提示しているハッキングという概念は、消費者の能動性に光を当てるものである。
 
 宇野は、國分が紹介する「今でも現実に追いつけないのに、宇野さんが言っているように、それに追いついて更にハッキングするなんて僕にはできない」*8という読者の声に対し、こう答えている。
 

 僕の考えるハッキングとは、貨幣や情報のネットワークに欲望を吐き出していくと半ば自動的にシステムが更新されていくというイメージです。だから、きっとそう書いた人の身近でもすでに現実へのハッキングは出現していると思います。たとえばチュニジアジャスミン革命もハッキングですから。*9

 
 宇野の言う「貨幣や情報のネットワークに欲望を吐き出す」という行為は、ブログやSNSツイッターで商品の感想や評価を発信するような積極性のある行動だけでなく、単純になんらかの商品を購入することも含まれている。あたりまえのことだが、消費の動向というものを生み出すのは、個々の消費者の購買行動の総和以外のなにかではない。その意味で、消費とはリアルタイムで行われる人気投票であり、消費者はそれをつうじて絶えず市場を支配する状況にコミットし、時々刻々とそれを作り出している。この機能を身も蓋もなく前面に出して成功したのが、いわゆるAKB商法だろう。
 
 この対談から読み取れる限りで整理すると、宇野の言うハッキングには大きく分けて二つの側面がある。一つは、消費社会が提示するものを肯定ないし否定し、それを受容ないし拒否する応答性であり、もう一つは、消費社会が提示するものを肯定ないし否定しつつ、それを補完するか、それに代わる新しいものを作り出す生産性である。
 
 後者の例として宇野が挙げるのは、「祭り」と呼ばれる自己目的化した消費者間のコミュニケーションや、キャラクター消費と呼ばれる二次創作などのオタク文化だが、それに限らず、ハッキングは、たとえばファッションの分野で言えば、作り手の側が予期していなかった着こなしや他のアイテムとのコーディネート、消費者自身による製品の加工を含むアレンジメントというかたちで日々実践され、それが新しいファッションやブームの起爆剤となることもある。同様の事例は、それ以外の分野からもいくらでも見つけることができるはずだ。
 
 こうした既存のものに満足しない消費者の欲望の剰余こそが、新しいものを生み出す想像力と、新しく生み出されたものを受け入れる受容力との根源となるのだ。
 

リトル・ピープルの時代とドゥルーズの世紀

 
 以上の宇野の主張に同意しつつも、私はそれに既視感を覚えずにはいられない。というのも、宇野のハッキング論は、40年前にフランスでドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂症』(1972年)において展開して見せた欲望的生産の理論とそっくりだからだ。
 
 対応するテクストを引用しよう。まず、ハッキングの応答性を、ドゥルーズ=ガタリは欲望的生産と社会的生産との平行関係として説明している。
 

 社会的生産は規定された諸条件においては、もっぱら欲望的生産そのものなのである。社会的領野は直接的に欲望に横断され、それは歴史的に規定された欲望の産物であり、リビドーは、生産力と生産関係を備給するために、いかなる媒介も、いかなる昇華も、いかなる心理的操作も、いかなる変形も必要としない、と私たちは主張する。ほかのなにものでもなく、ただ欲望と社会的なものが存在する。社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。*10

 
 続いて、ハッキングの生産性に相当するのが、欲望的生産の乱調の機能である。
 

 欲望機械は作動しながら、たえず調子を狂わせ、ただ調子を狂わせることによって作動する。つまり生産する働きは、たえず生産物に接木されるのであり、機械の部品はまた燃料でもある。芸術は、しばしば欲望機械の特性を利用して、まさに集団幻想を創造するが、集団幻想は社会的生産と欲望的生産を短絡させ、技術的機械の再生産過程に、乱調の機能を導入するのだ。*11

 
 こうして対比してみると、宇野と國分のどちらがドゥルージアンなのかわからなくなる。
 
 この対談の後半において私が國分に期待した役割は、この宇野とドゥルーズ=ガタリの理論との平行性を指摘しつつ、宇野の理論にそれを超えるどのような新しさがあるのか(あるいはないのか)を明確にすることであった。ゆえに、私はそれを指摘していないばかりか、宇野のハッキング論に対してまるで「そんな斬新な考え方ははじめて知った」かのような反応をしている國分に大いに不満である。「あれもハッキング?」*12などと感心している場合ではない。
 
『暇倫』を読んでなにより不可解だったのは、ドゥルージアンであるはずの國分が、ドゥルーズ=ガタリの理論を一顧だにせずに消費社会を論じていることだ。この点については直接ご本人に質問してみたいと思っているのだが、以前にしたハイデガーの決断論についての質問にもまだ返事をいただけていない状態なので、残念ながらそれを果たせずにいる。
 
 そのほかにも、こちらは國分がちゃんと指摘しているとおり、「ビッグ・ブラザー」に「リトル・ピープル」を対比して論じる宇野の権力観も、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの権力論の焼き直しでしかない。*13それを流行作家の村上春樹が言い出したからといって、なにか目新しい思想ででもあるかのように喧伝するようでは、「ビッグ・ブラザー」を奉ずる権威主義となにも変わらない。批評家も哲学者も、できる限り先行する思想家の業績を尊重し、それに立脚した議論をすべきである。それ以外に新しいものを見分ける視座を獲得する方法はない。
 
 宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』にドゥルーズの世紀を超える新たなヴィジョンを提示できているのかどうか、私にはわからない。だが、それこそが宇野や國分のような新しい時代の言論人に私たちが期待するものである。その真価を見極めるためにこそ、私たちは何度でもフランス現代思想の復習からはじめなければならないのだ。
 

参考文献

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス草稿

アンチ・オイディプス草稿

*1:宇野常寛國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」『すばる』2012年2月号,集英社,p.160

*2:國分功一郎『暇と退屈の倫理学朝日出版社,2011年,p.22

*3:同前,p.344

*4:前掲「個人と世界をつなぐもの」,p.160

*5:國分前掲書,p.23

*6:同前,pp.136-137

*7:同前,p.126

*8:前掲「個人と世界をつなぐもの」,p.168

*9:同前,p.168

*10:ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』上,宇野邦一訳,河出文庫,2006年,pp.61-62

*11:同前,p.65

*12:前掲「個人と世界をつなぐもの」,p.168

*13:同前,p.164