平岡公彦ブログ

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

宇野常寛について――宇野常寛/國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」を読む1

『すばる』2012年2月号に掲載された批評家の宇野常寛と哲学者の國分功一郎の対談「個人と世界をつなぐもの」を読んだ。
 

すばる 2012年 02月号 [雑誌]

すばる 2012年 02月号 [雑誌]

 
 対談の内容は、昨年2011年に刊行された宇野の『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)と國分の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)のプロモーションをしつつ、そこで論じられている個別の論点について意見交換をするというオーソドックスなものだ。とはいえ、なかにはかなり突っ込んだ議論もあり、とりわけ消費社会については、宇野と國分の見解は真っ向から対立しており、どちらの著者の読者にとっても興味深い対談になっていると言えるだろう。
 

宇野常寛という批評家について

 
 この対談を読むまで、宇野常寛という批評家に対する私のイメージは、「いかがわしい世代論を売り物にするインチキくさいAKBオタク」にすぎず、前著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)にも新著『リトピー』にもまったく興味がなかった(もちろんどちらも読んでいない)。それは私以外の國分の愛読者のあいだでも同様のようで、たとえばHowardHoax氏による『暇倫』の書評のコメント欄でも、「まともな書き手であれば本来相手にすることもない」だの、「この人の著作は読む気になれない」だの、散々な言われようである(笑)。無論、かく言う私自身も同意見だったのだが。
 

 
 だが、以前から國分が宇野を高く評価していることは知っていたため、この対談は、なにより國分の宇野に対する評価を知りたくて読んでみることにした。
 
 ところが、実際に二人のやり取りを読んでいくと、べつに勝ち負けを競っているわけではないだろうが、私は終始一貫して宇野の主張に分があるように感じた。たとえば、宇野は『暇倫』の消費社会論を全否定と言っていいほど痛烈に批判しているが、それに対して國分はほとんどまともに反論することができていない。
 

 消費社会批判の考え方の基本線としてこういうクリシェがありますね。市場は企業や資本家が商品を打ち出し、資本家の論理で動いている。我々は資本家にコントロールされていて、ひたすら次から次へと記号を消費するのみである。そのようにして、記号を消費するのは、我々にとって非常に不幸なことなんだ。國分さんが『暇倫』でおっしゃっていることの枠組みの八割ぐらいが、この基本線に乗っかっていると思います。*1

 
 さらに、続けて宇野は「資本が情報をコントロールし消費者の欲望をもコントロールするという消費社会観は二十一世紀の今日においてはややアナクロではないか」*2と疑問を呈する。私もそのとおりだと思う。これに対し、國分は「消費社会によって物も人も使い捨てになったために非正規雇用が増えている」という別の論点を提起して応じるものの、それも「消費社会と非正規雇用の問題は別だ」と一蹴されている。*3この点についても私は宇野の言うとおりだと思う。
 
 その後も、國分は消費社会や非正規雇用の問題と絡めつつ、「金融の哲学」や「保育園の重要性」や「概念の力」といったかねてからの持論を展開しようとするのだが、そうした問題提起も、ただいたずらに議論を散漫にするばかりで、たいした深まりを見せることもなく次の話題に移ってしまう。なにより残念だったのは、そうした國分のふるまいが、私には宇野に対する劣勢を必死で挽回しようとしているように見えてしまったことだ。
 
 ともあれ、この対談における宇野の日本社会の現状と日本の人文思想界が抱える問題についての分析は的確であり、共感できるところが多かった。AKB48の総選挙システムをモデルとした選挙制度改革の提案にはさすがに白けてしまったが、提案の内容自体はいい加減な思いつきではなく、そのメリットが理路整然と説明されていることに好感をもてた。
 
