平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

概念の創造の実践――國分功一郎『スピノザの方法』を読む

「それではこの神のことを、われわれは、その寝椅子の『本性(実在)製作者』、または何かこれに類した名で呼ぶことにしようか?」
                                         ――プラトン『国家』*1

 
 哲学者國分功一郎博士論文であり、初の著書でもある『スピノザの方法』(みすず書房)のテーマは、タイトルのとおりスピノザの方法である。
 

スピノザの方法

スピノザの方法

 
 スピノザの方法といえば、だれもが幾何学的方法と呼ばれる『エチカ』(1677年)の記述スタイルを想起するだろう。だが、本書が課題としているのは、もちろんそうした形式上の特徴の退屈な解説などではなく、方法に対するスピノザのどのような考え方がそのような様式を要請したのかという問題である。
 
 無論、それと同時に、本書はスピノザの読み方を教える本でもある。私自身、本書に教えられるまで、理解するどころか、そこに問うべき問題があることさえ気づかずに素通りしていたところがたくさんあったことに気づかされた。本書をつうじてはじめて真にスピノザを読めるようになると言っても過言ではないだろう。
 
 本書第一部の議論を追ってみよう。
 

方法の逆説と方法論の逆説

 
 國分によれば、真理に到達する方法を求める思索は、方法の逆説方法論の逆説という二つの逆説に陥ることを避けられない。
 
 方法の逆説とは、「真理に到達する方法は、実際に真理に到達することによってしか知りえないため、真理を発見するまえにそれを発見する方法だけを知ることはできない」という逆説であり、方法論の逆説とは、「真理に到達する方法は、真理の発見以前には知りえないため、真理の探究を開始するまえにその方法の正しさについて論じることはできない」という逆説である。
 
 これら二つの逆説は、いずれも無限遡行の問題を内包している。真理に到達する方法を求めるならは、さらにその方法を用いる方法をも求めなければならないだろう。この方法の探求は、さらに方法の方法を用いる方法、方法の方法の方法を用いる方法へと無限に続く。そして、その方法の正しさを証明しようとするならば、さらにその証明の正しさをも証明しなければならない。この方法論の探究もまた同様に無限に続くことになるだろう。
 
 スピノザの未完の方法論『知性改善論』(1677年)が直面した困難を整理するため、國分はフランスのスピノザ研究者ヴィオレットが提示した二つの方法の区分を紹介している。
 

 創出された方法とは、アドヴァイスを与え、障害物をあらかじめ知らせる方法である。対し創出的方法は、「一度かぎりこれを最後に(中略)」といった仕方でしか知られないし、描き出せない方法である。それは真理の発見に先行することができない。なぜなら両者は同時だからである。したがってそれは「アドヴァイスを与えることができない」。*2

 
 プラトンの対話篇『メノン』において、ソクラテスは二つの徳(アレテー)の定義を提示している。一つは、知識によって私たちを正しい目的地まで導く方法であり、もう一つは、知識によらずに私たちを正しい目的地まで導く方法、すなわち最初の地図を作成する方法である(97A-C)。前者は創出された方法に、後者は創出的方法に対応するだろう。
 
 真理は創出的方法によってしか発見できない。ゆえに真理の探究において創出された方法に頼ることは不可能であり、創出された方法を論じるほかない『知性改善論』は失敗を宿命づけられていたとヴィオレットは結論する。だが、國分はこの結論には納得しない。ヴィオレットの論考は「正しさのうえに胡座をかいている」。*3なぜなら、スピノザはそれら二つの方法の役割を同時に果たす哲学を構想していたはずだからだ。
 
 ここで私たちはふたたび「スピノザの方法とはなにか」という問いへと連れ戻される。それを解明するには、私たちは本書第二部において、國分とともにスピノザの『デカルトの哲学原理』(1663年)の読解に挑まなければならない。
 

観念の順序と方法

 
 スピノザは、『知性改善論』において真理探究の方法を次のように定義している。
 

 真の方法は、観念の獲得後に真理の標識を求めることには存せずに、かえって、真理そのもの、あるいは事物の想念的本質、あるいは観念(これらすべては同じことを意味する)が適当な秩序で求められるための道に存するということが帰結される。*4

 
 國分は、本書の第一部第二章の注3において、上に引用した岩波文庫の畠中尚志訳では「秩序」と訳されているordoは「順序」とも訳しうる語であり、この箇所の訳語はそちらのほうが適切であると指摘している。*5この指摘は、スピノザの『デカルトの哲学原理』を読み解く上で、きわめて重要な意味をもつことになるだろう。
 
デカルトの哲学原理』第一部においてデカルト哲学の解説をはじめるにあたり、スピノザは、『哲学原理』(1644年)の第一部ではなく、『省察』(1641年)の「第二反論への答弁」に付された「諸根拠」と呼ばれるテクストを利用し、デカルトがそこで提示した、定義、要請、公理、定理に徹底して手を加えていく。
 
 とはいえ、スピノザによるデカルト哲学の再構成は、そこに潜在する論理を取り出しつつも、あくまで「デカルトの思想」を維持し、その内部における整合性を強化する方向で進められている。そこで徹底されるのが、デカルト自身が順序に与えた次の規則である。
 

 順序なるものについてデカルトは次のように言っていた。「順序というのは、先行するものが後続するものの助けなしに知られねばならないということ、そして、後続するものは、それに先行するものによってのみ証明されるような仕方で配置されねばならないということ、ただこの二点にのみ存する」。*6

 
 國分は、スピノザが「諸根拠」に加えた、独自の定式化、省略あるいは削除、並べ替え、書き換えという四つの操作のそれぞれがなぜ必要だったのかを一つひとつていねいに解き明かしていく。この読解は本書のハイライトをなしており、デカルトが取り組んだ問いそのものへと遡り、その問いを批判し、そこに折り込まれた意味を展開しつくそうとするスピノザの思索を克明に再現していく國分の筆致は、あたかもスピノザその人であるかのようだ。國分は自身のブログにおいて、このスピノザによるデカルト読解を脱構築とも名指している。*7
 
 そこで導き出された解をつうじて、スピノザが再構成した命題群の配列のうちにある必然性を発見するとき、私たちはスピノザの方法まであと一歩のところに導かれているだろう。スピノザの方法とは、観念と観念の照応関係に内在する法則にほかならない。
 

新たな神の概念の創造

 
 デカルトの哲学原理の脱構築をつうじて、スピノザはみずからの神の観念を精錬する。スピノザは、デカルトの神の存在証明を再構成しながら、神の観念を構成するにふさわしい概念を厳しく選別していく。その過程において、たとえば「維持」という概念は神の特質にはふさわしくないものとして却下される。
 

 自己原因は自己維持ではない。有限な存在者についてと同様、無限な存在者についても「みずからを維持しうる」という表現は不適切なものとなる。この表現には放っておけば滅びていくという存在の事実と、その事実に歯止めをかける能力という二分法がこびりついている。しかし「みずからを維持しうる」のであれば、その能力は無限であるほかなく、能力が無限であるのなら存在と能力は分離しえないはずだ。*8

 
 神はみずからを維持しはしない。神においては、ただみずからを存在させる能力がつねに作用しているだけである。有限なものとの類比によって神を定義することはできない。
 
 そしてとりわけ重要なのが、ソルボンヌの神学者ルノーデカルトに提起した神が存在する理由を起成原因によって説明してはならないという批判の検討である。起成原因とはものごとが起こる原因のことだが、アルノーによれば、起成原因を問うことができるのは現実に存在するものだけであり、たとえば、三角形の内角の和が二直角に等しいのはなぜかという問いに起成原因によって答えることはできない。それにはそれが三角形の本質だからと答えるほかないだろう。同じことは神の本質についても言えるとアルノーは言う。この批判に対し、デカルトは神を自己原因と規定することによって答えている。
 