 宇野に対する認識を改める機会を得たことが、この対談を読んだ最大の収穫だった。
 

『リトル・ピープルの時代』について

 
 とはいえ、これまでの宇野常寛の仕事に対する私の印象は変わらない。私は宇野の著書を一度も読んだことがないので、本来ならばその評価について論じる資格はない。だが、今回読んだ対談から大まかな著書の内容を知り、ネット上のいくつかの書評を読んでみはしたものの、やはり私は宇野の本を読む気にはなれなかった。その理由をここで整理しておくくらいのことは許されるだろう。
 
 たとえば、宇野に限らず、村上春樹の小説を社会思想として読み解こうとする愚かな批評家があとを絶たないが、そんなものにつきあうのは時間の無駄である。私は思考実験としての文学が社会制度を改革する新しいアイディアの源泉となる可能性を否定しないが、村上春樹の小説はそうしたアイディアを提案することをめざした作品ではない。ただ実際に起きた事件や社会問題をネタにしているだけだ。
 
 もちろん、村上春樹の小説が読者の生き方になんらかの指針を与えることはあるだろう。人によってはそこに救済を見出すことさえあるかもしれない。その意味で、村上春樹の小説は読者の生を豊かにする。だが、それは社会を変える役には立たないし、役に立つ必要もない。宇野が論じている『1Q84』(新潮社)はとてもよくできたエンターテインメント小説だったと私は思うが、それをあたかも預言書かなにかのようにありがたがる人たちがいることには辟易する。それは文芸書業界内部でしか通用しない珍奇な宗教である。
 
 ゆえに、宇野の主張はすでにその出発点がまちがっている。
 

 現にこの本で僕は「ビッグ・ブラザーの壊死」は「前提」で、それを主張するだけでは何の批判力もないとはっきり書いている。だからこそ、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチと『1Q84』をたたき台に議論を進めています。そして、春樹は六八年的な暴力の問題、連合赤軍からオウム真理教までを結ぶものには対峙できているが、その延長線上で9・11的なもの、グローバル/ネットワーク的なものへは対応できない、じゃあどうするか、という問題の立て方をしているんです。*4

 
 社会問題に「対峙する」こととは、それを乗り越えるための具体案を提示すること、あるいはそのための努力をすることである。それは少なくとも、それがなにを意味しているのか読む人によってまったく解釈が異なるようなわけのわからないファンタジー小説を書くことでは絶対にない。それは決して個別の社会問題に「対応する」方法を教えない。それを読むことが個別の社会問題に直接向きあうことよりも重要だなどと本気で考えている人がいるとすれば、そんな人はさっさと言論の世界からいなくなってくれたほうがいい。
 
 例を挙げよう。たとえば、私はfinalvent氏が『リトピー』の書評で展開しているような議論を読むと目眩がしそうになる。
 

 話題が煩瑣になるが、本書でも焦点が当てられる「1Q84」の牛河だが、彼の無残な死からリトル・ピープルが発生するのは、宇野の読みとは異なり、牛河がリトル・ピープルであることを超越していくことにある。このことは「神の子供たちはみな踊る」(参照)の「かえるくん、東京を救う」の片桐が「1Q84」の牛河だと言ってもよいことからも明らかである。世界最大都市東京の終わりという大虚構に向き合って、かえるくんと一緒に阻止に奮迅したのが片桐であったように、「1Q84」の書かれざる物語においては、牛河の転生としてのリトル・ピープルは世界の救済の契機となるだろう。ビッグ・ブラザーの両義性とともに、リトル・ピープルの両義性は村上春樹文学にすでに胎動している。

[書評]リトル・ピープルの時代(宇野常寛): 極東ブログ

 
 一読して明らかなように、これは決して社会人たる大人が大まじめに論じなければならないような問題ではない。「児戯」とはこのような評論のことを言うのである。自分の生き方や社会のあり方をどうにかしたいと切実に願っている人がこうした議論から得るものはなにもない。無意味な遠まわりで時間を無駄にするだけだ。
 