 スピノザは、神を自己原因とするデカルトの規定を踏襲しつつ、そこに新たな規定を付け加えている。それこそが、神は事物の存在ばかりでなく本質の起成原因でもあるとする規定である。それによって、事物の本質もまた原因なしに存在するのではなく、神という起成原因をもつこととなった。「もしアルノーの言うように三角形の本質が起成原因をもたないのであれば、神は万物の原因ではないこととなってしまうだろう」。*9
 
 この新たな起成原因の規定により、それまでにあった事物、存在、本質といった諸観念のあいだの関係は一変する。このような操作を、國分はドゥルーズに倣って概念の創造と呼んでいる。
 

 事物の本質はあくまでも事物の形相原因であるのだが、その本質は神を起成原因にもっている。また神にとっては、みずからが事物の本質と存在の起成原因であるということがみずからの形相原因であり、形相原因と起成原因は一致する。ある項目の意味が恣意的に変更されたのではなく、各項の間にある諸関係の全体が更新されているのだ。すべてを一遍に変形するとはそのような意味である。そしてこのようにしてある概念をめぐる諸関係を一変させることこそが、概念を創造することにほかならない。*10

 
 ここではもはや、スピノザの起成原因の定義はまちがっているというような批判は意味をなさない。概念の創造により、諸観念相互の結びつき、すなわち思考のイメージそのものが刷新されたため、いまやその批判はこの新たな諸観念の構成関係における整合性を破綻させる力をもたないのだ。そして、この新たな神の概念の創造により、スピノザの哲学は、ドゥルーズ内在平面として自身の哲学に継承することとなる独自の地平を確立することに成功する。
 
 このスピノザによる神の概念の創造の見事な分析は、國分がドゥルーズの方法を完全にみずからのものとしていることを示していると同時に、ドゥルーズが『哲学とは何か』(1991年)において展開して見せた難解な哲学原理を、この上なく明快な事例によって理解させてくれる最良の手引きともなっている。
 

デカルト主義の精神

 
 スピノザの方法の解明をつうじて國分が教えているのは、哲学は、なによりもまず問いを発見することからはじまるということである。問いに取り組むことによってはじめて、問いを解決する道も開ける。問いを発見できなければ、そもそもどこに道があるのかさえわからないだろう。しかし、私たちはどのようにして問いを発見すればいいのだろうか。
 
 本書の「あとがき」において、國分はデカルトへの共感を表明している。*11本書にいたる決して平坦ではなかった道がそうさせたということだが、その道中において、國分功一郎の方法をより精緻に鍛え上げたデカルト主義の精神を、私たちもまた学ばなければならないだろう。
 

 真理を探求するには、一生に一度は、すべてのことについてできるかぎり疑うべきである。*12

 
 デカルト主義の精神。それは徹底した懐疑の精神にほかならない。それこそが繰り返し、ねばり強く問う力を私たちに与えてくれるのだ。
 

参考文献

知性改善論 (岩波文庫)

知性改善論 (岩波文庫)

デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫)

デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫)

省察 (ちくま学芸文庫)

省察 (ちくま学芸文庫)

哲学原理 (ちくま学芸文庫)

哲学原理 (ちくま学芸文庫)

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)

哲学とは何か

哲学とは何か

*1:プラトン『国家』下,藤沢令夫訳,岩波文庫,1979年,p.309

*2:國分功一郎スピノザの方法』みすず書房,2011年,pp.77-78

*3:同前,p.85

*4:スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳,岩波文庫,1968年改版,p.33

*5:國分前掲書,p.92

*6:同前,p.171

*7:『スピノザの方法』と一七世紀以降の知の歪み | Philosophy Sells...But Who's Buying?

*8:國分前掲書,pp.224-225

*9:同前,p.236

*10:同前,p.240

*11:同前,pp.358-359

*12:ルネ・デカルト『哲学原理』山田弘明ほか訳・注解,ちくま学芸文庫,2009年,p.39