 もちろん、村上春樹オタクが内輪でこうしたおしゃべりに夢中になるのは勝手だが、それ以外の人がそんなものを相手にする必要はまったくない。
 

ビッグ・ブラザーとハシズム

 
 具体案を出す努力をしない(するつもりもない)無責任な評論家がどのような醜態をさらしてきたかは、つい最近話題になった大阪市橋下徹市長と、この対談で宇野が社会学者の宮台真司とともに一時期日本の言論を支えていたなどと持ち上げている*5精神科医香山リカとの「ハシズム論争」を見れば明らかだろう。
 
 このスキャンダルについては、私が山本一郎氏の批判に付け加えるべきことはなにもない。だが、一つだけ事実誤認があるのは、「いま」ではなく、香山は、遅くとも私の学生時代から、すでに自分勝手な印象に基づくいい加減な思いつきを「社会病理」に仕立て上げて吹聴する無責任な評論家として軽蔑されていた。
 

 
 それにしても、主として左翼系の言論人たちが、蛇蝎のごとく忌み嫌う石原慎太郎橋下徹のような政治家にいままでのところろくに太刀打ちできていないような体たらくだというのに、「ビッグ・ブラサーの壊死」などという脳天気なことを言っていていいのだろうか。彼らの地位を支えているのは相も変わらず「ビッグ・ブラザー」を待望する民衆の声である。
 
 批判者たちがそう言うように、石原都知事や橋下市長がほんとうに危険な独裁者なのであれば、彼らの暴走に歯止めをかける政治のしくみを一刻もはやく実現しなければならないはずだ。そしてそのためには、なにより具体案を出す努力をするしかないのだ。ジャーナリストの田原総一朗の言うとおり、対案を示すことのできない「有識者」が政治家と政策論争をして勝てるはずがない。
 

 しかし討論の際、相手の批判を受けて橋下さんが「では、あなたならどうしますか」と問うと、対案が出てこないのである。日本の与党を批判する野党が、与党から「では、あなたならどうするか」と問われると対案が出てこないのと同じ構造だ。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120131/297845/

 
 一連のハシズム騒動ではっきりしたことは、少なくとも、橋下市長は批判者の提案を聞く気のある政治家だということである。そのような人物が政治の実権を握っていることは、むしろ政治に対して直接意見を表明したい言論人にとってはチャンスでもあるはずだ。
 
 この好機に、「われこそは」と奮起する言論人が大勢現れてくれることを期待する。
 

子供向け番組のヒーロー論の限界

 
 宇野が得意とするという、ウルトラマン仮面ライダーのような子供向けヒーロー番組がどうしたというような議論に私はつきあう気はない。
 
 宇野も國分も、このようなテーマを扱うことが批評への敷居を下げると考えているようなのだが、私はまったく逆だと思う。宇野の批評を「好きなもの擁護」を超えた批判力をもっているなどと評しているのは宇野のファンとその周辺の人たちだけであり、子供向け番組のヒーロー論というテーマは、特撮ヒーローオタク以外の多くの人たちから敬遠される要因にしかなっていない。あたりまえのことだが、子供向けヒーロー番組は大人が社会と向きあうための入口ではないし、入口であるべきでもない。
 
 このような不毛な仕事を続けている限り、宮台真司香山リカの著書と同様に、宇野の著書もまた数年もしないうちに跡形もなく忘れ去られるだろう。もっとも、それが同時代評論というものの宿命なのかもしれないが、こうしたはじめから極端に限られた読者しか相手にしていない「日本社会論」にうつつを抜かしていることこそが、批評そのものの信用失墜と地位低下に拍車をかけていることにはやく気がつくべきである。
 
 すいぶんと辛辣なことばかり書いてしまったが、國分との対談を読んだ限りでは確かな観点をもつ批評家だとは思うので、無意味な評論にはさっさと見切りをつけて、その才能にふさわしい有意義な仕事にはやく取りかかっていただきたいと思う。
 

参考文献

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

*1:宇野常寛國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」『すばる』2012年2月号,集英社,p.160

*2:同前,p.160

*3:同前,p.163

*4:同前,p.167

*5:同前,p.156